白銀の図書館 2 夏目漱石『草枕』(1906年)

 

夢十夜・草枕 (集英社文庫)

夢十夜・草枕 (集英社文庫)

  • 作者:夏目 漱石
  • 発売日: 1992/12/15
  • メディア: 文庫
 

 

 『草枕』の冒頭、「山道を登りながら、かう考へた。」から3~4段落は、いまでは大概忘れてしまったが、暗唱できた。教科書のことなど皆目覚えていないので、学校で習ったものかどうか見当がつかないが、夏目漱石を取り上げるなら、もっと違う作品がいくらでもあるように思う。もっとも、子供のころから授業というものをしっかりと聞く習慣がなかったもので、正確なところはわからない。

 

 いずれにしても、『草枕』がどんな小説かを理解したのは大人になってからで、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角人の世は住みにくい。」といった暗記していた文章から、後の人間関係に苦慮するたぐいの作品だと思っていたのである。

 

 だが、実際には、ある種の芸術家小説であり、17年以前に書かれた幸田露伴の『風流仏』に近しい。『草枕』の画家は、「非人情」を標榜するが、それは露伴における風流と似たものであり、いかに過酷な状況であろうが、いったん括弧に入れることによって、おかしみや滑稽さを見いだそうとする現実の層化からはじまり、鳥が空を、魚が水のなかを遊弋するような脱人間的な動物的な生を希求するものであったが、漱石の「非人情」は人間関係に対するある種のデタッチメントであり、この時期の漱石が、後に漢詩や俳句に分化させていった指向がいまだに渾然としている状態を示している。

 

 特に関係はないが、幸田露伴夏目漱石は、慶応三年で同じ年の生まれだが、文学的出発が15年以上離れており、漱石が小説を発表しはじめたころには、露伴は既に小説をほとんど書かなくなっていた。それに文学的な傾向も少なからず異なっていたので、言葉を交わしたことがあったのかさえよくわからない。いまちょっと確認できないが、漱石の書簡のなかには露伴の名前が幾度か出てきたと思うが、人物評や作品評ではなく、ごく一般的な固有名詞のひとつとしてでてきたように思う。だが、漱石の友人である正岡子規ははじめて書いた小説を露伴に見せにいっているし、漱石の一番弟子ともいえる寺田寅彦は、漱石の死後のことになるだろうが、露伴宅を訪れて話をするほど親しかった。

 

 露伴漱石のことをどう思っていたのかもよくわからない。ただ昭和三年に書かれた「普及版漱石全集を推す」と題された文章が残っていて、「筋の面白いもの、表現が奇なものなど文学にはいろいろある。然し自から品格があつて、いやみを持たぬものは尊い。処が現代には斯ういふ作品を求めたくても中々見あたらない。漱石氏の作品を見るにいづれも品格の点に於て申分がない。此の意味から私は如何なる家庭へも此の全集を推薦したい。」とあって、ある程度読んではいたようだし、露伴の性分からいって、思ってもいないことを書くとは思えないが、おそらくは親しかった岩波書店小林勇の頼みによって書かれたものではなかろうか。

 

 肝心の『草枕』の内容は、人間関係の煩雑さを避けるために旅をする洋画家が、温泉宿に泊まり、そこで夫と別れて戻ってきている美しい娘、那美のなかに、『ハムレット』のオフィーリアからラファエル前派にいたる溺死する女性というテーマを読み取る話である。熊本県の那古井が舞台になっているが、そこでは、二人の男に言い寄られた娘が、「あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」という『万葉集』の歌を残して川へ身を投げたという古い言い伝えが残っているという。

 

 那美は画題=テーマとしてとらえられているから、混浴の風呂場で一緒になったとしても、欲情を喚起されることはないし、「夜と昼との境をあるいて」、「金屏を背に、銀燭を前に、春の宵の一刻を千金と、さゞめき暮らしてこそ然るべき此装の、厭ふ景色もなく、争ふ様子も見えず、色相世界から薄れて行く」「超自然的情景」を現出したとしても、そうした幽明の境を行き来できる存在として認められるに過ぎないが、溺死する女性といい、ほどよい距離感といい、神秘的でありながらざっかけない言葉づかいといい、漱石作品の女性のなかでも、私にはもっとも魅力的な人物のひとりである。

 

 画家である主人公は、美しく十分神秘的でもある画題としての那美になにか足りないものを感じ、それが「憐れ」という情緒であることに気づく。しかし、画家は彼女の内面に立ち入ろうともしないし、夫と別れて実家に帰ってきた経緯の詳細を知ろうともしないので、具体的な実質を揮発させた漢詩的な艶っぽさだけが残っていて、漢詩的な小説の存在があり得ることを示したことでも見事であるし、ふとした瞬間に見せる那美の「憐れ」さによって短編小説的な(コント的な)結末を用意していることも心憎い。