世界劇場 1 プッチーニ『トスカ』/ヴェルディ『リゴレット』
プッチーニ『トスカ』
演出:ジョナサン・ケント
指揮者:アントニオ・パッパーノ
トスカ:アンジェラ・ゲオルギュー
カヴァラドッシ:ヨナス・カウフマン
スカルピア:ブリン・ターフェル
コヴェント・ガーデン王立歌劇場
演出:デヴィッド・マクビカール
指揮者:エドワード・ダウネス
リゴレット:パオロ・ガヴァネッリ
ジルダ:クリスティーネ・シェーファー
コヴェント・ガーデン王立歌劇場
中年になって、思わぬところから伏兵があらわれて、心臓を鷲づかみされた感がある。オペラに魅了されたのである。
CDではそれなりに聞いていた。マリア・カラスのBOXセットを買い、朝から晩まで聞いていたこともある。クラシックについては、好きな曲、あるいは演奏家のものを一枚一枚買いそろえていくことよりも、BOXセットを買って、片っ端から聞いていくという聴き方を好んでいる。現在は音楽のサブスクリプションのサービスに加入していて、そこではクラシックを除外して、ジャズと現代音楽だけにほぼ絞っているのだが、聞きたいものをリストに加えていったら早速3000枚を超えてしまった。したがって、グールドやホロヴィッツのCDは幾度もくりかえし聞いたが、それ以外は、一度聞いてそれでおしまいになることが多かった。
指揮者のBOXセットを買うと、だいたいオペラも含まれており、全体からの割合でいえば少ないが、だいたいオペラもあって聞き流していた。あらすじを読んで聞くこともあったが、だいたいのところオペラといえばドイツ語かイタリア語であり、筋だけわかってもどこまで進んだかもわからないままに終わることが多く、ほとんど物語のことなど気にすることなく、時々突出する声、たとえばモーツァルト『ドン・ジョバンニ』でのシュワルツコップにどきっとするくらいのものだった。
つまり、いまとなっては不思議なことだが、オペラを純音楽的なのだと考えていたのである。そして、オペラが総合芸術であるかはともかく、舞台芸術であることにいまさら気がついた。たとえば、落語などの場合、演者の姿が余計だとしか思わない私は、純粋な語りとして聞いてきたが、そこからの類推によって、オペラを音楽的なものとのみ考えてきたのかもしれない。あるいは、歌曲の延長としか考えていなかったこともある。
『トスカ』についていえば、映画で見たことがあると思い込んでいたが、よくよく考えてみれば、ダニエル・シュミットの『トスカの接吻』(1984年)と『ヘカテ』(1982年)とを混同しており、『トスカの接吻』の方は、養老員に集まるかつてのプリマ・ドンナたちの姿をとらえたドキュメンタリー映画だった。もちろん、『トスカ』も『リゴレット』のどちらもマリア・カラスのCDをきいたおぼえはあるが、特に内容を確かめようともしなかったので、数十時間のカラスの声の記憶のなかに完全に埋もれてしまっていた。
それがいまになってプッチーニやヴェルディをDVDで見る気になったのは、そもそもはワグナーやアルバン・ベルグのオペラを内容から理解する必要があったために、それではモーツァルトも当然のことながら、見ておいた方がいいし、それだけだとドイツに傾きすぎるので、プッチーニやヴェルディのイタリア勢も見ておこうというごく単純な動機だったのである。
『トスカ』は画家のカヴァラドッシが教会でマグダラのマリアの像を描いている場面から始まり、そのモデルがいつも教会に通ってくる侯爵夫人であることがわかり、嫉妬深いトスカとの三角関係になると思いきや、結局侯爵夫人は一度も舞台に姿を現すことはない。侯爵夫人の兄であり、画家の古い友人である政治犯として獄中にいたアンジェロッティが脱獄犯として逃げ込んでくる。カヴァラドッシとトスカとが協力してアンジェロッティを別荘の井戸のなかに隠すが、二人が逃亡を助けたことをかぎつけたスカルピアによって恋人のカヴァラドッシを拷問されたトスカは我慢できなくなり、隠れ場所を告げてしまう。スカルピアはおまえが俺に肉体を差し出すならば、カヴァラドッシの命だけは助けてやろうと約束する。そして、腹心の部下に命令を伝え、トスカに迫ってくる。しかし、トスカは最後のところで我慢ならなくなり、スカルピアを刺し殺してしまう。形だけの処刑だと思い込んでいるトスカは処刑場に急ぎ、二人で逃げる未来の希望を楽しげに語るのだが、当然のことながら、処刑は実際に行われ、悲嘆にくれ城壁から身を投じるトスカの姿で幕が下りる。
スカルピア役のブリン・ターフェルが素晴らしく、悪漢として申し分がない。だが、やはりいちばん驚いたのは、トスカ役のアンジェラ・ゲオルギューは正直あまりタイプではないし、恋人が拷問されるとすぐに自白してしまうし、スカルピアの言葉を真正直に受け入れてしまうところが、普通のドラマならばかばかしく思えるはずが、圧倒的な声の力業でねじ伏せられるはじめての経験をしたことにあった。
『リゴレット』は宮廷道化の悲哀を描いたもので、退廃した宮廷で道化をつとめるリゴレットは自分の娘ジゼルだけはこの退廃、君主の毒牙にかからないようにしようと、人目を隠すように閉じ込めて育てていた。しかし、自分が宮廷で行った道化ぶりが呪いを引き起こし、娘は君主にもてあそばれ、最後には剣に刺されて死ぬことになる。
退廃した宮廷の場面で、王立歌劇場でありながら、全裸の男女があらわれるのも文化的な水準の高さを見せつけられた思いだし、ターラッタータタラー、と書いてもわからないと思うが、誰でも知っているメロディーが『リゴレット』のものだったということもはじめてわかった。ジルダ役のクリスティーネ・シェーファーは前半は長髪であらわれるが、後半では短髪になり、その姿が実にキュートで魅力的だった。
実のところ、私にはジゼルがなぜ死なねばならないのかもよくわからなかったのだが、生身の役者と生身の観客、人工的なものであることがはっきりしている舞台装置、そして、歌舞伎座や国立劇場などよりも、むしろ本多劇場やザ・スズナリを想起させながらも、ものすごく豪華で立派でありながら適度に狭いコヴェント・ガーデン王立歌劇場を埋め尽くす声がそんな疑念を易々と飲み込んでいく。