断片蒐集 27 アラン

 

アラン 幸福論 (岩波文庫)

アラン 幸福論 (岩波文庫)

 

 とはいうものの、私はあくびをあまりしない。この前いつしたか思い出せない。まあ、いちいち覚えているようなものでもないので、思い出せないことはさておき、睡魔に襲われることは多いが、それがあくびに結びつかない傾向にあると思う。

 

あくび

どうしてあくびが病気のようにうつるのかとふしぎに思っている人がいる。ぼくは、病気のようにうつるのはむしろ、事の重大性であり、緊張であり不安の色であると思う。あくびは反対に、生命の報復であり、いわば健康の回復のようなものである。あくびがうつるのは深刻な態度を放棄するからであり、何も気がかりがなくなったことを大げさに宣言するからのようだ。それは整列している人たちを解散させる合図のようなもので、だれもが待ち受けている合図なのだ。この気楽な気分が拒否されることはありえない。そこから、深刻な気分はふっ飛んで行く。

 笑いとすすり泣きも、あくびと同じ種類の解決方であるが、あくびよりもひかえ目で、抑えられている。そこには二つの思考、すなわち拘束しようとするものと解放しようとするものとの間の戦いが現われている。これに対し、あくびをすると、拘束するものであれ解放するものであれ、いっさいの思考が逃げ出してしまう。生きることの気安さがいっさいの思考を消し去っている。これもやはり犬のあくびなのだ。だれでも見たことがあるように、思考がもとで病気となる、神経症と呼ばれるこの種の病気のなかで、あくびが出ることはつねによい徴候なのである。しかしぼくは、あくびはあくびが知らせている眠りと同じように、すべての病気に効能があると思う。それはわれわれの思考がいつも病気の中で大きな役割をはたしているしるしである。これは自分の舌を噛みながら味わう苦痛を考えるならば、それほど驚かないであろう。この表現(噛む)の比喩的な意味からよくわかるように、「悔恨」とうまく形容された後悔は、損傷にまで及ぶのである。反対に、あくびにはどんな危険もない。