雉子とかたつぶり--幸田露伴「芭蕉と其角」
明治二十年代に人気作家となり、紅露時代と呼ばれるものを画した尾崎紅葉と幸田露伴は、坪内逍遙がイギリス文学、森鷗外がドイツ文学、二葉亭四迷がロシア文学にそれぞれ影響を受けたのに対し、江戸文学のなかで忘却のうちに沈んでいた井原西鶴の影響を受けて文学的な出発をしたと言われている。
確かに、露伴は再発見された西鶴を最も早く読んだうちのひとりであったろうが、それほど深い影響を受けたとも思えない。たとえば、滝沢馬琴などのほうがずっと長いつきあいだったことだろう。明治二十三年の「井原西鶴」という随筆では、前年にはじめて会った坪内逍遙が、自分のことを西鶴崇拝者のように扱うのに答えて、どうして明治の聖代に生まれたものが、すでに枯れ果てた骨の残り香に自分の生命を託そうか、筆一本に真の血、真の涙をしたたらして文をなすものにとって、西鶴といえども馬前の塵に過ぎない、と答えている。
ずいぶん大げさだが、二十歳代の客気もあるし、本来は文語文なので、役者が見得を切っている具合である。実際、西鶴の名前は露伴の文のなかで、さほど言及されることもない。
同じく明治二十三年に発表された「芭蕉と其角」における芭蕉の扱いとは対照的である。のちに、芭蕉とその門人たちの連句、発句を集成した『七部集』の注釈までした露伴が、書簡などを除けば、おそらく芭蕉を始めた取り上げた文章で、芭蕉とのはじめての接触についても書かれている。
それによれば、はじめて読んだときには、たわけた老人がなにを言っているのかと冷然と見過ごしていた。二度目には、繊細で巧みだと思った。次に読んだときには、無味だと思い、それからは淡泊と感じ、閑寂だと見なし、翻って虚偽だとののしることもあったが、ついには評する言葉がなくなり、一句一句とともに悲しみ、楽しむようになり、最後には句集を手放すことができなくなってしまったという。そんな露伴が、芭蕉と其角の同趣向(主として題材)の句を取り出して、両者の違いを浮かび上がらせている。
三井寺の門敲かばや今日の月 芭蕉
名月や居酒飲まむと頬かぶり 其角
三井寺は近江国滋賀郡大津市にある天台宗寺門派の本山。同じく滋賀に石山という古来からの観月の名所があり、それをあえて同じ場所の三井寺に言いかえたところに芭蕉の趣向がある。其角の「居酒」は居酒屋での酒。
蝶について。
蝶の飛ぶばかり野中の日かげ哉 芭蕉
夕日影町中にとぶ胡蝶かな 其角
魚。
白魚に値あるこそ恨みなれ 芭蕉
親睨む鰈魚を踏まむ汐干哉 其角
鴉。
枯枝に鴉のとまりけり秋の暮 芭蕉
冬来ては案山子にとまる鴉哉 其角
雉子
父母の頻に恋し雉子の声 芭蕉
世の中は何かさかしき雉子の声 其角
鵜
面白うてやがて悲しき鵜舟かな 芭蕉
鵜につれて一里は来たり岡の松
胡蝶
起よ起よ我ともにせんぬる胡蝶 芭蕉
猫の子のくんづほぐれつ胡蝶哉 其角
などと挙げていっているが、其角については
かたつぶり酒の下物に這はせけり
などの一句が「隠せぬ本来の気風」なのだろうと推察している。一方を上げて、他方をおとしめるつもりはないと繰り返しているが、露伴の好みは明らかなようだ。其角は思わぬ発想で読むもの、聞くものを驚かす。
芭蕉は一見平淡で、まねできそうに思うが、時間がたっていざ試みてみると、まねようとしてもまねられない及びがたさを感じるのだと書いている。