見知らぬ女の肖像ーーヘンリー・ジェイムズ『ある婦人の肖像』

 

ある婦人の肖像 (上) (岩波文庫)

ある婦人の肖像 (上) (岩波文庫)

 

 

 

ある婦人の肖像 (中) (岩波文庫)

ある婦人の肖像 (中) (岩波文庫)

 

 

 

ある婦人の肖像 (下) (岩波文庫)

ある婦人の肖像 (下) (岩波文庫)

 

  私が読んだのは国書刊行会の一冊本だが、いかに記す理由などによって、文庫のほうが読みやすいでしょう。訳者も同じく行方昭夫です。

 

 大昔に『ねじの廻転』を読んで興奮したが、それ以降ヘンリー・ジェイムズにさほど縁がなかったのは、それほどしっかりと日本で紹介されたことがないためで、考えてみれば不思議なことだが、怪奇小説の関連で『ねじの廻転』に触れられることはあっても、私が好きな作家たちが書いたもののなかで、ヘンリー・ジェイムズについて書かれたのを読んだことがない。
 
 私が読んできた人たちが圧倒的にフランス文学畑の人が多かったこと、そうした人たちはおおむね私の親世代よりも上だったわけだが、シュルレアリスムの洗礼を受けたり、より前の世代であれば、ボードレールランボーに啓示を受けたり、アポリネールリラダンにさかのぼったり、ジッドとともにドストエフスキーに傾倒すること、より新しいヌーヴォー・ロマンの作家たちとともにカフカを評価することはあっても、あるいはまた、日夏耿之介矢野峰人のような世紀末趣味を前面に押し出した人たちはともかく、福原麟太郎中野好夫などの英文学者、ヘンリー・ジェイムズを英国文学の大いなる伝統のなかに位置づけたニュー・クリティズムを中心的に扱っている(当然のことながら批判的にだが)『英国の近代文学』のような著書を初期においてあらわした吉田健一にしても、その数多い文章のなかで、ヘンリー・ジェイムズに触れた箇所を思いだすことができないのである。
 
 にもかかわらず、短編集しか読んでいないにもかかわらず、なぜか私はヘンリー・ジェイムズへの関心をとぎらせることはなく、各種の文学全集で一冊くらいは当てられているものは買っていった。1980年代には国書刊行会から全8巻の作品集が出たのだが、それまでに買った全集の端本などで『ボストンの人々』などは途中まで読んではいたものの、なぜか途中で読むのを中断してしまい、相変わらず私にとってのヘンリー・ジェイムズは『ねじの廻転』のジェイムズから一歩も出ていない状態であってみれば、豪華な作品集を買うまでにはいたらず、ヘンリーよりも兄である心理学者でもあれば哲学者でもあるウィリアムにより親しい状態が続いていたのだが、2010年も過ぎ、古本が止めどなく値崩れしていくなかで、安定した不人気を誇るジェイムズの作品集のさほど状態のよくない揃いをようやく手に入れることができた。
 
 そして『ある婦人の肖像』を読み始めたのだが、読み終わるのに三年かかってしまった。とはいっても一日に一ページずつ読んでいたわけではなく、第一に私の昔からの読書法で、もはや直すに直せないのだが、何十冊平行して読んでいようがまったく平気なことがあって、読んでいるときにはつまらないことはなかったのだが、ほかに読む本ができて中断することが何度かあり、第ニにはこれもまた私のだらしない習慣のせいで、寝っ転がって本を読むことが多いのだが、大冊で700ページを超える本を支えていることができないために、机を使わなければならず、キーボードや小物でただでさえ散らかっている机をまずはかたづけなければならないことが億劫だったのである。
 
 しかしながら、三分の一を越えたあたりからは俄然面白くなり、ほとんど一気に読み上げた(でも、寝るときには違う本を読んでいたが)。
 
 ジェイムズの創作活動はほぼ三つの時期に分けられており、『ある婦人の肖像』は「国際状況」を描いた第一期の代表作だといわれている。「国際状況」というのはより簡単にいってしまえば、映画でいうところの『巴里のアメリカ人』であり、つまりはヨーロッパにおけるアメリカ人ということになる。
 
 アメリカの娘イザベル・アーチャーはイギリスで上流に属し、銀行を経営している男性と結婚した伯母の屋敷に滞在している。そこには聡明ではあるが肺病を患っている従兄弟も同居している。彼女はアメリカでも求婚者をもっていたが、イギリスでの上流階級とのつきあいのなかで、ウォーバトン卿という貴族にも求婚されるが断ってしまう。彼は開明的な貴族であり、縁談を断ったことに周囲も驚きを隠せない。
 
 このあたりまで読んだとき、私はてっきりこれはオースティンの『高慢と偏見』にアメリカの娘が迷い込む話であり、紆余曲折があった後に、二人が結ばれる話なのだと思った。
 
 実は、国書刊行会の作品集には各巻の冒頭に小説家である中村真一郎の序文が置かれてあり、そこにはあとで読んでみると話の筋がほぼ書かれているのだが、三年前に読んだこの文章のことなどすっかり忘れていたのである。
 
 「肖像」というのは実に見事な題名であり、モナリザが端的に示しているように、精緻に描かれれば描かれるほど、対象であるはずのその人物は謎に包まれていく。物語が動き始めるのは、全体の三分の二を超えたあたり、つまり750ページほどある本の400ページを超えたあたりからであり、そこまではいわばイザベルという主人公をめぐる日常が丹念に描かれていき、その礼儀正しく、自立心に富んでいて、聡明でいて繊細な感情に恵まれている様は見て取れるのだが、恋愛に必須なものであるその真の魅力については巧妙に避けられているように感じる。
 
 その魅力のために、ウォーバトン卿は求婚し、従兄弟であるラルフは、死を眼前にした父親に頼み込んで、自分が相続する遺産を裂いて、イザベルが一生生活に困らないだけの遺産を残してくれるように頼み込むのだが、読者である私にはまさしく肖像画のように、かろうじて気韻として伝えられるだけなのである。
 
 いわば肖像として動くことを拒否していたかのようなイザベルが、はじめて積極的に行動し、物語が動きだすのが、三分の二を超えたあたり、イタリアに住むオズモンドという男と恋に落ちることだった。彼は知的で芸術について詳しく、魅力的な男性なのだが、彼女の周囲の人物は二人が結婚することについてはみな反対する。全五十五章あるこの小説の三十五章と三十六章のあいだは時間が飛んでおり、その間にイザベルは皆の反対を押し切ってオズモンドと結婚し、最初の子供を流産で亡くしている。
 
 揺るぐことがなかった彼女の幸福感に満ちた生が消え失せ、夫であるオズモンドとの関係もすでに冷ややかなものとなっていることが示される。高雅であると感じられたオズモンドは、実は彼女の財産を当てに結婚した俗物であることが間接的に書かれるのだが、なによりも世間の目が気になるために、世間に対して超然とした姿勢を崩さない俗物なるものを、単に俗物として退けられるだろうか。夫婦間が冷え切っているからと行ってオズモンドは暴力的になるわけでもなければ、冷淡さを露骨に見せるわけでもなく、描かれている対応をみれば結婚以前の姿と変わらない。悪役とはかたづけられない謎めいた人物なのである。
 
 イザベルは従兄弟のラルフの死を看取り、身一つであればアメリカに帰ることも、その他無数の選択があるなかで、イタリアにいるすでに愛情のない夫の元に戻っていく。
 
 つまり、イザベルが真に行動したのは、小説においては飛ばされている三十五章と三十六章とのあいだ、結婚し、子供を失い、夫への愛情をなくすことにおいてであり、小説の現場においては一切が謎であり、肖像として、つまりはその人物を現に知っている人間に対しては思い出の糸口として尽きることを知らない種となる顔が、その人物の実際を知らない人間にとっては、魅力的な顔であればあるほど、同時に謎めいたものになるという仕掛けを小説において圧倒的な筆力をもってしあげるとどうなるかという好例がここにある。

名人の系譜――古今亭志ん生『祇園祭』

 

古今亭志ん生 名演大全集 7 はてなの茶碗(茶金)/祇園祭り/探偵うどん

古今亭志ん生 名演大全集 7 はてなの茶碗(茶金)/祇園祭り/探偵うどん

 

  謎めいた落語がいくつかある。『祇園祭』がそのひとつなのは確かである。内容に特に不明瞭な点があるわけではない。もっとも、古今亭志ん生が語ったものしか聞いたことがないことは問題であるかもしれない。というのも、私の聞いたヴァージョンは二十五分弱の録音なのだが、だいぶん省略、あるいは編集されているようだからである。


 ある男が無尽(互助的な籤のようなもので、掛け金を出し合い、抽選で集まった金を当選者に配当する)に当たる。ところが、男の家は、宵越しの金を持たないことを信条とする江戸っ子の家だったものだから、つまらないものにはいりやがって、と親父に家を追い出されてしまう。

 

 そこで男は友達二人を連れて京・大坂の見物に出ることにする。その道中にはほんの触りだけだが、別の噺である『三人旅』の都々逸を言い合いながら歩く一節が出てくる。そうしているうちに京都に着くのだが、ここまでに十分以上の時間が使われており、本来の噺である『祇園祭』にはもう十数分しか残されていない。


 京都に入った三人は宿屋に行く前に風呂に行こうと八百屋に尋ねるとここにあるという。頼んでみると、湯ではなく柚子をもってきた。風呂屋と言わなければならないらしい。三人で京見物をして、ひとりは京に知り合いがいるので残り、残りの二人は江戸に帰ることになる。

 

 残ったひとりはその後もいろいろなところに連れて行ってもらうが、興味を持つ様子も見えない。祇園祭の日、今日こそは感心させてやろうと京の知り合いは自慢を続けるが、男も負けずに江戸の祭りを自慢し、両者ともに囃子を歌い合い、御輿のかつぎ方を見せあう。ここで志ん生の『祇園祭』は終わってしまうのだが、落後事典などを見ると、話の本筋はそれ以後にあるようなのだ。


 芸者を呼ぶと、あらわれたのがおよくという妓で、客の顔を見れば商売を聞き、商売ものをねだることで有名だった。最後に江戸の男も商売を聞かれ、俺は隠亡だ、と返す。妓はちょっとたじろいだが、私が死んだらただで焼いておくんなはれ。

 

 この噺が謎めいているのは、本来は京見物の部分や、ねだってばかりいる芸者とのやりとりがどこまで詳しく描かれ、滑稽なものとなっているかが(何しろ志ん生のひとつのヴァージョンを聞いただけなので)まるでわからないことにもあるが、もうひとつ、明治以来の最大の名人と言われる円喬の代表作とされていることにもある。


 『落語大百科』では、石谷華堤、小島政二郎、六代目三遊亭圓生林家正蔵の文章を引用して、円喬がいかに名人であったという証言を引きだしている。『祇園祭』に関しては特に京都弁が完璧であったことが言われている(志ん生は関西人ではない私が聞いても相当に出鱈目だ)。だが、江戸弁と京都弁の使い分けが完璧であることが、それほど価値のあることなのだろうか。というのはつまり、不世出の名人たらしめるほどのことなのだろうか。円喬の十八番として伝えられているもののなかでも、たとえば『鰍沢』などであれば、土地の描写があり、物語の起伏があり、色気もサスペンスもあるからそれを演じる際のうまさが想像しやすい。


 しかし、『祇園祭』は結局のところ、江戸っ子と京男が自慢しあうだけの噺であって、何も突出したところがないだけに謎めいている。これを、たとえば文楽の『馬のす』と置き換えてみると、想像しやすくなるのではないだろうか。『馬のす』は、釣り糸代わりにしようと馬の尻尾の毛を抜いたのを見ていた友人が、そんなことをしたら大変なことになる、と逃げだしてしまう。心配になった男は酒と肴まで出して、どういうことになるんだ、と問いただすと、馬が痛がるんだよ。

 

 こちらも『祇園祭』同様、ほとんどなんの内容もない噺であり、おそらく、桂文楽をまったく聞いたことがないものに、筆記本だけ見せて名人の十八番だと告げたとしても、訳がわからないのではないか。声の質、抑揚、強弱、あるいは完璧な京都弁と江戸弁との遅滞ないやりとりなどが完成していれば、それがそのまま噺の完成にいたる場合もあって、その点で円喬と文楽とは同じ系譜に属している。

性の煉獄――バクシーシ山下『セックス障害者たち』

 

セックス障害者たち

セックス障害者たち

 

 

 学生時代、野坂昭如吉行淳之介を読みふけっていたとき、宇能鴻一郞もそこそこ読んだ。「アタシむっちり色白の高校教師なんです」といった独白体官能小説しか読んだことのない者には想像もできないだろうが、初期の(という意味は、「鯨神」で芥川賞を取ってから独白体の量産体制に入るまでのということだが)宇能鴻一郎は陰惨でグロテスクな物語ばかりを綴っていた。独白体が一世を風靡したあとは、宇能鴻一郎川上宗薫や富島健夫とともに官能小説家に分類さたが、この頃の小説はむしろ野坂昭如沼正三に近いものだった。


 そこには「正常な」性愛など全くない。死体愛好、スカトロジー、近親相姦、フェティシズム、人肉嗜食などなど、いま手もとに本がないので具体的に辿れないのが残念だが、SMでも、団鬼六のようにぎりぎりの限界に踏みとどまることで情感を高めるよりは、安々と敷居を乗り越え破滅に向うものが多かった。一言で言えば、実効性など念頭に置かない観念的な性が追求されていたのである。


 私がそうした作家たちのものを読んでいたのは、性的関心も入りまじっていたが、性的なものが人間にとって本質的なものであり、聖的なもの、あるいはサドのように形而上学に直結するものだとも思っていたからだった。正直なところ、ここまで性が風化するとは想像もしていなかった。もちろん、ジェンダーや人権との関連はいまでも大いに問題になっているのだが、性を多かれ少なかれ神秘的に包んでいた靄はきれいに吹き払われてしまい、恋愛として盛んに取り上げられているのも見世物としての恋愛で、そこには生をかけた切迫感もなければ、それを補うかのように、恋愛相手と世界とを引き替えにするいわゆる「世界系」が登場するほどに形骸化してしまっている。


 『セックス障害者たち』はAV監督のバクシーシ山下が自作AVの撮影経緯を記したものである。ここでもまた、さすがに死体愛好こそないが、スカトロジー、SM、監禁、虐待など「異常な」性愛に事欠かない。脂肪除去手術で取った肉を食べる人肉嗜食さえある。しかし、それが野坂昭如宇能鴻一郎と決定的に異なるのは、観念による転倒がないことにある。


 彼らは「正常な」性愛を観念によって或は拡大縮小し、或は歪め、或は裏返しにした。そうして得た新たな枠組によって精神と肉体とのこれまで気づかれなかった緊張関係が浮き彫りにされた。観念的であることによって読む者、見る者に直接訴えかける力が減じるわけではない。そのことは、1960,70年代の映画や漫画を見たときに感じられることでもある。その暴力や性愛や葛藤の描き方にひりひりした感じを味わう人も多いに違いない。


 確かに、いまの方が即物的な残酷描写は特殊効果や画像処理によってますます精緻なものになっている。だが、それは、例えば腕が切り落とされるときの、銃弾が身体を貫通するときのこうもあろうという痛みの感覚を仮想現実のなかで喚起させてくれることはあっても、腕が切り落とされることの、物質が身体を貫通することの意味を伝えてはくれない。


 バクシーシ山下の本が持つ奇妙な手ざわりは、同じように意味が全体にわたり欠落しているところにある。どれだけ「異常な」セックスが行われても、要するにただそれだけである。肉体は観念を身にまとうから肉体として存在する。そもそも観念の存在しないこの世界には肉体も存在しない。意味という衣をまといやすい性がここまで剥きだしになると、快楽も苦痛もない鈍いある感じだけが拡がり、或は煉獄とはこんな場所ではないかと思えてくる。

 

数学という言語と想像力ーー瀬山士郎『数学 想像力の科学』

 

  この本を読んで、深く溜息をついてしまった。もっと早くわかっていたら、ということがあまりにも多かったからだ。学生のころ、数学に夢中になっていた時期があった。雑誌『数学セミナー』を毎号のように買い、ポアンカレからはじまり、ヘルマン・ワイルやルネ・トムのようなものまで読みあさったが、いかにも古風なフランスの知識人らしく、機知のある一般的エッセーを残したポアンカレはともかく、その他はとても読んだといえるものではなかった。思えば当然である、算数といっていた時代からよい成績をとった記憶がなく、中高生程度の数学さえ理解していないものが最先端の現代数学などわかるわけがない。


 この本を読んでよくわかるのは、数学とはひとつの言語であり、世界的に共通ではあるが、それを知らないものにとっては意味のない外国語だということである。思い返せば、数学の本を読んでいた私は、ABCをおぼえたばかりでジョイスを読もうとするようなものだったのである。「数式という記号で書かれた文章を読みとる」ことが数学の基本中の基本であることに愚かにも気づいていなかったのだ。言語を習得するには、語彙を増やすという単調な労力が必要なように、数式を読みとるにも単調な計算を積み重ねることが不可欠である。


 啓蒙書としての外貌に騙されてはいけない、多層的な本である。もちろん、現代数学のトピックを一般的な言葉に置きかえた啓蒙書としての側面ももっている。ガリレオニュートンからゲーデルやコーヘンのように現代思想に直結するような数学者にまで言及する思想史的な側面もある。だが、凡百の啓蒙書のようにエピソードを書き連ねてわかったような気にさせてくれるのに反し、あえて数式を交えることをいとわない。

 

 「計算技術の習得をおろそかにしたのでは計算の構造が理解できません。電卓があるにもかかわらず私たちが計算技術を学ぶ大きな理由は、数学の技術を学ぶと同時に、計算の構造を知り、数の構造を知るためなのです。」と数学という外国語を学ぶには厖大で無駄とも思える単調な労力が必要であることを教えてくれる真に「教育的な」本でもある。


 キーワードとなっている想像力についても、それを放恣で自堕落な空想と取り違えてはならない。いまあげた引用文のすぐ後に、「仕組みを知り、意味を学ぶことこそが想像力を養う一番大きな基礎です。」と続けられていることからもわかるように、想像力とはそうした単調な労力ののちに訪れる跳躍の謂である。そしてまた、数式を一般的な言葉にかえるということは、ジョイスを翻訳するように、確かな言葉を得るための跳躍の連続であり、数式と日本語のどちらにも習熟していることが必須なのである。いわばこの本は自らの想像力の実践の場でもある。


 数学に夢中になっていたとき、もっともあこがれたのは数学でよく使われるブリリアントな証明ということだった。一本の補助線を引くことによって、全体の構図が一挙に浮かびあがる、そうした出来事にはいかにもブリリアントという言いまわしがふさわしいように思えた。ブリリアントな魅力に満ちた一冊である。

思い切りと度胸――夏目漱石『坊っちゃん』(1907年)

 

坊っちゃん (新潮文庫)

坊っちゃん (新潮文庫)

 

 

 実に久しぶりに『坊ちやん』を読み返した。辛気くさい後期の漱石作品とは異なり十分楽しく読むことができる。それにしても、長い時間を隔てているというのに、どこかで会ったおぼえのある人物に出くわしたような困惑とよそよそしさが感じられない。

 

 思えば、それも当然のことかもしれない。新しい環境に入り、新しい人間関係のなかで生じるよそ者に対する反発(生徒たちのいたずら)、同僚の間での共感(山嵐)と反目(赤シャツやのだいこ)、淡い憧憬の対象である異性(マドンナ)といった設定は、学校を舞台にしたドラマのみならず、あらゆる場所で巧みにあるいは稚拙に繰り返されており、我々はものごころついてから先、『坊ちやん』の無数のヴァリエーションを読み、そして見聞きしているはずなのである。

 

 それでも、『坊ちゃん』にはそうした数限りないヴァリエーションとは大きく異なる点が認められる。それは、主人公である坊ちゃん、つまり外部からやってきた闖入者が、騒動こそ巻きおこすものの、なんの解決も、環境の変化ももたらさないことで、それが凡百の類似品と『坊ちやん』とを分け隔てている。

 

 ちょうど『吾輩は猫である』の苦沙弥先生の神経質な怒りが、怒りの対象である人間にはなんの効力も発揮しないように、坊ちゃんの行動力は別に坊ちゃんに降りかかる問題を解決するわけではない。坊ちゃんを小馬鹿にした態度を示す生徒たちとの間にいつのまにか師弟愛のようなものが生じるわけでもないし、山嵐と一緒になってぽかぽか殴りつけたとしても、赤シャツが前非を悔いるわけでもないだろう。また、陰険なはかりごとがまかり通る学校の体制が変化するわけでもない。

 

 なにより、そうした改善の努力をするまでもなく、坊ちゃんは東京に帰ってしまうのである。この間の事情を説明するのが、自分は思い切りはいいが度胸はない、という坊ちゃん自身の述懐である。

 

 彼によれば、いたずらをした証拠がないのをいいことに言い逃れをする生徒たちや許嫁のいるマドンナを横取りしようとする赤シャツには度胸がある。つまり、度胸とは結果を見越してそれをもとに自分から行動に踏み切ることであって、それゆえに下品である。

 

 思い切りというのは友だちに言われた通り二階から飛び降りたり、ナイフで指を切りつけたりすることにある。つまり、外からのあるきっかけをもとに後先考えずに行動に突っ込んでいくことにある。

 

 どうやら坊ちゃんにとって、行動というのはすべからく着地点のわからない跳躍のようなものであるべきなのである。であるから、生徒が恭順になったり、赤シャツが改心したりする面倒な結果があらわれる前にさっさと東京に戻ってしまうことは坊ちゃんの行動原理にかなっている。

 

 つまり、『坊ちやん』とは、思い切りもあるが度胸もそこそこ備えている山嵐、思い切りはないが度胸がある赤シャツ、思い切りも度胸もないうらなりといった人物のなかを、東京で跳躍に踏み切った度胸はないが思い切りはある坊ちゃんが飛びすぎてゆき、やがて再び東京に着地するという話である。

 

おれは卑怯な人間ではない、臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けて居る。

 

幸堂得知の一句ーー散る花の中にも一本さくらかな

 幸堂得知は万延元年(1860年)江戸下谷車坂町に生まれ、大正二年(1913年)根岸に没している。劇評家として活躍した人で、江戸芝居についてもっとも詳しい人物の一人として知られていた。饗庭篁村、森田思軒、須藤南翠、幸田露伴らが参加した「根岸派」と呼ばれるグループの最年長だった。饗庭篁村のほぼ一回り、幸田露伴のほぼ二回り年長である。

 

 根岸派は文学者の集まりではあったが、尾崎紅葉硯友社のように文学的運動を組織するわけではなかった。「彼等を一党一派と団結させたのは、文学上の主張でも主義でもない、むしろ酒であった。詩酒徴遂の遊楽であつた。彼等は文壇の覇権を心配する大友の黒主の寄合ひではなしに、世俗を白眼視する清談の酒徒のまどひであつたのである」と柳田泉は書いている(『幸田露伴』)。


 幸堂得知の文章をまとめて読んだことはない。根岸派の行事に二日旅行と称するものがあった。一泊二日の旅の間、御前と三太夫を決め、御前の命ずる無理難題を会計を預かる三太夫が機転を利かして取りさばき、客人たち(つまり、御前と三太夫以外の者たち)を満足させるという遊びだ。

 

 彼らが群馬県松井田に旅したときのことが、その参加者がリレー式に道中の様子を語った『草鞋程記』にあらわれている。同じく、墨堤を一日歩く遊覧の記事が『足ならし』としてまとめられており、この二編にある短い文章でしか幸堂得知のことは知らない。今回あげた句も露伴の「得知子の俳句」(明治三十年)という五行ばかりのごく短い文章で知ったもので、得知の句が何らかの形でまとめられているのかどうかさえわたしにはわからなかった。

 

 『草鞋記程』には

 

煙たつ浅間も白し冬隣

月と寐たむかし語りや枯芒

 

 

の二句があり、また、新潮社の『日本文学大辞典』によると、齋藤緑雨が

 

幾ら食ふものか捨てゝおけ雀の子

 

という得知の句を「太つ腹な句だと褒めた」とあって、これがわたしの知る得知の句のすべてである。


 露伴の文章には、得知が「先代夜雪庵門下の逸才にして、句ぶりおのづから一家をなせり」とあるが、この夜雪庵とは明治二十年代まで生きた四世ではなく三世のことなのだろうか。夜雪庵の句も捜してみたのだが、わたしの手持ちの本ではまるっきり歯が立たない。

 

 露伴はこの句を直接本人から聞いたらしく、「其後、人の花の句得たりなどいふごとに、耳を傾けて聞けど、これに勝りたりと予が思ふ句をば今に得ぬなり。めでたき句なるかな」と簡潔に評しているが、期せずして緑雨の評言と符節を合わせていると言えよう。これほど短い詩形にもかかわらず、文の柄が(人柄とは言うまい)あらわれるのが俳句の不思議なところである。結局わたしが俳句に求めるのはこうしためでたさが自然ににじみでるような柄の大きさでしかないのである。

江戸を幻視する者たち--加藤郁乎『俳人荷風』

 

俳人荷風 (岩波現代文庫)

俳人荷風 (岩波現代文庫)

 

 

 夏目漱石芥川龍之介、内田百閒、久保田万太郎と小説家にして俳句もよくする人物を並べてみると、統一感はないながらも、それぞれに独特の印象が浮かび上がってくる。なかには芥川龍之介久保田万太郎のように散文と俳句とがさほど距離を感じさせない人物もいるし、夏目漱石のように小説には見られないようなグロテスクな味わいをだしているものもいる(内田百閒は古今の名句をお手本にしたきまじめさと漱石流のグロテスクとが混在している)。


 ところが、永井荷風となると、一通りその句に眼を通してみても、印象となると、当惑せざるを得ない。小説から連想される艶っぽがさほど目立つわけではないし、機知にあふれているわけでもない、翻訳のときのような流麗な言葉が駆使されるわけでもない。

 

 この著作は(ちなみに加藤郁乎の最後の本となったわけだが)その辺の秘密を解き明かしてくれる。二つの部分から成り立っており、前半部分は荷風の著作『冬の蠅』、『濹東綺譚』、『雨瀟瀟』、『断腸亭日乗』のうちに見られる荷風の俳句や俳味、俳人や俳誌との交流をたどっている。


 後半部分は、荷風を敬愛した、また荷風が兄事した詩人、作家、小説家、俳人など、日夏耿之介秋庭太郎、相磯凌霜、正岡容邦枝完二、籾山梓月と荷風との関わりが述べられる。著者および彼らに共通するのは、失われた江戸に対する焼けつくような郷愁である。


 たとえば『濹東綺譚』の私家版には写真と俳句が入っているが、大洋本という偽物があるという。俳人伊庭心猿の手になるもので、


  遠道も夜寒になりぬ川むかう


という句にご丁寧に自作解釈までつけられている。それによれば、「川向かう」は隅田川東岸の寺島町、つまり玉の井の色里を指すから、この作は浅草側からのものでなければならない。また、「遠道」もなおざりに読むべきではなく、『断腸亭日乗』の探索に見られるように、麻布から銀座、江東、葛西、浅草、寺島などを経巡る行跡見聞のあとが「無限の感懐」となってひそんでいるのを感じ取らねばならないという。


 この本に登場するのはこうした一団である。江戸に浸りきっているので、そこから顔をだす特異性など薬にしたくもないのだ。思えば、ソープランドが並ぶ吉原を歩いたことはあっても、吉原田圃ひとつ知らない人間がざっと読んだくらいで理解できるはずもないのである。少なくとも、植草甚一がニューヨークにしたように、一度も足を踏み入れずに町の隅々まで知悉するくらいの準備が必要である。