各種の晴朗さ--アウエルバッハ、高橋たか子、長嶋有、藤野千夜、庄野潤三
アウエルバッハが言うには、ホメロスのテキストは背景がなく、くまなく光の行き渡った前景のみでできあがっているのに対し、旧約聖書にはどこに通ずるのか見通すことのできない奥行きと光と影との際だった対照がある。アブラハムが一人息子のイサクを生け贄として捧げることを神に命じられるとき、その命令は「未知の高みか深み」から発せられるが、ホメロスの神々は人間がいる世界と同じ世界、少なくとも地続きにある世界に住んでおり、人間の理解が届かない異質な領域から突然現れるようなことはない。つまり、ホメロスと旧約聖書との相違は、謎のない世界と謎のある世界の違いだといっていいかもしれない。
確かに、ホメロスと旧約聖書に描かれた世界だけをみれば、神々でさえ人間よりひとまわり大きいに過ぎないホメロスの謎のない世界と、理性や感覚や感情ではまったくどうすることもできない力にいつ不意討ちされるかわからない旧約聖書の謎だらけの世界とはまったく異なる。だが、そこに描かれた世界にではなく、両者の世界に対する対し方に眼を転ずると、ホメロスも旧約聖書に劣らないほど謎めいたものになる。
旧約聖書のように光によってできた影、眼で見ることのできない部分がどこにつながっているのかわからない世界を描くのも謎めいてはいるが、光の充満で影一つ落ちることがない世界をつくりあげたホメロスも同じくらい謎めいている。
同じくらい謎めいてはいるが、しかし、謎の性質は大きく異なっている。旧約聖書では、神はなにを求めているのか、人間の生の根拠は、この世界にはなにが欠け、どこに通じているのかといった解答不可能な問いが投げかけられている。
一方、ホメロスでは、光とそれを遮る物とそれによってできる影からできている我々の住み慣れた世界になにが加わることによって光の充満がもたらされるのか、太陽や照明以外のどんな光源があらゆる影をかき消してしまうのかが謎となる。言い換えれば、我々は完全な解答を手に入れているのだが、それがどんな問いに対する解答であり、どういう手段によってもたらされるかについては皆目見当がつかないのである。
アウエルバッハは、ホメロスと旧約聖書とをヨーロッパ文学における現実描写の源流として位置づけたが、両者はまた、小説がもたらすことのできるリアリティの二つの形をあらわしてもいる。ホメロスや旧約聖書の世界は、我々の日常とあい照らしてみればまったく「非現実的」であるにもかかわらずリアリティをもっている。
いわゆる「現実」と呼ばれるものは、ことが終わったあとですべてのことを問いと答え、原因と結果に再構成することによってできあがる、リアリティとは別種の静的なものである。
リアリティは、世界が非完結的なものであり、いまある我々が住まうのはできあがった「現実」ではないという確信のもとに生まれる。それゆえ、ホメロスや旧約聖書が投げかける答えのない問い、問いのわからない答え、我々の世界とのずれが変わることのないリアリティの源泉として生き続ける。だが、答えのない問い、問いのわからない答えといっても、それが「答えのない問い」、「問いのわからない答え」として類型化されるやいなやいまある我々のものであることをやめ、整序された「現実」を飾る装飾品になってしまうのはもちろんのことである。
ここであげるのは旧約聖書にそのリアリティの源泉をもつような、どこからくるのかわからない得体のしれないものに答えのない問いを投げかけられるといった類のものというよりは、ホメロスに由来する、なぜかすべてがあるべき場所に収まったかのように調和してしまうことのリアリティを感じさせるものである。
第一次世界大戦に従軍したミシェルは、怪我もないのにそれまでの記憶をまったく失った状態で発見される。両親に話しかけられても「認知」はしているようだが、本来あっていいはずの「愛憎」が欠けている。「或る瞬間に、一切が、わからなくなったのだ。一切が、自分が、外界と内界の全体が」と彼と会話を交わした神父は言う。
高橋たか子の『きれいな人』は、このミシェルという人物のもつ謎をめぐって進められる。彼は過去の記憶はなくしているもののそれ以後の記憶は溜まっていくらしく、漁港で普通に生活し、第二次世界大戦のときには亡命者をスペインに逃がすという危ない仕事もするのだが、それ以後は修道院に入り、静かな余生を過ごす。
表題にもなっている「きれい」ということの意味は修道士になったミシェルの口から明らかにされる。「人は誰でも、日常生活の中ででも、自分の内部へ入っていく機会があると、いわゆる記憶や忘れていた記憶や、あるいは、そこから派生する幻の群に出会うのだが。祈りの生活においては、祈りが内部の底まで入っていく深いものであればあるほど、そうしたものの出現にまどわされてしまう。しかしまた、祈りのおかげで、そうしたものの浄化されていく方向へ入る」、そうして「すべてがきれいにされ」るのだと、戦争で強いられた記憶の欠落を、自らの意志で、祈りのよって獲得するのだとミシェルは言う。
一見、これは信仰がすべてを浄化するという宗教の喧伝のようにも、市井のなんでのない人間のうちに聖なるものが宿るという聖人伝の類型のようにも思われるのだが、ことはそれほど単純ではない。
この小説は、四十年前からの知り合いであるフランス人女性の百歳の誕生日パーティに招待された語り手が、パーティの手伝いに来ているこちらも高齢の女性イヴォンヌから話を聞くという構成になっている。ミシェルの話をするのは彼女であり、ミシェルを「きれいな人」として成り立たせているのは彼を一目見た途端愛してしまった彼女の無条件の愛情なのである(ミシェルと彼女は話をするだけの間柄である)。
ミシェル本人に誰もが惹かれるような人間的な魅力があるのかどうかも疑わしい。関係のあった娼婦は「お前さんは欲望だけでわたしたちのところへ来る。誰だって欲望だけで来るんだけれど、欲望といっしょにその人その人の人間というものを持って来るのだ。ところが、そこが、お前さんにない。すっぽり欠けている。ああ、もうたくさんだ!」とミシェルに絶交を宣言する。「きれい」というのはそれほど一義的な安定した意味をもつ言葉なのではなく、人間的な欠損を意味するものでもあるようなのである。
祈りがすべてを浄化するのだと聞かされてもイヴォンヌにはそれがどういうことなのかよくわからない。にもかかわらず、わからないことまで含めて語らずにはおれない根拠のない衝動がミシェル本人そのもの以上のなにかを語り手である「私」に伝える。「私」を招待してくれた女主人は高齢で話すことができず、「私」を「私」として認めてくれたのかどうかもわからない。だが、パーティで渡された彼女が若いときから書いてきた詩をまとめた私家版の詩集は会話を交わす以上に彼女のことを語っているようでもある。
女主人はミシェルに会ったことはないが、イヴォンヌと彼とのことについて折々に本質的なコメントを加える。イヴォンヌが「私」にミシェルの話を語り始める前に「あなたが八十年以上も前の時に立っておられて、私に、そこから電話をかけておられる、といったふうに私は受話器を耳にあてましょう、何とぜいたくな電話ですこと!」と言うが、実は、謎なのはミシェルなどではなく、飛び火のように拡がる話によって、いつの間にかある種の理解を共有するネットワークができあがる不思議さが「きれいな人」が提示する謎なのである。
長嶋有の『ジャージの二人』では、仕事を辞めて小説を書くことに専念しようとしている「僕」が夏の終わりを父親と一緒に山荘で過ごす。「僕」の不安は先行きのしれない仕事のことばかりではない。妻が職場の先輩とつき合っていて、最近はあまりうまくいっていないらしいのだが、彼の子供を産みたいと思っている。「僕」はそれをみんな知ってはいるが、自分から別れることも、やり直そうと言うこともできない。それでも、自宅に電話をかけ妻が不在なのを知ると嫉妬で心を満たすのである。
別荘地の山荘での父親との生活は、特に事件らしい事件が起きるわけでもなく、平穏に過ぎていく。だが、その平穏さが、ある種装われたものであることを「僕」は意識している(電話で妻に「充実してるのかあ」と言われた「僕」は「ちがうよ。『充実』をしてるんだよ」と言い返す)。つまり、日常生活の平穏さがいかに危うい均衡の上に成り立っているか、平穏さの下にはそれを支える固い地盤などがあるわけではなく、どこにつながるともしれない暗い穴が開いているだけではないか、といった古馴染みの状況が描かれている。
それはいくらでも繰り返し語られていいテーマだと思うが、この中編では挿話や情景がその状況をあまりに安易に象徴してしまっている。レタス畑の真ん中のある場所でだけ携帯電話の電波が入るという挿話や、くみ取り式の便所で「上の方まであった糞尿は綺麗になくなって暗黒の穴だけがみえた」というような場面がそれで、欠如のイメージとして類型的である。
しかし、この作品でむしろ注目すべきなのは、不安がひたひたと打ち寄せているのにほとんど揺らぐことのない父親との安定した関係である。不安を喚起するイメージよりもそうしたイメージに頼らない父親と取り交わす会話の方が文章として強いために、やはり「僕」が言うことよりも妻の言うことの方が正しくて、「僕」は「充実して」いて、不安の方が装われているように読む者には感じられるのである。
便秘なので浣腸が必要でも、女性だからなかなか恥ずかしくてそれを薬局に買いに行けなくとも、双子の兄が買ってきてくれなくとも、薬局に行けば行ったで浣腸なんかより体質そのものを変えなきゃと強引に説得されて高い薬を買わされても、題名が事件とうたっているにしても、藤野千夜の「薬屋事件」(『彼女の部屋』所収)には事件が投げかける問いかけはなく、ある解答が、晴朗な気分の横溢がある。しかもそれは生命力の高まりといった大仰なものではなく、
「薬はさあ、明日また自分で買いに行けよ。べつの薬局とかあるんだろ」
と真一が言った。ヒゲをまた指先でなでている。
「うん。駅の反対側だけど」
「多めに買って、おいとけ」
「うん」
とひとみは言った。少しあくびが出そうだった。
といったところに見られるような、こみ上げてくるあくびが身体中に安逸を行き渡らせるときのあの感覚なのである。
晴朗な気分ということで言えば、庄野潤三の『メジロの来る庭』を逸することはできない。それこそ晴朗な気分が均質な空間の隅々にまでくまなく行き渡っているので、どの部分をどれだけ切り取ろうが問題はないだろう。しかし、この影一つささない空間が枯淡の境地などという衰弱から生まれるものではなく、なにか新しい光源を導き入れることで初めて維持されるものであることは強調しておく必要がある。