無限の全体――ボルヘス『アレフ』

 

アレフ (岩波文庫)

アレフ (岩波文庫)

 

 (単行本で読んだので、私が読んだのとは訳者が違いますが、こちらの方が手に入りやすいようなので。)

 

 アレフを見るには暗闇と最適な角度が必要である。それゆえ、閉ざされた竪穴のような地下室で、二つの折りたたんだ薄い袋を枕に横たわらねばならない。

 

 アレフの直径は二、三センチで、玉虫色に光り輝いている。そこには宇宙に存在するあらゆるものが包含されている。アレフの魅力は無限の全体性を眼に見られる形であらわにしたことにある。

 

 極小の存在のうちにも無限が見いだされることについては、たとえば、パスカルによっても語られている。ダニをばらばらにすると、その脚には血管があり、血管のなかには血があり、血のなかにはしずくがあり、しずくのなかには粒子があるが、そのなかにも無数の宇宙、天空が含まれており、そこにある地球にはありとあらゆる生物が住まい、当然ながらダニも含まれていて、ダニには脚があり、血管があり、血があり、しずくがあり、粒子があって、そこには無数の宇宙が含まれている、と無限に続く。

 

 このことは、全能の神からすれば、人間の地位など取るに足らないことを示している。無限に続く系列の無限に小さい一点を占めているに過ぎないのであって、無数の宇宙からダニの粒子までのある一断片を取り出してみれば、生殺与奪権をある程度握っているだけ人間はダニに較べて相対的に大きな影響力をもっているが、無限の系列のなかでの人間とダニなど区別するにたるほどの相違ではない。

 

 この無限は、確かにその始まりでダニという形を与えられてはいるのだが、ダニそのものにあるのではなく、最小のものに最大のものを見るという無限の繰り返しの過程において捉えられている。別の言い方をすれば、ここには、明らかに視覚的イメージから観念への飛躍がある。ダニの血液の粒子のなかに無数の宇宙を認めることには、ダニをばらばらにするという経験可能な視覚的イメージと、無数の宇宙というそれを認識する立脚点が不可能な観念との間の断絶がある。

 

 もし、究極的な顕微鏡が発明され、ダニの血液の粒子のなかに宇宙が実際に発見されたとしても、究極的な顕微鏡が眼で見ることのできるこのものを全く異なった宇宙に変換するものである以上その働きは観念と同じであり、事情は変わらない。

 

 アレフはそうした飛躍のない無限の全体を与えてくれる。そこに認められるのは、銀色に光る蜘蛛の巣であり、破壊された迷宮であり、三十年前に見たのと同じ敷石であり、手の華奢な骨の形であり、地面に斜めに落ちる羊歯の影といった具体的な事実であるから、それこそ無限に続けていくことができるのだが(そして、アレフを最初に発見した凡庸な詩人はそうした世界のすべてについての詩を計画している)、実際には、大量の要素によって多様性が均一性に変じてしまう手前で、蜘蛛の巣と迷宮と華奢な手の骨と羊歯の影とが同時の存在する無限の全体という場をつくりだすことにボルヘスの短編の仕掛けがある。

それはともかく、中心的問題は、いぜんとして解決されていない。つまり、たとえ部分的にもせよ、無限の全体を列挙するという問題だ。この巨大な瞬間のなかに、わたしは楽しい行為、または残酷な行為を幾百万となく見た。そのすべてが、重なりあうわけでも、透けて見えるわけでもなく、同じ一点を占めているという事実ほど、わたしを驚かせたものはなかった。わたしの目が見たものは、同時的に存在していたのだ。わたしの記述したものが連続的に存在するかのように見えるのは、もともと言語というものがそういうものだからである。(土岐恒二訳)

 

オルダス・ハックリレー「(エッセイについて)」(翻訳)

 

名士小伝 (冨山房百科文庫)

名士小伝 (冨山房百科文庫)

 

  どうして一連の文学的ノートでもっと大きな問題を扱わずに、文学的ノートに関する文学的ノートのようなもので始めたのだろうか。この問題には多くの楽しい考察や心理学的なものが含まれている。歴史もあり、奇妙でおかしなこともある。一言で言えば、文学ノートとして知られる文学の特殊な形には最適な主題である。


 行動的な人間は、金儲けや戦争をしたり、他人に害を及ぼしたりするが、哲学者は純粋な抽象に携わり、我々文学者の頭を占めているのは、些細な見当違いのものとなろう。金をもたらすわけでもなく、永遠なる真理の新しい要素をあらわにするわけでもない。それでは文学の無駄話になんの良いところがあるのだろうか。金を生みだすものと心理を探るものとが予期せぬ共同して、我々の方を向き脅迫めいた態度でなんの良いところがあるんだと問いかけてきたらどうだろうか。


 実際、何があろう。適切な道徳的、合理的正当化を与えるのが困難な仕事はほかにも数多くある。しかし、文学的ゴシップは少なくとも正当化があって、高尚なものではないにしろ、心を占め、楽しませることで満足する。心を占めること、忙しいという心地よい感覚は――それは常に我々が求めているのものであって、それというのも倦怠がつきまとって離れない恐怖だからだ。少なくとも、我々は退屈するという不安を免れねばならず、余暇を満たすものをなにかで埋めなければならない。しかし同時に、我々には自らに飽き飽きする意図はない。秘かで無気力な自己保存は、合理的で些細な拘束のなかに熱意を閉じ込めてしまうが、必然的に精神的な冒険へも向かう。かくして、我々は余暇に高度な数学や哲学の本を読みふけるに違いない。宇宙の問題を解決しようとすることで頭はいっぱいになる。しかし、ああ!抽象的に考えるようとすることの苦悶、長く連続して精神を集中しておくことの苦痛よ!怠惰を戒めていたものが、ほどほどに緩和するように促される。そして、最終的に、我々は切手を収集したり、愛書家になったり、古いものを探したり、文学に好奇心を抱くようになる。ここで我々は退屈に対する解毒剤を見いだし、疲れもなしに忙しさだけを感じる。


 好奇心をそそる文学的情報に埋まることほど楽しく、興奮することがあるだろうか。余暇と、おいしく味わう好みと、そこそこに働く記憶が必要とされるすべてである。思考や集中はまったく必要ない。そしてさらなる満足がある。我々の読書は単なる楽しみではなく、教育的なものでもある。なにかを学んでいるのだと都合よく思い込み、激しい仕事をして研究にのめり込んでいるつもりでいる。『文学の楽しみ』の『憂鬱の解剖』についてやサー・E・T・クックの『文学的気晴らし』などは確かにそうである。仕事と学ぶこと・・・ロード・パルマーソンの古典からの唯一の引用は、女性と仮定されるアキレスという名のものが、もっとも平坦な英語で、数多くの楽しい、不必要な事実を書いたことを知る。


 いつの時代にも、切手収集の精神的等価物は文化の主要な部分としてあった。バートンのすばらしい天才がボルドー図書館を不滅の本に入れかえていたとき、すばらしい叙事詩を書けたものはいなかったが、世界が賛辞を送った奇妙で曖昧模糊とした文学的ノートを書いた学者はいた。サルマシウスがもっとも偉大な天才という評判を受けていたとき、彼はオロシウスの注釈を書いていたが、それは書くと言うことが発明されて以来のあらゆる作家たちの馬鹿げた情報からできたものだった。離婚についての二、三の小冊子しか書かず、無難な黄金期ラテン語の引用はを少々行なっただけのミルトンについては僅かなノートしか残されておらず、生意気な学生として捉えられている。文学に心を転じたものには幸福な時代だった。過去の本の骨董品を好んで集めるだけで、科学と哲学の立派な評判を得ることができた。それらの主題が考慮に値しない惨めなものになると、文学者は素直に文学だけを扱いそれ以外のものに関わらなくなった。他の人間に困難で実りの少ない抽象的に考えることを任せるようになった。我々の仕事と喜びは、ポンス従姉妹のように、豊富で小さな心の博物館をブラブラし、傑作を面白半分にあるいは敬意を込めて注釈しながら、古い逸話を磨きあげ、無数の小事実を棚に収めている。もし我々が蒐集家の役割を勤勉に辛抱強く行なうなら、最後には学者という評価を得ることになろう。喜ばしく、尊敬に値する評判ではなかろうか!同じ評価に達するためには、科学者なら我々が決してしなくてすむような汗と苦悶が必要となるだろう。


 文学的好奇心の真の味わい手となるためには、あらゆる人間的事象の歴史にひそむ奇妙なことどもの穏やかな香りを嗅ぎとることのできる鼻と味覚がなければならない。さらに、事実そのものに対する敬意がなければならない。「ここでネルソンは倒れた」「エリザベス女王この寝台で寝ていた」こうした記述に冷淡であり、理論を支持するため、あるいは拒絶する限りにおいて事実に興味をもつつむじ曲がりの人間はよい文学者になることは決してないだろう。馬鹿げた、些細な、無用な事実であればあるほど、心を配り大事にするべきなのだ。そうしたもののために、もっともよく選択されるのが文学ノートである。


 事実そのもの、具体的で確固とした小さな事実はいかなる可能性を考えても理論的な目的には役立つことはない――ペンはどのようにしてその魅力を描き説明するか?次のような文章を読んだときの文学的心に窺われる風変わりな心情を誰が分析できようか?


 「1676年か5年ごろ、ニューゲート通りを歩いていると(語り手は楽しい思い出を語るジョン・オーブリーである)「ゴールデン・ブラスの露店で、細工師の店でヴェネチア・ダーヴィの半像があるのを見つけた。私は完璧にそれをおぼえているが、それは火災(ヴェネチアの「豪華で荘厳な建造物」を破壊した大火災で、半身像はその燃え残りだった)から引きだされたものだが、私以外には気づくものもなく、それ以後通りで見かけることもなくなった。それは溶かされてしまった。そうした好奇心は失われ、こんなことを書く暇な人間もいなくなってしまうだろう!」


1920年2月20日 マルジナリア

・・・羞恥心、いひかへればいろけである。・・・ーー久保田万太郎の俳句

 

こでまり抄―久保田万太郎句集 (ふらんす堂文庫)

こでまり抄―久保田万太郎句集 (ふらんす堂文庫)

 

 

 久保田万太郎は、もっぱら東京下町の情緒を描き続けた作家だと言われる。たしかに、それは間違いではない。だが、彼を典型的なマイナー・ポエットとみなし、アーネスト・ダウスンを評したオルダス・ハックスレーにならって、「彼はたった一つの感情しか表現できず、たった一つの調べしか知らなかった。しかし、その限界に彼の強みがある。というのも、メランコリーばかりを常に歌い続けることで、最終的に彼は小さいが独特の完成に到達したからである。そして、完成というのは、たとえそれが小さく限定されたものであっても、常に詩人の地位を保証し、読み捨てられることはなくなる」(「九十年代の幽霊」)と言い切ることにはためらいを感じる。ひとつの調べしか知らない地方詩人というよりは、先鋭的な、ある意味実験的とも言えるようなモダンな作家だと思われるのである。それにはいくつかの理由がある。


 第一に、万太郎は、テーマは限られていたにしても、活動の幅の広さということで言えば、近代の文学者のなかで文句なく上位を占める。小説、戯曲、エッセイ、俳句を書いたばかりではない。岸田国士岩田豊雄とともに文学座を創立し、演出も手がけた。樋口一葉泉鏡花永井荷風谷崎潤一郎の小説を舞台用に脚色した。慶応大学で教師もしたし、落語家たちと親しく交わり、影響力をもっていた。いとう句会などでは宗匠として場を宰領した。


 第二に、小説や戯曲の舞台こそ東京だが、万太郎は東京という都市そのものを対象にしたことはほとんどなかった。永井荷風の随筆や日記を片手に東京をめぐるようなことは万太郎の作品ではちょっと考えにくい。木下杢太郎や永井荷風に特徴的なのは、東京がある種見立ての対象となっていることにある。彼らは自分が生きていた東京の姿に、あるいはパリの姿を、あるいは江戸の姿を透かし見た。こうした操作を経ることで、異化効果を施された東京が鮮やかな姿で浮かびあがることとなる。


 万太郎にとって東京とは、その登場人物たちが生活する場ではあるが、他の都市、他の時代の姿を発掘する対象ではなかった。というのも、東京とは万太郎がものを書きはじめたときには、既にして失われて取り戻せないものと感じられていたからである。

 

 久保田万太郎は明治二十二年に浅草に生まれたが、とかく現在の我々がアナクロニズムに落ち込みやすいのは、浅草というと、第二次世界大戦前後の、エノケンとロッパの、軽演劇の、六区の、立錐の余地もない活気にあふれた浅草を思い浮かべてしまうが、久保田万太郎にとってそうした浅草は、既に生まれ育った環境が破壊され尽くした後の浅草であったことである。彼が自分にとっての浅草と言うとき指しているのは、関東大震災以前の浅草である。

 

わたくしは東京で生れた。
 が、東京でも、わたくしの生れたのは……そして育つたのは……浅草である。
 といつたら、あなたはすぐに、雷門をおもひ、仲見世をおもひ、浅草公園をおもふだらう。……その浅草公園にまだ、玉乗だの、娘手踊だの、かつぽれだの、改良剣舞だの、そしてまれに活動写真だのゝ見世物が軒をならべてゐた時分である。十二階の下に、歯医者の松井源水が、居合抜をしたり、独楽をまはしてみせたりしてゐた時分である。池の縁の撃剣の道場が、法螺の貝をふき、太鼓を叩いて客をあつめてゐた時分である。伝法印の塀のそとに大きな溝があり、その溝にむかつて、矢場とよばれた揚弓店のうす暗く一トかたまりになつてゐた時分である。(「Waffle」)

 

 「ぼくは、嘗て、ぼくの一生は“挿話”の連続だといつたことがあるが、これも君にはわかつてもらへると思ふ。むかしから……うそをいへばものごごろついて以来、ぼくの身辺に起つたいろいろの出来事の、一つとしてそれがぼくの一生をつらぬいてゐない……といふことが、年をとるにしたがつて、だんだんぼくにはツきりして来たわけだ。そして、それが、いつそ不思議におもへて仕方がなくなつて来たのだ。……磯によせて来る波がしづかにふくれ上つては、そのまま寂しくくづれてしまふ。……あれだ」(「さもあればあれ」))と述懐する万太郎は、この失われた世界を精力的に再構成することを自分の仕事とはしなかった。

 

 正確に言えば、万太郎にとっては、東京ではなく、東京人が、更に言えばその心性が最大のテーマだったのである。木下杢太郎が、まさに雷門の大提灯こそが東京人の心性を象徴するという趣旨の面白い文章を書いているので引用しておこう。

 

 江戸人は他界を考ふる程執念深くない。もつと淡泊で気がきいてゐる。其洒落な性情は薄気味の悪いものを滑稽化する。
 誰でも浅草に来て、あのベラボオに大きい提灯に魂消ないものは無いだらう。あれこそ江戸(東京)人の心の象徴だ。之を一番初め構案した男はどういふ積りだつたか、固より分らないが、兎に角これも信心の結晶と見てよからう。断食、百度詣りは余りに面倒くさい。彼等の信仰を表はすにはこの昴大な提灯が尤も適してゐる。生の迷執、死の恐怖、之あるによつて彼等はもとより仏前に相集まる。同時にこの児戯に類する企図の前に、並に、やがてそを顧みて哄笑一番する底の滑稽味に於て、彼等はまた一致したのだらう。
 提灯の外には、また素ばらしく大きなお供餅が飾られている。
 奈良の大仏も、諸寺の仁王も大きいには違いないが、恁んなに馬鹿々々しい誇大は、江戸の寺の大提灯を外にしては蓋し鮮ない。(「浅草観世音」)

 

 

 

 淡泊でありながら、洒落と信心を大提灯という形にする質実さを具えており、控えめや折り目正しさという都会人に特有の襞をそなえた心性を描こうとしたのが久保田万太郎の作品である。


 第三に、言葉の問題がある。失われた東京の姿や風俗を描くのではなく、心性を描くとは、畢竟するところ、言葉を洗練させていくしかない。それもそのはずで、描写するべき外的な対象などなにもないからである。その結果、ある意味西欧近代の文学にも似た、言葉による自律した世界があらわれる。


 確かに万太郎の作品は、東京下町の言葉がもとにはなっているが、戸板康二は「下町を世界にとった小説、戯曲の中で、ぬきさしならぬ必然性を持っているように見える特殊語のすべてに、実感があったかどうかは疑わしい」とし、「 欧文風の『そこにいる自分自身を見出した』が、万太郎の好んだひとつの文体だったのと同じように、古い東京語を、文章の資材として、かなり客観視しながら利用してもいたのではないか」(『久保田万太郎』)と書いている。


 また、戸板康二のような演劇人ばかりではなく、石川淳河上徹太郎吉田健一三島由紀夫など西欧近代の魅力と毒を身にしみて感じてきた文学者たちが久保田万太郎のよき理解者であったことは、彼らが万太郎と言葉の関係、彫心鏤骨ともいえる言葉の彫琢と造形によって自律的な世界が立ちあがることに敏感に反応したのだと思われる。代表として三島由紀夫の言葉をあげよう。

 

 劇作家としての氏は、しかし、ほかの西洋風を看板にした劇作家よりも、はるかに西洋くさい、といふのが、私のかねてから抱いてゐた意見である。知的教養の上の西洋風よりも、氏の頑固な個性の守り方、スタイルの操守は、一見古くさいものに見えながら、実はもつとも西洋風なものであり、そこに氏の深く秘されたハイカラの真面目があつた。それは日本の近代文学者の多くが、西洋に学びながら、西洋から取り逃がしてゐた本質的な要素であつたと思はれる。日本の戯曲は、文体を失つて久しいが、明治以来の戯曲で、真に文体を持つ劇作家は、正直のところ、森鷗外と久保田氏の他に、私は知らぬのである。(「久保田万太郎氏を悼む」)

 

 女優で演出家の長岡輝子文学座の初期のメンバーであり、それ以前にはフランスに留学もし、海外の作品を多く演出しているが、文学座を創設した三人のなかでは久保田万太郎の戯曲にもっとも感銘を受けたという。彼の芝居を見て連想されるのはシュニッツラーで、どちらの台詞も現在では維持できるような俳優がいないと生前のインタビューで応えていた。これもまた、舞台装置や設定に頼ることのできない言葉による自律した世界だけがあったことを意味していよう。


 私が久保田万太郎で連想するのは、むしろジャン・コクトーのような人物である。多彩な活動も共通しているし、詩を書こうが散文を書こうが絵を描こうが、あるいは映画を撮ろうが、どれにもはっきりとコクトーの刻印が押されているように、小説でも戯曲でも俳句でも筆跡でも久保田万太郎が書いたものには彼の刻印が押されている。要は二人とも根っからのレトリシャンなのだ。

 

 東京の下町などというくくりよりも万太郎の個性の方がよほど際立っている。そのことがもっとも明瞭にあらわれているのが万太郎の俳句だと言える。もはや特別に東京なり下町なりが歌われることもなく、久保田万太郎という地の上に言葉だけが浮かびあがっているような風情である。


 徳川夢声の『夢声戦争日記』にはしばしば万太郎が登場する。彼らはいとう句会の仲間でもあり、気のあった友人でもあったことがその筆致から窺われる。たとえば、二人でさんざん酒を飲んだ明くる日の昭和十七年の六月二十二日の記述では、玄関を出て行く万太郎の後姿が「何か寂しそうであった」と夢声は思う。あとで家人に聞くと、万太郎は寝る前に「俺はサビしいよ」と幾度も繰り返したという。「私は、何んと思ったものか、宗匠の布袋様然たる臍のあたりを、ピシャピシャと叩いたそうだ」というのが夢声の対応だった。


 また、戸板康二によると、「格好がつかない」という独りごとが、万太郎の口癖のひとつであり、「人と会っている時羽織の紐を無意識に結んだりほどいたりした。みんな、ひと見知りのはげしい、ある意味では孤独な万太郎の習慣で、気心の知れない仲間に、ひとりだけあずけられた形になるのは、おそらくたまらないことであったろう」と推測している。


 悲しみや怒りや喜びといった原色の感情ではなく、羞恥心や寂しさや恰好のつかなさといった現実との微妙な齟齬感が万太郎の俳句の基調をなしている。そうした情調が満ち満ちているので、ちょうど大雪の降った朝、すべての音を雪が吸収して街が静けさに覆われるように、万太郎の句では生な感情や喧噪は情調のなかに吸いとられて、静かな空間を形づくるのである。

  
 『夢声戦争日記』の同じ日、飲んだ明くる日の朝のエピソードを最後に紹介しよう。「どういういきさつで、ここへ泊まることになったんです?」と万太郎は不思議そうな顔をしている。朝飯を出すと、キチンと坐り直す。「オラクニナサイ」と夢声が声をかけると、
「いえ、あたしは育ちがいいから、食事は坐ります」
と言って笑った。

 


久保田万太郎三十句

 

神田川祭の中をながれけり         『草の丈』
竹馬やいろはにほへとちり/゛\に
春麻布永坂布屋(ぬのや)太兵衛かな
おもひでの町のだんだら日除かな
にじますもやまめもこひも夜の秋
種彦の死んでこのかた猫の恋
冴ゆる夜のこゝろの底にふるゝもの
いふこともあとさきになる寒さかな
風呂敷の結びめかたき夜寒かな
日向(ひなた)ぼっこ日向がいやになりにけり  『流寓抄』
懐手あたまを刈つて来たばかり
波を追ふ波いそがしき二月かな
杢太郎いま亡き五月来りけり
節分やたま/\とほる寄席のまえ
たゝむかとおもへばひらく扇かな
人柄(ひとがら)と藝と一つの袷かな
読初や露伴全集はや五巻
ゆく春や日和のたゝむ水の皺
雛あられ両手にうけてこぼしけり
古暦水はくらきを流れけり
泣き虫の杉村春子春の雪
弁末の煮ものゝ味の夜長かな
どぜうやの大きな猪口や夏祭      『流寓抄以後』
数珠下げていよ/\美女の寒さかな
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
鮟鱇もわが身の業(ごふ)も煮ゆるかな
ものゝ芽のわきたつごときひかりかな
女囚房雪の鏡をかけつらね     『季題別全俳句集』
春の夜や駅にとゞきし忘れもの
一めんのきらめく露となりにけり

 

オルダス・ハックリレー「九十年代の幽霊 (アーネスト・ダウソンの詩と散文。アーサー・シモンズの序文付き)」(翻訳)

 

アーネスト・ダウスン作品集 (岩波文庫)

アーネスト・ダウスン作品集 (岩波文庫)

 

 

 かつては、おそらくはいまも、ある種のお茶には「四十年前のかぐわしいブレンドが思い起されます」と宣伝されていたものだ。「世界文学ライブラリー」のこの小巻にも同じようにかぐわしい、より最近の調合が思い起される――三十年が過ぎ去った文学的な酒や麻薬である(九十年代をお茶の生産と較べても侮辱にはならないだろうが)。我々は「このうえなく柔軟な皮の」入口を通り過ぎるように感じ――出版社のやり方は時代特有の異国風の色合いがあるようだが――ダウソンの『成功者の日記』の主人公とともに「いつでも秋である」都市ブリュージュを再訪し、「サン・ソウヴェールを散策し、薄暗くほこりっぽい通りをさまよい、やがて高い祭壇に腰を掛けるとむっとするような香の香りで空気は重くなり、回顧に耽る」ように感じる。すべてのページに我々はかつては強かった香の幽霊を呼吸し、回顧に耽ることは次のような詩を読むときに涙を催させる。

 

君の完璧な口にある赤い石榴よ!
私の唇の果実はそれを味わい死ぬことだろう
香る南風が苦悶を抑えつける
ここ、君の庭においては

ひとつの長い接吻で君の活き活きした唇は死を収穫し
君の眼は私の死を見取り休らう
私にとって生がこれほど甘美なことがあろうか
君の胸ですみやかに死ぬことをおいて?

それがかなわぬなら、愛のために、親愛なるものよ!
沈黙を守り、我々が横たわっていると夢みよう
赤い口と口がからみ合い、つねに
南風の調べが聞えている。

 

気の抜けた香と回顧、我々はそれをシモンズ氏の魅力的な序文にも呼吸する。「それ以前に、彼と会ったという漠然とした印象があったが、たしか夜だったと思うが、どこで会ったかは忘れてしまった。そのときにも、その外見や振る舞いに哀愁を帯びた魅力、ある種キーツのような顔、非道徳的なキーツのような顔に、奇妙なのは見事に洗練された作法と、なにか荒廃したものが見てとれた。・・・私は時折気分転換に彼に会うことを好んだが、コーヒーやお茶より強いものは飲まなかった。オックスフォードで彼が好んだ酔いはハシシュによるものだったと私は信じている。後に彼はそれが幻視的な感覚の手の込んだ実験というよりも、よりたやすく忘却に通じることを感じて諦めた。おそらくは常に、多少意識的に、少なくとも常に真面目に、新たな感覚を探求しており、私の友人は彼にとって最上の感覚は情熱と心のこもった崇拝の対象であることを見てとっていた・・・」我々は「なにかしら」、「少々の」「繊細な」「無限に」などといった一節を無限に引用し続けることができるが、それらは不在によって最後に目立ってくるものである。この本にあるすべて、シモンズ氏の序文、ダウソンの詩、ダウソンの散文は、一緒になって忘れられたかぐわしいブレンドの香気を思い起させる。実際、そんな具合なので、批評家のように質問に答える代わりに、物事のはかなさの感傷に浸りきってしまう危険がある。どんな正当性によってダウソンの詩が世界文学のなかに加えられるのだろうか?しかし、多分、このシリーズをあまり真剣に受け取るべきではなく、世界の最良の作家としてエレン・ケラー、オスカー・ワイルドロード・ダンセイニウッドロウ・ウィルソンが含まれているのだ。我々の疑問をより穏当なものに変えよう。二十五年の後に、世界が異なったむしろ彼に敵意のある文学的流行に支配されているときに、ダウソンの詩は十分に生気をもち、出版社が再版する価値があるのだろうか。


 ダウスンはマイナーな詩人だった――本人なら「無限に」マイナーだと言ったかもしれない。彼はたった一つの感情しか表現できず、たった一つの調べしか知らなかった。しかし、その限界に彼の強みがある。というのも、メランコリーばかりを常に歌い続けることで、最終的に彼は小さいが独特の完成に到達したからである。そして、完成というのは、たとえそれが小さく限定されたものであっても、常に詩人の地位を保証し、読み捨てられることはなくなる。


 ダウスンはヴェルレーヌ流派のセンチメンタリストであり、英国におけるノスタルジア使徒である。彼は悲しみを郷愁にまで洗練させた――自ら知ることのない家郷へ焦がれる病いである。それはノスタルジアに対するノスタルジアであり、確かな対象をもつ切望に対する切望である。彼が一風変わった服で飾り立てた美は、その人工的な装飾ではかなさを強調している。彼は、苦痛がある種の痛ましさまで、愛がちょっとした熱気になるまで、あらゆる感覚や感情を薄め蒸発させた。


 芸術には様々な方法で感情の表現ができる。民謡のように単純で直接的なものもあれば、直接的で身体的に影響を与える原初的な感情が知的で精神的意味合いを豊かにさせ、交響曲の複雑さになることもある。他の芸術作品を引き合いにだしたり、習熟した技法の変化を告げるデカダンス的なものもある。ダウソンは交響曲も民謡も書けなかった。彼は自発的な生やそれを送るための心的能力を持っていなかった。彼は感傷的な悲哀を高度に複雑な形式で、連想豊かに表現した。フランスの宮廷の洗練され人工的な生が旧体制の最後の日にも完璧にまがい物のメランコリーを見せたように、連想も形式の複雑さも感傷的な効果に付け加えられるだけだった。結局のところ、次のように書くことになんの達成もない

 

私は多くを忘れてしまった、シナラよ!風とともに去ってしまった
玉座にはあふれんばかりの薔薇また薔薇が投げつけられる
君の心から青ざめた失われた百合を取り出すために踊りながら
しかし私はわびしく、古い情熱に病んでいる
そう、いつでも、踊りが長いものだから
私はシナラよ!君に忠実だ、私なりの流儀で



イメージや隠喩は古く、技術も古く、すべてが非常に人工的である。だが、詩は心を動かす。ダウソンは自分の人工的な感情に完璧な表現を見いだした。純粋な沈黙の主音域から傷心の不調和を通じて、手の込んだ「死への墜落」を発見した――すべてが無に終わり、無しかない。


 非存在の主題変奏は精神が望み、必要とする――身体的に疲労し、精神が物憂いとき、それが感傷性の真の親であり、ヴェルレーヌノスタルジアはあまりに微妙に立ちこめており、ラフォルグは知的であまり真価が認められておらず、死へ墜落するダウソンは、そのゆったりと整えられたリズム、いかなる重要な意味づけもなく落ちついている彼だけが詩人にふさわしい。我々は感傷性に襲われて苦しむことがある。同種療法の一環として次に寝るときにはダウソンの詩を用意しよう。


1919年10月10日 Athenaeum

怪談噺の落語化――三遊亭圓生『お化け長屋』

 

NHK落語名人選(86) 六代目 三遊亭円生 お化け長屋・紀州

NHK落語名人選(86) 六代目 三遊亭円生 お化け長屋・紀州

 

  六代目三遊亭圓生の『お化け長屋』をはじめて聞いたときには、落語にはよくあることだが、同名の別の噺なのかと思った。マクラが他の演者とまったく異なっていたからである。普通は題名にあらわれているように、昔はいまと違って長屋というものがあり、と長屋のエピソードが語られる。

 

 ところが圓生の場合、落語や講談の怪談噺の演出のことが語られるので、それこそ怪談か芝居噺でも語られるかと思ってしまったのだ。しかし、考えてみれば、圓生のマクラも見当外れとは言えない。というのも、『お化け長屋』は怪談が一方では成功し、他方では失敗する噺だからである。


 ある長屋に一軒の空き家があり、住人たちはそれを物置代わりに使って重宝していた。それを知った大家はカンカンになり、部屋を綺麗に片づけ後の者が入れるよう申し渡す。長屋の連中は便利な場所を手放したくない。自分に任せておけというので、借りにきた者たちはすべて、長屋で一番の古手である杢兵衛さんにまわされることになる。杢兵衛さんは、貸してもいいが敷金や家賃を取るわけにはいかない、その訳はこうだ、と思い入れたっぷりに因縁を語る。この部屋にはかつて後家さんが住んでいたこと、ある晩強盗に入られ、ひょんなきっかけから刺し殺されてしまったこと、それ以来幽霊が出ること。


 最初にきたのはおとなしそうな人物で、最初から怖がっており、濡れ雑巾を顔に押しつけると財布を放りだして逃げだしてしまう。ところが次にきたのがやけに威勢のいい男で、幽霊結構、後家だっていうなら抱いて寝てやらあ、荷物を持ってくるから掃除を頼むと言い置いて、さっきの男の財布まで持って行ってしまう。


 ほとんどの落語家はここで切るのだが、続きがあって、敷金も家賃もいらないなどといってしまったものだから、どうしても追い出そうということになって、ひとりでに仏壇の鉦が鳴ったり、障子が開いたりするいたずらを仕掛ける。

 

 男は親分のところに逃げ込み、今度は親分が乗り込んでくるが、その威勢のよさが男以上であったから大入道に化けた三人のうち二人は逃げてしまい、残されたのが頭を受けもつ按摩さん、按摩だけを残してずらかるとは足腰のない奴らだ、はい、足と腰はさっき逃げてしまいました。


 この後半の部分があると、親分のところに逃げ込んだ男は、はなから幽霊などいない、あるいはいたところでなにか具体的に邪魔になることがないならいいと気にとめていないわけではなく、その前のおとなしい男と同じように怖いのだが、『強情灸』のように意地を張って怖くないふりをしていることになる。

 

 そうだとすると、この男が杢兵衛さんの話を聞いている間に幾度となく差しはさむ茶々は観客を本気で怖がらせようとしている怪談噺に対する落語からの茶々そのままになっている。怪談噺の因縁は捨象されて、生活が支配する場に変化させられる。障子がひとりでに開くのは便利であるし、吉原にも行かないのに女がいてくれるのは儲けものなのだ。恐怖さえなければそこにあるのは生活だけで、敷金も家賃もないうえに便利なおまけまでついてくることになる。

オルダス・ハックリレー「プルースト:十八世紀的方法」(翻訳)

 

失われた時を求めて(全10巻セット) (ちくま文庫)
 

 

 我々がプルースト氏の作品をその質において「十八世紀的」だというとき、それが磁器のような上品さ、ばかげていながら美しい形式をもっている(実際にもっているのだが)ので、おそらくは誤った推論ではあろうが、歴史のうえでもっとも文明化された時期に割り当てたい気持ちがするのである。十八世紀の可憐な形式主義は、ほとんどが我々自身の発明によるものである。我々の心に存在する過去は、おおむね満足を得るための神話で、各世代特有に必要とするプロパガンダや満足のために創造され、また再創造される。ロマン主義者たちは十八世紀を道徳と知的堕落の時代とみた。我々はそれをまったく異なって描いている。貴重ですばらしいFetes Galantesやマラルメの精巧で不首尾に終わったPrincesse a jalouser le destin d'une Hebeが具体化したものだとする者もある。神秘主義、大言壮語、感傷性、熱烈な道徳を打ち据える杖を求め、最良の啓蒙と完全な合理性の時代として提示する者もいる。ロマン主義も含めて、おそらくどの見方にも真理の要素はあるだろう。しかし、我々が関わっているのは過去一般における神話の契機ではなく、「スワン家の方へ」や「花咲く乙女たちの陰に」が質において「十八世紀的」だというときになにが意味されているかという問題である。


 プルースト氏は今日我々が当てはめる二つの意味で「十八世紀的」である。彼の風習喜劇は、非常に精巧に、社交的、あるいは「社会」生活の魅惑的な無益さを扱っている。ウェルズ氏はヘンリー・ジェイムズを部屋じゅうをエンドウ豆を追いかけるカバに喩えた。それに比例すればプルースト氏は恐竜のようなもので、『失われた時を求めて』の最初の二巻では、既に単調できっちりした小さな文字で千二百ページを埋めているのだから、アリスならば挿絵や会話がないことに不満を述べただろう。そして、失われたときが最終的に「見いだされる」にはまだ三巻が続くのである。この恐竜は体重が重いだけではなく、知性の重みもあって、サンジェルマン郊外の社交界のなかや上流ブルジョア花柳界の周辺にほんの小さなエンドウ豆を追い求める。


 しかし、主題のこのうえなく洗練された軽薄さ――当時の厳格な芸術界においてこうした主題を本格的な芸術家が本格的に扱うことにどんな喜びがあったろう!――だけがプルースト氏の作品の「十八世紀的」な性質ではない。彼は別の意味でも「十八世紀的」である――自分なりのやり方で啓蒙され、非常に知的である。もし彼の方法を検証してみるなら、我々はそれが非常に発展し、手の込んだものになっているが、十八世紀の方法と根本的には同じであることを見いだすだろう。


 フランス小説の歴史の第二巻で、セインツベリー氏は「心理学的リアリズムは心理学的現実と異なることは、明敏な者にもそれを認め、あるいは理解するのに二世代かかった」と言っている。心理学的リアリズムと対立する心理学的現実は、十八世紀が性格描写において目指したものだった。その分析の良質の部分にはなにか並外れて満足させ説得力をもつものがある。アルフィエーリの自己肖像のしっかりした輪郭と正確さ、ベンジャミン・コンスタンの『アドルフ』の繊細でありながら簡潔で無駄のない描写は讃仰の眼で考えられている。彼らは雑多なものからの抽象、混乱した心理学の諸事実よりも一般的にすることで効果を生みだす。「この二世代の明敏な者」は、ごちゃ混ぜの事実をそれらが実際に観察できるかのように正確に記録することに専心していた。彼らにとって、心理学的リアリズムは実在ではあるが粗野な事実の抽象や蒸留よりも真実に近いように思われた。しかし、セインツベリー氏が示唆しているように、芸術的な真実と性格の説得力は、他の方法によっても到達することができた。現代の心理学に関わる発明と発達は、我々の先祖たちがほとんど無視できると思ったような思考、情動、感覚の細かな積み重ねから重要で興味深いものを見いだした。彼らはその背後にある現実をみることに主たる興味を抱いていたので、現象についてあれこれ主張することはなかった。彼らは主人公の感覚や思考の束の間の願望についての細かな事実を記録しなかった。彼らは混沌とした心理学的生を合理化し、一般化して性格に統一した。ジェイムズ・ジョイス氏が『アドルフ』と同じ主題の本をいつか書くことは十分考えられる。彼はコンスタントの明確な輪郭をもった主人公の代わりに、多彩な色で感覚、記憶、欲望、思考、感情などを描き、煮え立ったそれらを一貫した性格にすることは我々の想像力に残しておくだろう。『アドルフ』か『ユリシーズ』か――どちらが真実なのだろうか?どちらもそうであり、どちらもそうではないとも想像される。どちらも、それぞれの仕方で、人間の魂の見方を、現実の異なった顔をあらわしている。


 プルースト氏は、その方法においてより古い時代に属している。彼はありのままで未消化な心理学を諦めていない。彼は資料を合理化し、蒸留し、消化できるようにし、読者が呑みこみやすいように美しく明瞭なものとする。プルースト氏は、現在の我々なら不安になるぐらいに、生と性格を権威をもって教育的に、一般化して消化の過程まで面倒をみる。ここに、文学的な会話の才をもつド・ノルポア氏の性格について、アフォリズムの標本になるものがある。

 

私の母は、彼がかくも形式張っていながら忙しなく、多くを要求しながらも友好的であり、そうした人間に通例のように「とはいえ」ということを決して理解しないことに驚いていたが、常に「なぜなら」ということも理解しないのであって、老人そのままに常に自分の年齢に驚き、田舎のいとこが驚いて報告したように、途方もないまでに単純な王である彼は、同じ慣習の体系があるからこそかくも多くの社交的要求にこたえ、手紙には几帳面に返事を出し、どこにでも行き、我々と会えば友好的であった。

 

 

 

尊敬すべき一節だが、プルースト氏の奇妙な機知と知恵に染められた一般化は、ほとんどどのページにも見いだされる。


 プルースト氏を読むことは、ほとんど計り知れない量の時間を必要とする――我々のほとんどにとっては、残念ながら!さくことができないほどのものだ。というのも、彼はゆっくり、非常にゆっくりと進み、このうえなく小さなものにまですりつぶすからだ。最初の巻である「スワン家のほうへ」で、我々は子供時代の主人公と彼をとりまく家族を紹介される。そして、驚くほどあでやかで、機知のある社交界の研究の過程で、スワンのことを聞かされる――競馬クラブのスワンは上流社会で成功を収め――知的でなかば世俗的なオデットと結婚する。第二巻で、主人公は青年になる。スワンの若い娘に対する彼の少年らしい情熱は、成長消滅し、後の部分は海辺で出会い、あるいは一瞥した「花咲く娘たち」の一群へと消散してしまう。因習的で小説的なものはなにも生じない。数多くの登場人物が舞台をよぎる。田舎や海の温泉場に連れて行かれる。それがすべてだが、我々はプルースト氏の明瞭で知的な材料の扱い方、分析と機知の鋭さと徹底的なところ、とりわけ美に対する眼識とそれを貴重なしかし真に独創的で美しいスタイルで表現した力に夢中になって読みふける。


 プルースト氏は自分自身に確信をもち、偉大な伝統的様式を見事に発展させて精巧さを確保している限り、現代文学のもっとも興味深い現象である。我々は「ゲルマントのほうへ」、「ソドムとゴモラ」の二つの部分、大部の作品を完成させる「見いだされたとき」の出現を楽しみに待っている。我々はそれらをすべて買うだろうが、おそらく出版されたときには読む時間がないだろうから、七十から八十歳の静穏で余暇のある老年までそのままにしておき、暖かな太陽のなかか、心地よい火のそばで坐って読めば、『失われた時を求めて』で幸福な年を過ごせることだろう。


(1919年8月3日 Athenaeum)

悪魔の酒とドッペルゲンガー――ホフマン『悪魔の美酒』

 

 

 『悪魔の美酒』には聖アントニウスの伝説が重要なきっかけをなすものとしてあらわれるが、その聖アントニウスとは、フローベルが小説に書き、数多くの絵画の主題ともなったエジプトの聖人アントニウス(251?-356)ではなく、パドバのアントニウス(1195-1231)であり、彼についての伝説として伝えられているものらしい。

 

 もっともホフマンはそれを小説では聖アントニウス大王(500-560)のこととして語っているのだが。それはともかく、この聖アントニウスもエジプトの聖人がそうであったように、世俗的なことから遠ざかり、全身全霊を神に捧げるために荒野に引きこもった。

 

 神への祈りを邪魔しにでてくるのがここでもまた悪魔なのは申すまでもない。悪魔はマントをまとっているのだが、ぼろぼろのマントの穴からはいくつもの酒瓶の首が突きでているのである。ひとつ試してみないか、と悪魔は勧めるのだが、もちろん、聖アントニウスはそんな誘惑に屈するほど脆弱な精神を持ちあわせてはいない。きっぱりと誘いを斥けるのだが、悪魔が立ち去ったあとには酒瓶が二、三本残されていたという。

 

 聖アントニウスは、道に迷ったものや自分の弟子たちがよもやこの酒に手をつけて、永遠の破滅に陥らないようにと、それを持ち帰り隠した。この小説の主人公であるメダルドゥスが入ることになるカプチン会修道院の遺物庫のなかには、キリストの十字架のかけらや聖人の遺骨や衣服の切れ端といった聖遺物とともに、聖アントニウスが持ち帰った悪魔の酒のうちの一本が、小函に入れて保管されているのである。

 

 メダルドゥスは遺物庫の管理を任され、誘惑に抗しきれずにこの酒を飲んでしまう。その後、メダルドゥスは姦淫の罪を犯し、二人の人間を殺し、二人の人間を殺しそこねる。もっとも、異母兄弟であるヴィクトリンが崖の下に落ちたのは殺意のない偶然であり、最愛の人であるアウレーリエを刺し殺してしまったと思い込むのは、自分の傷の血を彼女のものだと勘違いしたのだ。

 

 もっとも、こうした悪行が本当に悪魔の美酒のせいなのか、実はそれほどはっきりしているわけではない。そもそも彼にその酒を飲むようにそそのかしたのは、旅行中の伯爵で、遺物庫を案内された伯爵とその執事は、聖アントニウスの伝説を聞くと、メダルドゥスが止めるのも聞かずに、勝手に瓶の蓋をあけ、すばらしいシラクサ葡萄酒だ、と舌鼓をうち陽気に騒ぐのである。

 

 この二人はここで登場するだけなのだが、彼らにとってこの酒はなんら魔的なものではなく、単にできのよい葡萄酒に過ぎない。しかも、酒を飲む以前でもメダルドゥスは傲慢さと淫欲とを隠しおおせないような激情的な人物だったのだ。こうしたある種の保留や曖昧さがこの小説を趣き深いものにしている。

 

 メダルドゥスはドッペルゲンガーにずっとつきまとわれる。最後には、そっくりの異母兄弟のヴィクトリンが姿を変えてあらわれたのだといわば現実的な謎解きがされるのだが、どうもそれだけでは駒が足りないように思われる。どうも数多くの登場人物のなかにまだ幾人かのドッペルゲンガーが紛れこんでいるように感じられるのである。