ピーター・グリーナウェイ、吉田一穂
ピーター・グリーナウェイ『英国式庭園殺人事件』(1982年)。17世紀のイギリスが舞台であり、従って、英国式庭園とはいっても、いまだヨーロッパの幾何学的な様式が採用されており、たとえばドラマの『ダウントン・アビー』でのように、ごく無造作な自然でありつつ美しく感じられるものになるよう人間の手を加えるという形式ではなく、どちらかというとアラン・レネの『去年マリエンバードで』の整序された隅々まで管理の行き届いた庭である。
領主のいないあいだに、その妻からさる有名な画家が、屋敷の絵を12枚描いてくれと頼まれる。さほど気乗りのしない画家は、高額をふっかけた上、夫人との密会まで条件につけて断ったつもりでいたが、夫人がその要求をのんだので引っ込みがつかなくなった。
画家は日光との関係で、描く対象が一番くっきりと見通せる時間を割り当てて、次々に絵を完成させていくが、それぞれの絵のなかに本当はあってはならないものがあり、それらを組み合わせると、都会にいっているはずの領主の殺人が示されていることを、領主の娘から知らされる。娘は高慢なドイツ系の夫があるが、子供がなく、どうも夫は不能らしい。この娘とも画家は密会の契約を結び、実際に領主の死体が発見される。
音楽のマイケル・ナイマンがバロック音楽をミニマル・ミュージック風に作曲し、演奏しているように、グリーナウェイはコスチューム・プレイをアンチ・テアトルか不条理劇のように演技させ、演出している。とっぽい、という形容が一番合っているのはイギリス人だと思うし、こうしたとっぽさは嫌いではない。
乱暴でおおざっぱな話だが、人間を視覚型と聴覚型に分類するなら、私は自分がずっと視覚型だと思っていた。しかし、思い返してみると、たとえば、人の顔などはフランシス・ベーコンの絵のように、輪郭線が容易に崩れ去っていくのに対し、声は鮮明に残っている。あいにく、絵が上手なら人の顔は再現できるが、声は再現できない。ある人を懐かしいと思うとき、私の場合、多くはその声が懐かしい。
従って、吉田一穂の「声」という詩は大好き。
声
葉影かき散らす戸階(ドア・ステップ)の雨
(彼女すでに去りし・・・・・・)
みだれうつ暴風雨(あらし)の中に
ひそみまつはるひとすぢの声
常に離れて言葉をおくる。
青き光圏を環つて、終夜、
遠く点滅する不眠の都市。
( )のなかは本来はルビ。
点滅する都市が遠くに見えるからには、高台のはずで、吉田一穂の出身地である北海道ではそうした景色が見えるのだろうか。稲垣足穂の神戸でもありそうだが、どちらにしろいったことがないので、イメージとしての話。
言うまでもないが、東京の高層マンションから見たところで、だいたい都市の真ん中にあるのだから、遠く点滅する都市が見えるわけではない。