音楽の時間 3 遠山一行『ショパン』/サンソン・フランソワ『ショパン:ピアノ曲集』

 

カラー版作曲家の生涯 ショパン (新潮文庫)

カラー版作曲家の生涯 ショパン (新潮文庫)

 

 

 

Chopin: Piano Works

Chopin: Piano Works

  • アーティスト:Chopin, F.
  • 発売日: 2017/08/18
  • メディア: CD
 

 

 私はジャズ、しかもスイングはおろか、モダンジャズでさえも、モンク、ミンガス、マイルス・ディヴィスの数枚ですっ飛ばして、ポスト・フリー以降のスティーヴ・レイシーやらアンソニー・ブラクストンから現代音楽へと進み、グレン・グールドとともにいわゆるクラシックを聴き始めた相当偏頗な音楽との接し方をしてきたから、クラシックを聴くようになっても、バッハやモーツアルトは無条件に受け入れ、器楽としてはピアノが好きでピアノ・ソナタにおいては逸することのできない存在であることだし、交響曲においても、第七番と第九番が曲全体を記憶しているということのできる数少ない曲ということもあって、ベートーヴェンを渋々レパートリーにいれて、その過程はワグナーやブラームスシューマンなどをなし崩しに組み込んでいく過程でもあり、数々のピアニスト聞いていく時間でもあったのだが、にもかかわらず、ショパンは馬鹿にしていた。

 

 コルトーホロビッツ以下、そうそうたる名人たちの演奏を聴き、そのなかには高い確率でショパンが混じっていたにもかかわらず、軽視していたのは、「ピアノの詩人」といった呼称や、その曲、たとえば「別れの曲」などがドラマや映画であまりに感傷的に、また安易に用いられているためかもしれない。

 

 ところが、遠山一行によれば、ショパンこそが音以外の感傷を一切排除した。バッハは対位法を集大成し、膨大なミサの音楽が存在しピタゴラスに通じるような神の世界を垣間見させる。モーツアルトは神童の名をほしいままにし、呼吸するように作曲して、天使のように音楽を生きていたので、音楽における音を十分に意識したとはいえない。つまり、この二人の巨人の場合、我々はなんらかの「超越的な観念を予感」する。

 

 一方、ショパンは近代的な自意識を経過した詩人が夾雑物を排除した言葉に向かい合ったように、意識的に裸の音に直面したリアリストの音楽家であり、画家のドーミエに比肩しうるような存在だと論じられているのを読み、そんなことは毛ほども考えていなかったことなので、文字通り、腰をぬかさんばかりに仰天してしまった。そして、古本で遠山一行の著作集を買い、とりあえずショパンは興味がないので、飛ばそうとしたが(実際、ぱらぱらとめくって元の通り箱に入れて、別の場所に移しまでした)、どんな気まぐれだったか、既に覚えてさえいないが、やっぱり読んでみよう、と別の場所に置いてしまった本を再び引っ張り出し、読み始めることができた僥倖に感謝した。なにしろ、吉田秀和など割に読んではいるものの、仰天するような事態にたちいたったことなどついぞなかったことなのだから貴重である。

 

 音自体を発見したことは、叙情性と両立不可能なわけではない。遠山一行は最初ピアノの弾き手としてショパンを好んでいたという。しかし、それがあるとき、突然、その音楽が違って聞こえるようになった。

 

どういったらよいのかわからないが、今までさわやかな叙情で私の心をとりまいていたショパンのメロディの円い持続が破れ、その奧に一つ一つの裸の音が鳴るのをきいたとおもった。その音は、私の指の下でも容易に美しい感傷の歌をうたっていたのだが、それ以来、頑固で非妥協的な壁のように耳の前に立ちふさがって、私の心が音楽について夢みるのをさまたげるのである。それはすでに友人であるどころか、今まで音楽と呼んでいたすべてのものからきりはなされ、彼等とは少しも似たところのない新しい体験として現れることになった。それは私をひどく不安にしたが、こうして現れた音のもつ異様な美しさを信じないわけにはゆかなかった。

 

 

 ちなみに、西欧音楽において、バッハからガーシュインまでのなかから、100曲を選ぼうという途方もないことが企てられるのが『名曲のたのしみ』というまた別の本で、そこでショパンは「24の練習曲」「ピアノ協奏曲第2番」「バラード第4番」「マズルカ全曲」の4曲が選ばれていて、それがいかに途方もない数かは、ベートーヴェンもまた4曲だけが選ばれているのでわかる。ショパン演奏家としては、おおむねにおいてサンソン・フランソワがごひいきであるらしい。