幸田露伴を展開する 1

 

芭蕉全発句 (講談社学術文庫)

芭蕉全発句 (講談社学術文庫)

 

 

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 夏目漱石などとは異なり、幸田露伴は筆無精であったらしく、全集で書簡に一巻分を当てられているが、特定の時期を除けば、実務的な内容のものがほとんどであり、それ以外にも、新聞や雑誌から寄せられたアンケートに答えたもの、公表を前提として書かれたものが多い。特に明治二十三年には、毎月のように各種新聞や雑誌に書簡を公開している。

 

 明治二十三年七月、旅先の赤城山地獄渓から坪内逍遥にあてた長文の書簡もまた、郵便報知新聞の七月二十一日号・二十三日号に「造化と文学」と題して掲載された。

 

 その文章には「昔の人書を著はすに多く自ら名を題せず後の人称呼に便するがため恣まゝに之に名くるのみ故に一書にして数名を具する者少からず、是れ唯た露伴子が赤城山中より東京の某先生に貽りたる尺牘の一段に過ぎず恣まゝに題して『造化と文学』といふ必ずしも他の意にあらず然れとも我は只吾が称呼に便する所を用て之を名くるのみ何ぞ他に関せん」と注してあった。つまり、同じ文章が題名がないために、複数の名で呼ばれることもあるので、かりに「造化と文学」と題しておく、という編集者であろうか、の言葉が付されている。この時期、すでに露伴坪内逍遙が知り合っていたことは確かだが、どんな経緯で坪内逍遙当ての書簡が公開されたかは明らかではない。

 

 赤城山の地獄渓にいったことについては、露伴は別に『地獄渓日記』という紀行文を書いている。逍遙宛ての書簡の内容とも呼応するものがある。明治二十三年六月三十日、思い立って、上野から汽車に乗り、前橋に着く。日が暮れたので、油屋という宿に泊まる。そこは、去年の一月にも泊まったことがある場所で、気心も知れていて、都合がいいと思ったのである。どうやら毎日何人もの客の応対をしているのであるから、自分のことはおぼえていないようだが、去年は少女らしく銀杏返し出会った女将がいまでは丸髷になり、客の取りさばきといい、下女への言葉といい、見違えるように世慣れている。

 

 露伴はこの旅行で、芭蕉の死後、文政十年に編集・刊行された、『俳諧一葉集』だけを持参してきたらしく、見違えるように変わった女将の姿を見て、「行末は誰が肌ふれん紅の花」、紅の花を見て、それが口紅や染料となって、どんな女人の肌に触れることになるだろうか、という句に、世の中のとどまることのない変遷を感じ取る。

 

 そして、また『一葉集』をめくっているうちに、「鼓子花の短夜ねぶる昼間かな」という句に突き当たって、「句の意の分らぬを考ふるに考へまとまり難し」と匙を投げている。「鼓子花」は昼顔の漢名で、「ひるがお」と読む。加藤楸邨の評釈でも、「昼顔の花が、短夜を眠るやうに、自分は、昼間をうつうつと眠ることであるとの意か。」といい、「なほ充分納得がつかない」と解釈の教えを請うている。

 

 七月一日、朝早く前橋から人力車で小暮、小暮で馬を借りて進むが、難儀なことに途中から雨が降り出し、箕輪を過ぎて地獄谷にとどまる。地獄谷は、地蔵峠のもとにあり、西に高い山があり、それに荒山、鍋割山が続き、三面を山に囲まれて、一面だけがわずかに開けている。本来はその先の大洞まで行く予定だったのだが、風景が美しいこと、亭主を含めた四人がみな好人物で、なにもないことが気に入ったらしく、ここに滞在することにする。

 

 七月二日、三日は原稿を書く。七月四日、部屋のなかに蝶がはいってくる。追うまでもないとそのままにしていたところ、いつの間にか眠ってしまったらしい、ふと頭を上げると肩から飛び立つものがある。先ほどの蝶である。

 

 蝶ひとつわれに添寝の山家かな

 飛ぶ蝶に我俳諧の重たさよ

 梅雨晴れに硯の乾く眠さかな

 

 

 露伴は興を感じてこの三句をつくる。

 

 原稿を書き続けて、七月十二日に『一口剣』を書き終える。清書にかかると、百枚以上になるようで、驚いて、削りに削った。十語を消して一語にする面倒さは創作などよりずっと味気ない。そして、七月十五日に自宅へ戻る。芭蕉の俳句はそれ以外にも数句引用されており、10ページに満たないこの紀行が、旅人としての芭蕉、自然に対する芭蕉の姿勢を改めて学ぶものだったことが、逍遙宛ての書簡にも見て取れる。