2種類の笑いーーバタイユ『有罪者』

 

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

 

 

 

  

 

群衆と権力〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

群衆と権力〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

 

群衆と権力〈下〉 (叢書・ウニベルシタス)

群衆と権力〈下〉 (叢書・ウニベルシタス)

 

 

 (私は出口裕弘訳を読み、引用している。新訳の方は見ていない。)

 

 バタイユが持ち出す笑いの諸例はベルグソンの引く例とはまったく異なるものである。ベルグソン有機的なものに機械的なものが張りついたとき、つまりもったいぶった人物が倒れるとき、そのとき彼の有機的な運動は、重力という物理法則に支配され、機械的になるとともに、笑いを生む。
 
 一方バタイユがもちだす笑いとは、幼児が母親の顔を見て笑うときの笑い、身体をくすぐられるときの笑い、思わぬ場所で知り合いに出会ったときに思わずこみ上げてくる笑いなどである。
 
 バタイユの笑いは、幼児の場合にしろ、知人との出会いやくすぐりの場合にしろ、他ならぬ彼あるいは彼女とともに笑いが笑われる。いずれも、笑いによる交感が強い結びつきを形成する。ベルグソンの笑いが、基本的には劇場をモデルにした笑いであり、観客としてあることが笑うことを許す状況を作りだすのと対照的である。
 
 関係や状況が笑いを許すのではなく、笑いこそが関係と状況を作り出す、あるいは既にある関係や状況を変容するのである。既にある関係を変えることなく成立する笑い、弱者に対する強者の優越感に由来する笑いなどは単にその関係を確認するための笑いであって、笑っているつもりの強者も関係によって笑わされているに過ぎない。
 
 そうした笑いは笑う者に対して完全に外在的であり、笑う者は笑うことによってなんら変容を被ることはない。そして笑う者が笑うことによって変容をこうむらないような笑いは、バタイユにとって笑いとは言えないものなのである。
 
 バタイユにとって笑いが「要ともなる問題」であるのは、笑いが人間の孤立を揺るがし、「ひとりの人間から他の人間へと移行しつつ、はじめて生起する」(『有罪者』)真理や世界をあらわにするからである。
 
     
   ある、比較的孤立した体系が、孤立した体系と目されるものがあるとしよう。何らかの突発的な状況が、私に、その体系が、ある別の全体(定義しうるものにせよ、できぬものにせよ)に結ばれるのに気づかせる。この変化は、第一に、それが突然のものであること、第二には、いかなる禁止、抑制もはたらかないこと、この二つの条件があれば、私を笑わせることができる。
                     (ジョルジュ・バタイユ『有罪者』)

 

 
 母親の顔を見て子供が笑うのは、子供が母親を自分と同じ様な存在だと認めるからである。この認知によって母親という体系は子供の体系と結びつく。「子供を支配していたものが、子供の領域に落ちこむ」のである。
 
 笑いは優越感や支配と被支配の関係を確認するものではなく、そうした関係が交感によって一挙に崩れ去ることにある。知人との突然の出会いが笑いをもたらすのは、見知らぬ匿名の通行人のうちに身近な知人の顔を認めるという突然の結びつきである。また、冗談が笑いを誘うのは孤立した体系、価値観を冗談が別の体系に移行させることができるからである。
 
 くすぐりによる笑いでは、皮膚の直接的な接触によって個人という孤立した体系が崩れ去る。エリアス・カネッティは人間の根源的な恐怖を接触恐怖、特に未知のものとの接触においている。
 
 未知のものを既知のものに変えようとする、そして、接触の可能性をできうる限り遠ざけようとする努力、つまりは未知のものとの接触の恐怖が権力を生み出す原動力である。接触に対する恐怖は根深いもので、「人間がいったん自分のもつ諸性質の統一体としての人格の領域を確立するや、もはや決してその人間から離れぬものである。」(『群集と権力』)
 
 接触は他の何にも増して「統一体としての人格」を脅かし、崩壊させるものであるためにより強烈な交感を招き寄せるだろう。交感の強度は抵抗力が高ければ高いほど強くなるものだからである。