春の世界と世界の春ーー佐藤清美『句集宙ノ音』

 

宙ノ音

宙ノ音

 

 

 幸田露伴芭蕉とその朋輩、門人たちが詠んだ歌仙を中心として成立した『七部集』を評釈した。俳諧は、一方では和歌の伝統を継承し、他方では和歌とは異なり、日常的なもの、世俗的なものを取り入れたから、考証の働く余地を大きなものとした。そこで露伴の和漢の古典や生活に根づいた膨大な知識が存分に発揮された代表作となっている。
 
 ところが、仮名遣いや歌仙のある程度の約束事、それにおおよそ寛永から元禄を生きた芭蕉とその門弟たちの生活環境と彼らが知っていたと思われる古典と故事を明らかにする考証の部分を除くと、つまり、詩の部分に関しては、「句情句意おのづから明らか」になった上は、繰り返し味わえばいいとしか述べていない。
 
 たとえば、芭蕉の有名な句に「古池や蛙飛こむ水の音」がある。様々な解釈がなされており、禅における悟りを説いたものだとも言われている。しかし、禅などと言い出すならば、室町時代連歌を完成させた二条良基の『筑波問答』という著作がある、と露伴は論じる。そこには、春のころ、古池に生い茂った草を刈ると、古木となった松と苔深い岩の取り合わせなどよりも、蛙の鳴き声がすだく水の面のほうが趣が深い気がして、春雨がしめやかにうち続いて晴れ間のないころなどは眺めていることが多かったが、そんなときに松の戸を叩く音がして、誰が来たのだろうと行ってみると、という一節を引用して、ここには古池があり、蛙があり、そしてそのあとを俳諧流に訪ねてくるものもいないと一転し、ただ蛙が飛びこむ水の音だけがある、と解釈される。連歌の先達である二条良基の言葉は、俳諧においても尊重されたはずであり、禅などと見当違いの解釈を持ちだすよりはずっと理にかなっている。
 
 ところが、ここが露伴の面白いところなのだが、強いてそう解釈することは芭蕉の真意を失うことになるだろうと身を転じることにある。そこで詩そのものの評釈としては、「難語も無く、綺詞も無く、典故の𨗉無く、技巧の幻無く、清平の世界、天晴れ地明らかに、たゞ此一句あるのみ。」となり、つまり、たとえ二条良基の文章が芭蕉の教養として頭の隅にあったとしても、すでにそれは書架から引き出して参照するものではなく、芭蕉が生きている世界と融合しており、風が空間を流れるように、水流が水のなかを流れるように、世界そのものの軌跡、あり方として言葉がある。
 
 佐藤清美の句集は、そうした世界そのものであることとそうしたあり方に対する羨望に満ちている。明治以降のホトトギス派の写生句のように、私と写生する外的な現実があるわけではない。また、ある種の前衛句のように、内的世界と外的世界との葛藤があるわけでもない。難しい言葉も、歳時記でしかお目にかからないような季語も、思わせぶりな典拠も、目立つ技巧もありはしない。そろそろ実例を挙げよう。
 
白梅の夜を灯して咲きにけり
桜前線身を越してゆく昨日今日
たそがれて川を見る人春の橋
春の道歩いてたどり着く彼方
写真少女瞳に風を捉えては
少年は秋の光を肩に乗せ
雨降って春の陣地となる明日
佇めば水道橋は春の中
電線は春の羽衣編んでおり
どの肩も光の破片浴びる夏
ストーブに棲む妖精の小言かな
棲みきれば彼方此方は秋の音
 
 春の句が多いのは、まさに春が世界が生動する季節であり、その句の本質的な意味において佐藤清美は春の俳人だと言える。反対に冬の句が極端に少ないのは、世界が停滞し、澱んでいるからである。また、世界=季節の移り変わりだけがあるので、人事に関する句が少ないことが欠点に思われるかもしれないが、より人事を振り切って、植物化、獣化、鉱物化する過程にあるのだと肯定的に考えることもできる。彼女がどんな生活を送っているのかはまったく知らないが、放蕩の限りを尽したヘンリー・ミラーの次の美しい一節をまんざら拒否することはないと思う。『ビグ・サーとヒエロニムス・ボッシュのオレンジ』(田中西二郎訳)からである。
 
 醒覚した生において、すべてがうまくいって心配ごとが消え去るとき、知性は沈黙させられて夢みごこちにすべりこむと、われらは永劫の流転に至福を味わいつつ降服し、生の静かな流れに乗って恍惚とただようのではないだろうか? われらはみな植物、獣、魚介、あるいは空中に棲む生物たるおのれを知るとき、そのときこそ全き忘却の瞬間を経験する。あるひとびとのごときはおのれが古代の神々としてあった瞬間をさえ知った。大多数の者はおのれの生涯でただ一瞬、まことに悦ばしく、まったき調和を味わって、「ああ、いまこそは死ぬべきときだ!」と叫びそうになった一瞬を知っている。この陶酔的な幸福感の核心に潜むものは何か? それが長くは続かぬであろう、続きえないという思いであるか? ギリギリ結着、という意識だろうか? そうかもしれぬ。だがぼくはそこにもう一つの、より深い見方があると思う。つまり、こうした瞬間、ぼくらはぼくら自身ずっと以前から知ってはいたがいつも受け容れるのを拒んで来たことーー生きることと死ぬることとは一つであり、すべては一つであり、われらは一日しか生きまいと千年生きようと変りはないのだということーーこれらのことを自分に言い聞かせようとしているのだとぼくは思う。
 

 

 

郊外と恐怖ーーデヴィッド・ロバート・ミッチエル『イット・フォローズ』(2014年)

 

イット・フォローズ [DVD]
 

 

 私は最初に夢中になった映画の一本が『エクソシスト』だということもあり、ホラー映画が大好きである。一時期は、ロメロの『ゾンビ』、ダリオ・アルジェントの『サスペリア』、そしてフリードキンの『エクソシスト』が映画のベストの三本だった。
 
 もしかしたら、ジャンルとして、ホラー映画の変貌が最も激しいものであったかもしれない。『ゾンビ』からは、もちろん、無数のゾンビ映画が制作されたし、出自こそヒッチコックの『サイコ』などかもしれないが、『ゾンビ』の特殊技術と結びついて、『死霊のいけにえ』、『13日の金曜日』に代表されるようなスラッシャー映画も数限りなく制作された。『エルム街の悪夢』によって古典的な怪物とは異なるフレディーも生れたし、『羊たちの沈黙』や『セブン』では、殺人鬼がもはやなかば超自然的な力に足を踏み入れているといえるし、オカルトはJホラーに受け継がれている。そのほかにサイコ・ホラーもあれば、『キューブ』や『ソウ』のような独特のルールの支配する環境に投げ込まれるシチュエーション・ホラーもある。また、『エイリアン』はSFというよりはずっとぐちゃぐちゃした不定型なものに襲われるというホラー要素の方が強い。
 
 SF的ホラーには『遊星からの物体X』がある。1951年のクリスチャン・ネイビー監督とされているが、実質的には製作したハワード・ホークスの映画とされている、ジョン・カーペンターによってリメイクもされていて、さらに2011年にはカーペンター版の前日譚が映画化された。これら三本の映画はすべて現題がThe Thing、つまりもの、事物である。2017年に映画化されたものは見ていないが、スティーブン・キングの代表作は『It』であり、今回の映画化では邪悪なピエロとの対決になっているようだが、原作では、古今怪物とされていたものが見境なく登場し、どんな姿をとって現われるのかわかりようがないことから怪物あるいは恐怖の中心が「それ」と呼ばれる。
 
 つまり、吸血鬼や狼男といった古典的な怪物は、モダン・ホラーの登場を決定づける『エクソシスト』にいたって、ごく一般的な家庭の娘に悪魔が取り憑くにいたり(しかし、本当はどうであるかについては、明敏に映画そのものは答えを避けている)、なんとも名づけようのない「もの」やカメラの位置や移動によってかもしだされるJホラー的な気配にまでたどり着いたといえる。
 
 そして、『イット・フォローズ』(原題も同じ)では、確かに名づけようのないものが襲ってくる。「それ」は人間の形をしており、知り合いの姿をとることもある。移動速度は人間が歩く程度のもので、遅いが休むことなく確実に迫ってくる。その姿は現に追いかけられている当人、そしてセックスによってこの現象を他人にうつしたものにしか見ることができない。
 
 この現象は性交渉をすることによって感染するが、他の人物と性交することによって逃れることができる。ただ、うつした人間が死んでしまうと、その人物と直近に性交した人間にこの現象が再びあらわれる。ということは、この現象は最初から一人にあらわれるようになったのか、それとも複数の人間に同時にあらわれたのか。この現象は罹患した人間が絶滅することによって終わりをとげるのか、ゾンビものにおいても、死人が動きだす原因が説明されることはないが、この映画はより徹底していて、迫ってくる「それ」がなんであるのか、それがどうすれば倒すことができるか、いっこうに明らかにされない。
 
 ゾンビものの創始者であるロメロは、死人が生き返る原因こそ明白にしなかったが、各映画は人種問題、消費社会、軍人と文官との関係、格差社会などを明確にアレゴリー化していた。ロメロの映画ほど露骨なものではないが、この映画にも明瞭な意図が見て取れる。それはロメロのように、政治的、社会的な状況を戯画化しようとするものではない。むしろ、ある光景を見せつけようとする意図である。
 
 それは怪物とも呪いとも関係がなく、その意味において、この映画をホラー映画にジャンル分けすることが正当であるかさえわからないが、少なくとも近年の映画のなかでは私にもっとも恐怖を抱かせた映画である。
 
 もともと幼いときからホラー映画が好きなくらいであるから、私はほとんどその種の映画に恐怖を感じることはなくなっている。ここ数十年で心底怖かったのは、ドキュメンタリーの断片で、コロンビアの麻薬抗争のもっとも激しいところで、現地のコーディネーターに危険だから車から降りたりはしないという条件で、自動車で走り抜けた道で、街には人影はなく、丸まった紙くずだけが風に舞っていた。それらしい理由をつけようと思えばつけられるが、いまだにこのとき感じた恐怖を越えるものにであったことはない。
 
 この映画では迫ってくる怪物やこの病気?に対して大学生の女性の主人公とその妹と友人たちが対峙するのだが、やがてはっきりとあらわれてくるのは、アメリカ映画で繰り返し、無数に描かれてきた郊外の荒廃した姿である。何十年ものあいだホーム・ドラマの舞台になり、ごく平均的なアメリカ人の夢の対象であるはずの郊外の家並みは、世界の終わりといった出来事にさえ見放されているように見える。

郊外と恐怖ーーデヴィッド・ロバート・ミッチエル『イット・フォローズ』(2014年)

 

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 私は最初に夢中になった映画の一本が『エクソシスト』だということもあり、ホラー映画が大好きである。一時期は、ロメロの『ゾンビ』、ダリオ・アルジェントの『サスペリア』、そしてフリードキンの『エクソシスト』が映画のベストの三本だった。
 
 もしかしたら、ジャンルとして、ホラー映画の変貌が最も激しいものであったかもしれない。『ゾンビ』からは、もちろん、無数のゾンビ映画が制作されたし、出自こそヒッチコックの『サイコ』などかもしれないが、『ゾンビ』の特殊技術と結びついて、『死霊のいけにえ』、『13日の金曜日』に代表されるようなスラッシャー映画も数限りなく制作された。『エルム街の悪夢』によって古典的な怪物とは異なるフレディーも生れたし、『羊たちの沈黙』や『セブン』では、殺人鬼がもはやなかば超自然的な力に足を踏み入れているといえるし、オカルトはJホラーに受け継がれている。そのほかにサイコ・ホラーもあれば、『キューブ』や『ソウ』のような独特のルールの支配する環境に投げ込まれるシチュエーション・ホラーもある。また、『エイリアン』はSFというよりはずっとぐちゃぐちゃした不定型なものに襲われるというホラー要素の方が強い。
 
 SF的ホラーには『遊星からの物体X』がある。1951年のクリスチャン・ネイビー監督とされているが、実質的には製作したハワード・ホークスの映画とされている、ジョン・カーペンターによってリメイクもされていて、さらに2011年にはカーペンター版の前日譚が映画化された。これら三本の映画はすべて現題がThe Thing、つまりもの、事物である。2017年に映画化されたものは見ていないが、スティーブン・キングの代表作は『It』であり、今回の映画化では邪悪なピエロとの対決になっているようだが、原作では、古今怪物とされていたものが見境なく登場し、どんな姿をとって現われるのかわかりようがないことから怪物あるいは恐怖の中心が「それ」と呼ばれる。
 
 つまり、吸血鬼や狼男といった古典的な怪物は、モダン・ホラーの登場を決定づける『エクソシスト』にいたって、ごく一般的な家庭の娘に悪魔が取り憑くにいたり(しかし、本当はどうであるかについては、明敏に映画そのものは答えを避けている)、なんとも名づけようのない「もの」やカメラの位置や移動によってかもしだされるJホラー的な気配にまでたどり着いたといえる。
 
 そして、『イット・フォローズ』(原題も同じ)では、確かに名づけようのないものが襲ってくる。「それ」は人間の形をしており、知り合いの姿をとることもある。移動速度は人間が歩く程度のもので、遅いが休むことなく確実に迫ってくる。その姿は現に追いかけられている当人、そしてセックスによってこの現象を他人にうつしたものにしか見ることができない。
 
 この現象は性交渉をすることによって感染するが、他の人物と性交することによって逃れることができる。ただ、うつした人間が死んでしまうと、その人物と直近に性交した人間にこの現象が再びあらわれる。ということは、この現象は最初から一人にあらわれるようになったのか、それとも複数の人間に同時にあらわれたのか。この現象は罹患した人間が絶滅することによって終わりをとげるのか、ゾンビものにおいても、死人が動きだす原因が説明されることはないが、この映画はより徹底していて、迫ってくる「それ」がなんであるのか、それがどうすれば倒すことができるか、いっこうに明らかにされない。
 
 ゾンビものの創始者であるロメロは、死人が生き返る原因こそ明白にしなかったが、各映画は人種問題、消費社会、軍人と文官との関係、格差社会などを明確にアレゴリー化していた。ロメロの映画ほど露骨なものではないが、この映画にも明瞭な意図が見て取れる。それはロメロのように、政治的、社会的な状況を戯画化しようとするものではない。むしろ、ある光景を見せつけようとする意図である。
 
 それは怪物とも呪いとも関係がなく、その意味において、この映画をホラー映画にジャンル分けすることが正当であるかさえわからないが、少なくとも近年の映画のなかでは私にもっとも恐怖を抱かせた映画である。
 
 もともと幼いときからホラー映画が好きなくらいであるから、私はほとんどその種の映画に恐怖を感じることはなくなっている。ここ数十年で心底怖かったのは、ドキュメンタリーの断片で、コロンビアの麻薬抗争のもっとも激しいところで、現地のコーディネーターに危険だから車から降りたりはしないという条件で、自動車で走り抜けた道で、街には人影はなく、丸まった紙くずだけが風に舞っていた。それらしい理由をつけようと思えばつけられるが、いまだにこのとき感じた恐怖を越えるものにであったことはない。
 
 この映画では迫ってくる怪物やこの病気?に対して大学生の女性の主人公とその妹と友人たちが対峙するのだが、やがてはっきりとあらわれてくるのは、アメリカ映画で繰り返し、無数に描かれてきた郊外の荒廃した姿である。何十年ものあいだホーム・ドラマの舞台になり、ごく平均的なアメリカ人の夢の対象であるはずの郊外の家並みは、世界の終わりといった出来事にさえ見放されているように見える。

セピア色の彷徨ーーアキ・カウリスマキ『カラマリ・ユニオン』(1985年)

 

カラマリ・ユニオン [DVD]

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 共産党宣言以来、特にモダニズム芸術において多くの宣言がなされてきたが、未来派ダダイスムシュルレアリスムという代表的な運動が生活の倫理化とともに、演劇化を伴うことはある意味当然であって、それこそブルジョア的価値を粉砕し、機械や速度、無意味であること、超現実的な黒いユーモアを称揚するには、既成の生活に取って代わる新しい生活を自ら体現する必要があった。
 
 しかし、おそらく資本主義の消費のスピードは彼らが思ったより、ずっと早く、表層だけをすくい取って、使い捨てにされてしまった(「シュールなコント」などと使われるが、『シュルレアリスム宣言』に書かれた相反したものが一致する「至高点」のことを考えているものなどいない)。その結果、シュルレアリストアンドレ・ブルトンは、「除名」という政党のパロディのような行為をするまでに追い詰められてしまった。
 
 しかし宣言をするにしろ、しないにしろ、西部劇や時代劇が人気があるように、倫理観の異なった人間は、犯罪者や英雄などとともに、演劇的であるとともに映画的でもあって、『カラマリ・ユニオン』つまり、「イカ墨同盟」という同じ目的をもつ者たちの共闘もまた実に映画的である。
 
 フィンランドの映画は、おそらく、カウリスマキしか見ていない。そして、カウリスマキの映画を見ると、フィンランドという国名よりも、首都であるヘルシンキの方が耳になじんでいるようなのはなぜなのだろう、と思い、なにか意味があるような気がするのだが、今回もまた数日考えたのだがなにも思いつかない。ヘルシンキ・オリンピックというのはあるが、私が生まれる遙か前のことで、そもそもオリンピックになんの興味もない私は、前回がどこであったかもはっきりと思い出せないのだ。
 
 ヘルシンキにしても、なにか語感がフィンランドよりは耳に慣れているような気がするだけで、具体的な映像はなにも思いつかない。『ザ・キリング』や『ブリッジ』などのノルディック・ノワールと呼ばれるテレビ・ドラマ、ベルイマンラース・フォン・トリアーの映画などによって、スウェーデンデンマークなどの街の印象はおぼろげながらわかるような気がする。黄色い光線と、夜気のなかで硬質な光沢をたたえているビル群と、葦のような背の高い草がどこまでも続く沼沢地である。
 
 ところで、カウリスマキのようなオフビートな映画で、舞台となっている国の一般的な印象を得るというのは、ジム・ジャームッシュの映画を見てアメリカについての印象を得ろというようなもので、どだい無理な話なのだ。
 
 『カラマリ・ユニオン』という映画は、人間らしい生活を取り戻すために、全員フランクと名乗る一団の男たちが(データベースには十五人となっているが、私が数えたかぎりでは十三人だと思う、それほど深い意味があるとは思わないが、つまりは主と十二人の使徒というわけで、実際、キリストを主人公とした古い映画が引用されてもいる)エイラと呼ばれる地に向かう。
 
 その道のりはほとんどスラップスティック・コメディーであり、ヒッチハイクでボンネットに乗るものもいれば、コンビニの女店員を一目見て襲いかかるものも、女性に誘われて去ってしまうものもあり、かと思えば野外に設けられた舞台でバンドを組んで演奏もする。
 
 でたらめで、およそ情動というものを画面に見せないデッドパンを演出においても貫いているカウリスマキだが、ヌーヴェルバーグ以来、小津安二郎ブニュエルゴダールトリュフォーなど、先人たちへの敬愛の念をあらわにする数少ない映画監督の一人でもある。この映画でも、『勝手にしやがれ』のベルモントと同じような死に方をする登場人物が出てくる。
 
 そもそもこの映画は「この地にいまだ漂うボードレール、ミショー。プレヴェールに捧げる」という字幕とともに始まり、本来、カラマリ=イカ墨とは、セピア色のセピアのことであり、ペンのインクとして使われた、したがって、イカ墨同盟とはセピア同盟であり、ボードレールやミショーやプレヴェールの過去を忘れないためのものでもある。

記憶の三幅対1~デヴィッド・リンチ『ツイン・ピークスThe Return』、Last Exit/Low Life、パウル・ツェラン「マリアンネ」

 

 

 

Low Life Last Exit [12 inch Analog]

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パウル・ツェラン詩文集

パウル・ツェラン詩文集

 

 

 わたくしが3という数字に特別な思い入れをもっているのは、あるいは幼いときに、例の有名ななぞなぞを聞いたせいかもしれません。
 朝には四つ足、昼には二本足、夜には三本足で歩くものは何か、というスフィンクスオイディプスに出した謎々です。
 父親を殺し、母親と同衾する『オイディプス王』の話を幼い子供にするとは考えにくいので(学校で聞いたような記憶があるので)、オイディプスがまだ自分の運命を自覚する前、旅の途中で倒したスフィンクスが出した謎の部分だけを話してもらったのだと思います(謎が解けぬ旅人たちは殺されてしまう)。
 ところで、わたくしは、答えとその謎解きを聞いても、どうもピンとこなくて、もちろん三本目の足とは杖のことで、答えは「人間」なわけですが、杖をついている人間の姿を現実に見たことがなかったせいもあるでしょうが(『水戸黄門』では見ていましたが)、朝昼夜という循環するものを幼児、青年―壮年、老年という一方向的なものに限定することに割り切れない思いもあったように思われます。
 そもそも四足歩行から二足歩行に進化したことに動物と人間との最も大きな相違があり、二足歩行によって自由になった手を用いて、道具を作ることができるようになった、そこから人間と動物を決定的に差異化する、「道具を作る動物」あるいはそのヴァリエーションである「言語を操る」「社会を形成する」「対面で性交する」などなどの人間の定義があらわれてきたわけですが、二足歩行になることはこの上なく不安定になることでもあり、有機的全体から脱落し、不安や神経症に悩むことでもあるわけです。
 道具、言語、社会などは安定を得るための三本目の足、つまりは杖に代わるものであり、有機的全体から滑り落ちてしまった人間が生きていくのに必要なものだとすると、つまり、朝は四本足、昼には二本足、夜には三本足で歩くというのは、人間の老年への衰弱をあらわしたものではなく、まさしく人間の欠如と過剰さをあらわしたものになるのではないでしょうか。
 
 さらに、二項関係は必然的に比較という行為を誘いだしますが、三項になるとそこに働いている比率、組み合わせの妙が問題となって、ある意味連句に近いものになって、たとえば、ご承知かどうか、連句は任意の人数が集まって座を作り、575,77,575と句をつなげていき(花(古典で花といえば桜のこと)や月を出す場所も決まっているのですが、細かな規則はここでは面倒ですし、それほど詳しいわけでもないので避けておきましょう)、面白いのは、そのようにして36句を何人かが交代して詠んでいくのですが、それがある物語を形作るのに奉仕してもならないし、もっといえば、ある特定の句を物語として、あるいは情景として回収することも忌み嫌われることで、といって、もちろんまったく関係のない句を出しても意味がないので、つかず離れず、絶妙な距離感が必要とされることにあります。
 
 と理屈にもならない理屈を述べてきましたが、要するに、映像、文字、音を媒体とする作品をコーディネイトしてみようということです。もともとそうした作業が好きなのだけど、うまくできるかはそのとき次第。
 
 まず取り上げるのがデヴィッド・リンチのテレビ・シリーズ『ツイン・ピークスThe Return』全18話。
 
 物語は単純で、前シリーズ『ツイン・ピークス』の謎を解くといえば、もちろん簡単ですが、リンチによる最新の映画『インランド・エンパイア』以上に好き勝手なことをしているので(まるまるリンチ的幻想というエピソードもあります)、リンチが好きな人は舌なめずりもしましょうが、本気で「合理的な」謎解きを期待している人は(まさかリンチにそんな期待はしないと思いますが)茶碗のひとつも投げつけたくなるかもしれません。
 
 ちなみにこれまでのリンチ作品のなかで、最もテイストが近いのは、『イレイザーヘッド』でしょうか。あの映画のように、どこといって特定されない場所で、アルカイックでありながら人知を超えた錬金術的な実験が行われているかのように感じられます。別世界への入り口ともなる重要な役割を電気が負わされており、スチーム・バンクならぬエレクトリック・パンクの趣があります。
 
 長髪で悪を体現したかのようなクーパーと、前シリーズ通りの好人物のクーパーが登場しますが、このドッペルゲンガー現象は別に大した問題ではなく、大したことではないというのは、例えば二人が善と悪を代表して戦い合うというようなことはなく、また二人の言動が物語の中心を占めるわけでもなく、二つのノイズでしかありません。
 
 結末については触れないほうがいいでしょうが、実に絶妙なもので、わたくしには見事な解決になっていると思えました。
 
 音楽は『Low Life  Last Exit』、「Low Life」と「Last Exit」は本来別の作品になる予定だったらしい。Last Exitはのちにジャズのバンドとして知られることになるので、Last ExitのLow Lifeだと勘違いされる可能性がありますが、「Law Life」はバス・サキソフォンピーター・ブロッツマンとエレクトリック・ベースのビル・ラズウェル、「Last Exit」ではブロッツマンがバスをテナー・サックスに持ち替え、さらにギターのソニー・シャーロックとドラムのシャノン・ジャクソンが加わっています。
 
 録音は1986年だったが、レコード会社ともめごとがあって、発売されたのは1990年、わたくしがもっているのは2007年にCD化されたものです。電化された楽器も使われていますが、同じ時期のひょろひょろしたフュージョンなどとは比較を絶する触れなば切れんハードコア。
 
 リンチの今回のシリーズではほぼ毎回クラブで歌が歌われるところで終わっていて、その歌のほとんどが前回のシリーズのアンジェロ・バジェラメンディと同じように、甘美な歌で、それがまたリンチ的世界の重要な構成要素をなしていますが、もしリンチが映像でしたことを音楽でするとなると、こんな音楽にもなろうかというもの。それだけビザールで不安感を喚起します。
 
 言葉としては、パウル・ツェランの詩集に収められた『罌粟と記憶』の「マリアンネ」をあげたいと思います。2ページを満たすことのない短い詩です。
 
 きみのまなざしは「鏡ガラス」、「目から目へ雲が流れる」、きみの軀は「無比の葡萄酒」、きみの心臓は「穀物のなかに浮かぶ舟」と恋人であるマリアンネを愛おしむ言葉が続きますが、二行からなる最後の一連、その一行目でその恋人が死んでいることがわかり、最後の一行が続きます。
 
「世界の床にいま、夢のターレル硬貨の落ちる音がする。」
 
ターレル硬貨とは、ターラーとも呼ばれる銀貨のことで、16世紀から数百年ヨーロッパで使用されていたということです。
 
 マリアンネを運ぶのはテントの前に進み出た小部隊で、「世界の床」に落ちるターレル硬貨が担うものとともに、一挙に、まさに堰を切ったごとく、歴史と時間が押し寄せ、世界が顕現するのです。
 
 それはまさしく、『ツイン・ピークス』の最初のシリーズでは冒頭で死に、今回のシリーズでは最後の場面を担うことになるローラ・パーマーの叫び声が二つのシリーズを越えて広がる世界を顕現しているのに等しい効果をあげているのではないでしょうか。
 
 もちろん、顕現とは別の世界のそのときの姿が瞬間的にあらわれでるに過ぎないわけですから、わたくしがあげた三つの作品は、繰り返し様々な姿をあらわしてくれるでしょう。

融解する街ーークレイジーケンバンド「夜のヴィブラート」(『777』所収)

 

777

777

 

 

 鎌倉、横浜、横須賀は私にとって長い間、眷恋の地である。とはいっても、諸条件の折り合いがあって住むことはできないできたし、むしろ、住みたいというよりは、そこで育ちたかったといった方がよく、ユートピア幻想に近い。
 
 いかにこの願望がファンタズムに近いかということを示すのは、横須賀に至っては、一度しか行ったことがない。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」で衝撃を受けた世代なので、横須賀は常に気になる存在だったが、もう何十年も昔、行ったときはスカジャンの店を数軒覗く程度で、街の骨格を知るにはほど遠いものだった。
 
 しかし、宇崎竜童もまた京都生まれで、幼少の頃に東京に移り住み、そしてまた、父親は船乗りを経たあと船具屋を経営しいた富裕な家庭の育ちだというから(その後父親の会社が倒産して辛酸をなめたようだが)、横須賀に対して私よりもずっと豊かで具体的なファンタズムを形成していたのかもしれない。それゆえ、実際に横須賀で成長した山口百恵という具体的存在と仕事をするようになったときには、内心小躍りしていたかもしれない。
 
 この三カ所のなかで一番頻繁に通ったのは、鎌倉である。もっともここ数年は行っていない。何回か行くと通り道も定まってきて、だいたい北鎌倉で電車を降りて、紫陽花寺や銭洗い弁天に寄ったり寄らなかったり、鎌倉までぶらぶら歩いて、小町通りにその頃は二軒あった古本屋を冷やかして、鶴岡八幡宮前の大きな通りに出ると、観光客が煩わしいのでお宮の方はへ向かわずに、海岸の方に歩き出し、しばらく行くと、右手に折れる道があるので、そこを折れて踏切を渡り、ずっと歩いていると割と大きな古本屋があり、本の数は多いのだが、なにしろ雑然としていて、積み重なった本を確かめていくとすぐに時間がたってしまうのだった。一通りその店を見て、そのまま先に進むと長谷寺で、時間がないときにはそこから江ノ電に乗るのだが、余裕があればそれから江ノ島まで歩き、夕暮れの海を眺めていると、なかなか甘美な気分になるものである。
 
 そんなわけで、鎌倉に特に文句があるわけではないが、私にとってはいささか文化的香気が強すぎる。言い方を変えれば、日常に足をつけるためのおもりになるものがなかなか見当たらない。おぼえているかぎり、コンビニもスーパーもなかったように思う。先日、たまたま藤沢周の『武曲』(「むこく」と読む。著者は確か北鎌倉の方に住んでいらしたと思う)という鎌倉の高校の剣道部を舞台にした小説を読んでいたら、高校生たちは大船に買い物や遊びに出ていた。大船の商店街は充実しているし(確か)、街としても悪くないと思うが、買い物やちょっとした遊びのためにわざわざ大船に出て、あの大きな観音像を見ることを思うとげんなりする。
 
 そう考えると、私のユートピア願望をたぶんもっとも満足させてくれるのは横浜だということになる。といっても横浜市駅周辺にはほとんどなにもないから、関内駅を起点にして球場や中華街から、線路をまたいでモール街などが収まる放射状に広がる一帯である。「横浜も関内までがハマのうち」というわけである。
 
 特に関内の中華街とは反対の側の街の大きな魅力は、新宿の歌舞伎町などのように、風俗店が一区画に押し込められることなく、商店街と地続きに並んでいることで、これは何十年も前のことになり、現在は条例が厳しくなっているようだが、黄金町や日ノ出町の方にまで足を伸ばすと、ほぼ下着姿の女性たちがあるものは無表情に、あるいは同僚たちとしゃべりながら、うだるような暑さのなかで汗ばんだ顔を外に向けていたことが思い出される。大学生ぐらいであった無知な私はそれが青線の残存であったことにはそのときは気づきもせず、ある一人の女性のいかにも肉感的であった組んだ脚のことしかおぼえていない。関内の商店街も独特で、質屋が異常といっていいほど多く、それもまたむかしながらの質屋ではなく、金とプラチナのその日のグラム単位の値段が表に出されており、ショーウィンドーに並ぶのはブランド品ばかりといういかにもいかがわしい店ばかりのなかに、開港以来の銘菓などといった老舗が入り交じる。
 
 伝統と風俗とが混在し、グローバルではないが異質な文化が混ざった横浜は、どんな音楽を取り込もうが、クレイジーケンバンドという刻印が押されていることで、いかにも横浜出身の彼らの音楽に似合っている。この曲にはライムスターも参加しているが、全然それによって曲の印象が変わらないところがすごい。
 
 この曲は横山剣菅原愛子のデュエットであるが、普通のデュエットとは異なって掛け合いではなく、ボーカルの男女二人がおそらくはスナックのママでもあろうか、別の女に自分の男をとられた女が、雨のそぼ降る恋敵の店の外にいて、扉のなかからカラオケかなにかで歌っているかつての男のヴィブラートをきかせた歌が漏れ聞こえるのに身もだえする女になりきる女唄であって、しかしながら、あの無骨な横山剣が女性になっても、また、いかにもデュエットで、男をとられた女の歌となると、場末感が出て貧乏くさくなるものだが、そうはならないのは、繰り返して聞いていると、実際にラテンの風味をつけられて歌われているのは、女の恨み節といった男女の小さな世界のことではなく、捨てられた女の「心の渇き」に直接的に結びついた、降りしきる雨のなかで「街が溶けて腐っていくわ」というヴィジョンの強烈さであって、世界が立ち上がって雨のなかで腐っていく。

リアリズムと状況ーーミヒャエル・ハネケ『コード・アンノウン』(2000年)

 

コード・アンノウン [DVD]

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 ミヒャエル・ハネケは演劇畑出身の映画監督である。しかし、その二分野がどう関わっているのかわかりにくい。映画とともに演劇にも熱心であった人物としてベルイマンがいる。5時間を超える畢生の大作である『ファニーとアレクサンドル』を取り終えた後には、映画でしたいと思ったことはしつくしてしまった、と舞台の演出に専念した(20年後に『ある結婚の風景』の続編となる『サラバンド』を監督したが)。ベルイマンの映画は、基本的に少人数で成り立っており、もちろん映画でなければできない演出はふんだんに盛り込まれているが、演劇に親和性のある映画だといえるだろう(『ファニーとアレクサンドル』の最後では、ストリンドベリの言葉が印象深く引用されている)。
 
 ファスビンダーもまた演劇活動から出発した。初期の映画では既存の大劇場では見られないような演劇と通底するものが流れており、それは1960年代に始まる日本のアングラとも共通していて、社会的運動とも連携し、それを先導してきたアングラが小劇場のブームに変わろうとしていた80年代を経験したに過ぎない私にすら感じ取れた(ちなみにこうしたアングラ感覚は、最近で言うと、園子温の『TOKYO TRIBE』にはっきりとあらわれていて、私が園子温の映画でもっとも好きなものである)。
 
 ところが、ハネケの場合、どんな演劇に携わっていたのか、皆目見当がつかない。古典的演劇なのか、前衛的なものであったのかさえ、わからない。さらには、ハネケのインタビューは何本か聞いたのだが、1942年生まれという、ゴダールとはちょうど一回り、つまり12年の年少であり、ヌーヴェルバーグの影響を受けていないとは考えにくく、ヌーヴェルバーグとは究極的なシネフィルであるから、偉大なる監督たちの名を好んで口にするのだが、私がおぼえているかぎり、ハネケが他の監督のことを話しているのを聞いたことがない。
 
 一方、ハネケが好んで口にするのはリアリティのことである。リアリティといっても、ハネケの場合、愛よりは無関心、融和よりは断裂、コミュニケーションよりはディスコミュニケーションによりウエイトが置かれていて、相当バイアスのかかったリアリティであり、私自身バット・エンドや後味の悪い結末が嫌いではないのだが、それをリアリティによって権威づけているように感じて、好きではなかった。
 
 もっとも、この映画は『セブンス・コンチネント』や『ファニー・ゲーム』などとはことなって、あからさまなバット・エンドではなく、一貫した筋があるわけでもない。聾唖の子供たちの映像から始まるように、ディスコミュニケーションに満ちた群像劇だといえる。
 
 この映画のメイキングを見て、冒頭、主要な登場人物の一人であるジュリエット・ビノシュが自宅から人通りの多いパリの街で、パンを買い、義理の弟に手渡す一連のシークエンスがあるが、その場面が200人以上のエキストラを使い、リハーサルに1日、撮影に1日使ったもので、エキストラの一人にまで細かな注文をつけていることを知って、びっくりするとともに、認識を変えることにもなった。
 
 ハネケが盛んに口にするリアリティとは、記録する対象としてのそこにあるリアリティではなく、また、映画や小説でリアリズムという場合のリアティというよりは、あり得べき状況、ちょうどサルトルが雑誌などに発表したその時々の芸術的、あるいは政治的問題についてのエッセイを『状況』(シチュアシオン)としてまとめた場合のような、より抽象度の高いものであり、抽象度が高い分、それを映画的なリアリティにするためには構成への強固な意志が必要になる。