60年代のドン・キホーテーードゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』

 

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

 

 

 

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

 

 

原著は1972年に刊行された。
 
 題名に端的にあらわれているように、ポレミックな書であるかに思える。しかし、なにに対して論争を挑んでいるのかはさほどはっきりしない。欲望をパパ、ママ、ぼくのオイディプス的な三角形のなかに抑圧し、統制する精神分析がもっとも大きな敵となっていることは明らかなのだが、フロイトに対する言及はさほど多くないし、フロイトというとき、フロイト自身を指しているのか、それとも制度としての精神分析を指しているのかあまりはっきりしないのである。
 
 たとえば、シュレーバーに対するフロイトの分析は徹底的に批判されているが、フロイトの教義が個々に、全体にわたって検証されて批判されるわけではない。フロイトよりも、ファシズムを分析し、オルゴンなる生命エネルギーが世界には充満しており、それを集積、放射することによって病気を治療できると考えたヴィルヘルム・ライヒや、イギリスにおいて反精神分析を主張したクーパーやレインの名が盛んに引きだされることによって、いわば間接的に牽制されている。
 
 さらに曖昧なのは、「フロイトに帰れ」と主張しているラカンについてであって、皮肉っぽい揶揄や部分的な言及はあっても、正面から向き合おうとはしていない。ラカンにおいて重要な理論的構成要素をなすファロスや、去勢という概念にしても、欲望をオイディプス的な図式にあてはめるものだという批判にとどまっているように思える。
 
 また、資本主義が奸智に長けたものであることは繰り返し強調されており、消費社会における欲望の充足が肯定されているわけでもないのだが、欲望という言葉が充満し、それを抑圧するものが繰り返し批判されているのを読んでいると、その気になりさえすれば、どんな欲望でも満足させることができ、家族の規範などはすでに崩壊した、ポストモダンの現代の高度な消費社会のほうが相対的にいい社会なのかと思えてくる。
 
 ガタリの単独の著作は私は読んだことはないが、ドゥルーズに関するかぎりは、対象となる哲学者の著作を徹底的に読み込み、あくまでその哲学者の思考に添いつつ、そこから思ってもみなかった「逃走線」を引きだしてくるものだった。自らの哲学を前面にあらわしたのは、ガタリとの共著を除けば、『差異と反復』のみであり、そうした意味で、非常に禁欲的な、あえて言えば抑圧的な哲学者であった。さらに、確かどこかで、論争はなにも生みださないともいっていたように思う。
 
 1972年という刊行年のことを考えると、非常に60年代的な時代性の刻印の強い作品だと感じられる。60年代は欲望と反抗の時代であり、日本でいえば、若松プロの映画や、状況劇場などのアングラ演劇、サド裁判、肉体論の盛り上がり、高橋鉄などによる俗流フロイト主義の流行があり、アメリカではケネディやマーティ・ルーサー・キング牧師の暗殺とともに性の解放が喧伝された。
 
 このような文脈において考えてみると、ドゥルーズの著作のなかでは、そしておそらくはガタリとの共著のなかにおいても、『アンチ・オイディプス』はもっとも古色蒼然としており、たとえば、ノーマン・ブラウンの『エロスとタナトス』などの隣にあると、据わりがいい。ルイス・キャロルストア派を扱ったドゥルーズ単独の著作である『意味の論理学』をドゥルーズは自ら「論理的で精神分析的な小説の試み」だといったが、『アンチ・オイディプス』は同書にもっとも数多く引用されているニーチェやD・H・ロレンスやヘンリー・ミラーを読みふけった騎士が、欲望を武器にオイディプス的三角形を攻撃するドン・キホーテ的なテーマの小説の試みなのだと言える。

解き放たれてーージョン・ヒューストン『黄金』(1948年)

 

 

原作、B・トレイヴン。脚本、ジョン・ヒューストン。撮影、テッド・マッコード。音楽、マックス・スタイナー。モノクロ映画である。
 
 原作は1930年代なかばにアメリカで出版されたが、もともとはヨーロッパで刊行されたものだという。原作者は謎に包まれていて、『野生の叫び声』のジャック・ロンドンや『悪魔の辞典』のアンブローズ・ビアスの別名義での作品だとも考えられていた。この映画がメキシコで撮影されていたとき、原作者の翻訳や雑用を務めていた秘書だという人物があらわれて、その人物こそが原作者だと考えられたのだが、ジョン・ヒューストン自身はその説には懐疑的であったともいう。
 
 よくあることだが、私は結末をまったく異なったものとしておぼえていた。その上、あまりいい印象も残っていなかった。俳優としてのイメージを優先してみていたので、『三つ数えろ』のようなハードボイルドなハンフリー・ボガードを期待してみたのだった。ヒーローがアンチ・ヒーローを演じることはいまでこそよく聞くようになったが、振り返ってみると、それほど多くないことに気づく。
 
 もちろん、敵役というのなら、いくらでもあるだろうが、観客の共感を得ることが少ない役ともなると、日本でも思いつかないし、スター・システムがいまなお多少は残っているだろうアメリカでも、娯楽大作に出ている俳優は言わずもがな、クリント・イーストウッドレオナルド・ディカプリオマット・デイモンなど、いわゆるヨーロッパ的な作家として認められていたり、作家たちに起用されている俳優にしても、薬物中毒だったり、依存症くらいにはなっているが、愛すべき人物であることは変わらない。
 
 いま思いつくところでは、深作欣二の『仁義の墓場』の渡哲也は手に負えない人物だったが、彼にしたところで、やくざなのだから、組の政治に絡め取られていくよりも、直線的に死に向かっていくようで爽快であるかもしれない。
 
 ダブス(ハンフリー・ボガード)は、南北戦争ののち、メキシコに流れ着いたあぶれもので、アメリカ人を見つけると金をたかる物乞いのような生活を送っている。仕事にありついたと思ったら、仲介をしていた男にまんまと金を持ち逃げされる。この仕事で知り合ったカーティン(ティム・ホルト)とたまたま見かけたその持ち逃げした男をぶちのめして、金は取り返すことができたが、もちろんそれは未来の設計が成り立つような額ではない。やや運が味方につきだしたようなのは、ダブスがメキシコの子供がしつこくせがむので仕方なく買ったくじが当たったことである。
 
 ダブスは木賃宿で同宿した金鉱掘りに半生をかけてきた老人ハワード(ウォルター・ヒューストン、監督の父親であり、この作品で父子でアカデミー賞を受賞した)のことを思いだす。そして、くじで得た金で道具やロバなどを買いそろえ、シエラ・マドレの山を登る。
 
 ちょうどメキシコ革命が終わったころで、山賊も横行しているような状況であったが、ハワードの導きによって金脈を見つけ、順調に砂金が掘られ、より分けられていく。それにつれて、ダブスの猜疑心と強欲さが常軌を逸したものとなっていく。結果的に仲間を裏切った揚句、町まであと一息のところで、山賊に襲われて死んでしまう。しかも、山賊は砂金の状態の金の価値を知らず、すべてを放りだしてロバだけを盗んでいく。
 
 私はスプラッター映画は好きだが、『ホステル』のようなトーチャーもの、犯罪映画でも監禁ものは好んでみる気にはなれない。同じように、ある単一の感情にとらわれた映画というのがあまり好きではないらしい。ハワードとカーティンが最後にそろって哄笑する場面は、すべてがばかばかしくなり、まさにそうした感情の束縛から解き放たれた愉悦の笑いである。ところで、私がすっかり間違えておぼえていた結末では、砂嵐のなかに飛び散っていく砂金を前にした哄笑の輪のなかにハンフリー・ボガードも加わっていたのだった。

満開の桜の下の秘密ーー坂口安吾『桜の森の満開の下』

 

 

昭和二十二年六月十五日発行の「肉体」に発表された。
 
 古典文学に通暁していた若いころの三島由紀夫が、現実の桜の花を知らなかったというのは、さすがに都市伝説のたぐいだと思うが、私も桜は好きなのだが、現実の桜となるとどうか、そもそも花見に行ったことがない。花見の名所といわれるような所に一度行ってみれば、考えが変わるかもしれないが、上野や千鳥ヶ淵の桜は見たような気がするし、そもそも近くにある桜並木を通っても、ああ咲いてると思って、やや歩くペースが遅くなる位のものである。それ以上なにをしたらいいのかわからないのである。結果的に一番好きな桜は、鈴木清順の映画『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』のなかの桜である。
 
 確かに、この小説の冒頭にあるように、桜の花の咲き方には常軌を逸したばかばかしさがあり、意味を拒否するようなところがある。
 
 桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集まって酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集まって酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります・・・
 
 梶井基次郎の『桜の樹の下には』では「屍体が埋つてゐる」とあって、これはこれで、丸善の本の上にレモンを置いて出て、爆弾を仕掛けたように思うのと同じく、見事は発見だとは思うが、腐敗物を栄養にして美しく咲くもの、労働を搾取することによって栄華を極める支配層、不気味で混沌とした下層部の上に成り立つ理性的なもの、などと容易に言いかえられて、わかりやすいところがある。梶井の短編は昭和初頭に書かれたもので遙かに先行しており、梶井がおぼえた妙な感じを安吾は別の角度から切り取ってみせた。
 
 江戸時代よりもずっと昔のころ、鈴鹿峠に山賊が住み着いた。むごたらしい男で、街道に出ては着物を剥ぎ、命を奪った。女は連れ帰って女房にした。ところが、八人目の女房となる女が、非常に美しい女であったが、さらうときからどこか「変てこ」なところがあった。女はもといた女房を、ビッコの女を女中として、残りをすべて殺させた。女は大変わがままで、装飾品だけを大事にして、都に帰りたがった。
 
 男も腕に自信があったので、都に出て住むようになった。夜になると女が命じる屋敷に忍び込み、装飾品と屋敷に住む者たちの首を持ち帰った。女は毎日、首で遊んだ。肉が崩れ原形をとどめなくなるのを女は喜んでいた。男は都が嫌いで、退屈で仕方がなかった。
 
 男が山へ帰ると告げると、驚いたことに女もついてくるという。喜んだ男は女を背負って、山に戻っていく。折しも桜の花が満開のころで、満開の桜の下を通ると女は鬼に変じている。必死に振り落として、首を絞め殺すとそれは女房であった女で、男ははじめて涙を流す。
 
 桜の森の満開の下の秘密は、あるいは「孤独」であるのかもしれない、と安吾はいう。しかし、この孤独は意識したとたんに消え失せてしまう。対象となった孤独は、共有される観念となり、癒やされうるものとなって本来性を失ってしまう。
 
 むしろ、秘密の本当の答えは、最後の段落にある。男が女の顔に触れようとしたときにはすでに、そこには桜の花びらばかりが降り積もっており、その花びらをかき分けようとした男の手も桜のなかに消え、「冷めたい虚空がはりつめているばかり」で、ここには人間と物とを仲介する桜の美しさと気が変なばかばかしさがあらわされている。

継承としての映画ーージョン・フォード『三人の名付親』(1948年)

 

三人の名付親 [DVD]

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原作、ピーター・B・カイン。脚本、ローレンス・スターリング、フランク・S・ニュージエント。撮影、ウィントン・C・ホック。音楽、リチャード・ヘイグマン。
 
 指摘しているひともいると思うが、ジョン・ウェインの顔は、ビートたけしの事故前の顔によく似ている。もちろん、ジョン・ウェインのほうがずっと長身だろうし、ぶっきらぼうで、長方形のシルエットを崩さないように移動しているので、どこか地面を蹴立てる音が聞こえてきそうなビートたけしの歩き方と、ジョン・ウェインの役柄とは一致しないどこか猫のような歩き方とは対照的でさえある。
 
 テキサスからやってきたボブ(ジョン・ウェイン)とメキシコ人のピート(ペドロ・アルメンダリス)、そしてキッド(ハリー・ケリー・Jr)の三人がアリゾナで銀行強盗をはたらくが失敗し、逃げる際にキッドは腕に銃弾を受けてしまう。町の外は見渡すばかりの砂漠で、すぐに水がないことに苦しめられることになる。また、町の保安官が思ったよりずっと頭が切れる存在で、鉄道の中継地にある水のタンクに部下たちを配備し、手が出せないようになっている。
 
 しかも、さらに厄介なことには、途中幌馬車がうち捨てられており、なかには瀕死の状態の妊婦がいる。なんとか子供を産ませることには成功するが、母親は子供を三人に名付け親となることを頼み、あとのことを託して死んでしまう。銀行強盗こそ試みるものの、根が善良で礼儀正しい三人は、子供の母親の前に出るときには、埃まみれながらも身なりを整え、帽子を脱ぎ、発する言葉の最後には「マム」と付け加えるような人間である。
 
 そんな者たちであるから、母親がわずかに残していたミルクと、サボテンから搾り取った水を子供優先に使いながら、荒野をさまよい、まずキッドが手負いの傷もあって脱落して死に、歩けなくなったピートは自らの手で命を絶ち、最後に残ったボブは二人の幻影に追い立てられるように、歩を進めるが、ようやく町の酒場にたどり着いて、力尽きて倒れ込んでしまう。そこへ追跡していた保安官がちょうど追いつく。幌馬車が自分たちを訪ねてくる途中の姪のものであることを認め、彼らが姪をどうかしていたのだと思い込んでいた保安官は、復讐を誓っていたのだが、ことの経緯を知り、減刑を配慮して、ボブは一年程の刑ですまされることになる。
 
 『三人の名付親』が聖書に出てくる、救い主の誕生を見て取り、捧げ物をもって訪れた東方の三博士にかけたものであることは明らかであり、幌馬車のなかで聖書を見つけてから、偶然開いたページの言葉を頼りに行く方向を決めるといった具合に、どんどん宗教的な要素は付け足されるのだが、本質的な意味で宗教的になるわけではない。ちょうどクリスマスの時期に公開される映画だったから飾りつけとしたまでで、それはちょうどクリスマス映画の定番であるフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』が天使こそ登場するものの特に深刻な宗教映画ではないようなものである。第一、預けられた子供が救い主である必然性などないし、好人物たちがほとんど無駄に死んでいく。
 
 この映画が第一作目の出演であるハリー・ケリー・Jrは名前の通り、父親はハリー・ケリーで、グリフィスの作品にも出演している映画初期から活躍していた俳優で、ジョン・フォードにとっては一回り以上年上の、この映画であればジョン・ウェインハリー・ケリー・Jrとの関係に重なるような父親的、あるいは兄的な存在であり、この映画はそのハリー・ケリーと1919年に撮った『恵みの光』(この映画のフィルムは見つかっていない)のリメイクであり、公開手前の1947年にハリー・ケリーは亡くなってしまい、映画の冒頭にハリー・ケリーとの思い出に捧げる、と献辞が捧げられるのだが、まさしくこの映画が監督のジョン・フォード、そして共演者のジョン・ウェイン、そして制作陣とが名付け親として、Jrを送り出すための映画であることを明らかにしている。

アンドロイドはノスタルジアを感じるかーーリドリー・スコット『ブレードランナー』(1982~1992年)

 

 

 
 シド・ミードは『スタートレック』、『トロン』、『エイリアン2』などのデザインもつとめており、ダグラス・トランブルは『2001年宇宙の旅』、『未知との遭遇』の特撮を担当している。
 
 『ブレードランナー』の印象はどこかぼやけている。公開のときにもたぶん見ただろうし、その後も数回は見たはずだが、どうやらこの映画には七つの異なったヴァージョンが存在するようであり、そのどれとどれを見たのかもはっきりしない。今回ディレクターズ・カットのファイナル・ヴァージョンを見たのだが、このヴァージョンが発表されたのもすでに1992年のことであり、あるいは以前にも見たヴァージョンかもしれない。
 
 タイレル社は遺伝子工学の独創的な採用によって、ロボットにかわりレプリカントという人造人間を開発し、宇宙における過酷な労働に送られていた。しかし、レプリカントのなかには、過酷な労働を脱出し、人間社会に紛れ込むものもあった。そのため、最新型の「ネクサス6型」では4年という生存年の制限がつけられている。
 
 あるとき、レプリカントの一団が人間に対して反乱を起こし、タイレル社のあるロサンゼルスに入り込んだことが知らされる。ブレードランナーとは、蛇腹のついたある種の嘘発見器によって、レプリカントと人間とを判別し、それを排除する仕事であり、今回の事件に招集されたのがデッカードハリソン・フォード)である。
 
 デッカードタイレルの秘書で、彼の姪の記憶を植えつけられたレプリカントショーン・ヤング)に愛情を抱くようになり、人間とレプリカントとの境界は曖昧なものになっていく。実際、デッカード自身がレプリカントだという説もあり、監督のリドリー・スコットもそれを肯定しているようだが、映画内でそれを裏づけるような場面が存在するわけではない。
 
 なによりも決定的なのは、この映画が、酸性雨が降りしきり、巨大な電光による広告を貼り付ける高層ビルと、その下方にあるスラム街という未来像を提示したことだろう。原作者のディックは、作品が完成する直前に死んでしまったが、特撮部分のラッシュを見て、「自分が思い描いたとおりだ」といったというが、ディックが描く世界は、ルネ・マグリット的な、もっと晴朗でありながら、どこかにひび割れを感じさせるような違和感の残るものであって、この映画ほどデカダンス的な廃墟とは異なるようにも思えるのだが、見事なことには変わりなくて、文句はなかったのだろう。
 
 押井守は、なにかのインタビューで、『ブレードランナー』についてはその影響がどうこうではなく、自分の世界像のなかにわかちがたく組み込まれてしまっているといった意味のことをいっていたが、実際、タイレルの右腕であるJ・F・セバスチャン(ウィリアム・サンダーソン)の奇妙なオブジェや人形でいっぱいの部屋は、『イノセンス』などに挿入されていても、なんの齟齬も生じないだろう。
 
 また、淀川長治は、イギリス映画というと、美術が見事だね、ということを常としていたようにおぼえているが、『赤い靴』や『ホフマン物語』のパウエル=プレスバーガー、『エイリアン』と『ブレードランナー』のリドリー・スコット、『インセプション』のクリストファー・ノーランという系譜が続いているように思える。
 
 しかし、こと世界モデルということでいえば、未来像はむしろブレードランナー的なものからは遠ざかっている。少なくとも日本やアメリカでは都市は都市としてどんどん先鋭化していき、スラムは空洞化した地方として排除されていく。それはある意味ノスタルジアさえ許されないような均質な空間なのだが、少なくともある記憶をもつ存在にとっては、そうしたスラム的なノイズが排除されればされるほど、強烈なものとして迫ってくることになる。レプリカントとはそうした記憶をもたないものの寓意として考えることもできる。あるいは、逆に、レプリカントはすでに失われたそうした記憶を植えつけられたものとみることもできる。ただリドリー・スコットは、クリストファー・ノーランなどとは異なり、こうした問題についてはきわめて淡泊であり、たぶん私のもやもやした印象もそのあたりから生じていたのだろう。

映画に溺れてーージャン=リュック・ゴダール『さらば、愛の言葉よ』(2014年)

 

さらば、愛の言葉よ 3D 【スペシャル・コレクターズ・エディション】 [Blu-ray]
 

 

撮影、ファブリス・アラーニョ
 
 4K、8K、あるいはそれ以上に解像度が上がっていけば、あるいは全世界を数枚の映像のなかにおさめることができるようになるかもしれない。莫大な情報量をもつことになるから、曇りガラスに反映されるぼやけた人影も、特定されるようなときが来るのかもしれない。あるいはそのときには、映画は限りなくゲームに近いものとなり、そこで演じられていることと平行して、あるいは扉の陰、あるいは鏡に映ったもののなかにまったく別の物語が進行しており、それらを幾通りもの仕方で楽しむものとなるかもしれない。
 
 しかし、いまのところ、量販店で見るような映像に映っているのは、風景や美術品などにとどまっていて、すでにそれは肉眼で見えるものを越えているので、なにかものの実相とはいわないまでも、実在の特殊な面を見せてくれるかと思いきや、ある種、特殊効果のかかった画面でしかなく、もしこの程度の水準に収まってしまうならば、ラース・フォン・トリアーの『キングダム』の時期の、黄色みがかった画面やカラー映画が登場するまでのモノクロ映画がと同じようなものとして消費されていくしかないだろう。
 
 いずれもそこにある何ものかに特殊な効果を施しているに過ぎず、4Kや8Kは解像度というオプションをつけているだけでしかない。実際、撮影が行われた現場に行ったところで、我々は4Kもフォン・トリアーの黄色やモノクロの陰影同様に体験できるわけではない。
 
 画質でいえば確かに膨大な量の情報が含まれるようになったが、それが我々に意味を持たないのは、また映画にいまださして貢献していないのは、いわばそれらが糞リアリズム的に、対象や行為を効果的に描くことばかりに関わっており、それによって異なった場面や状況が喚起されるわけではないからである。
 
 たとえば、アメコミの映画化は、これまでならば考えられもしなかったアクションがVFXを絡めて繰り広げられていき、マーティン・スコセッシなどの映画では筋の展開と登場人物たちの会話が急速度に回転するが、それらはアクションや栄光と挫折といった物語に奉仕するものでしかない。それゆえ、我々はそれを視覚的に、あるいは体感的に、あるいは音声的に享受する。
 
 しかし、ゴダールのこの映画の情報とはある予測された目的に達するまでの曲折に還元されることはない。ゴダールは、新たなテクノロジーは積極的に受け容れたいといっていたアントニオーとともに、非ハリウッド的な、職人的な手仕事の継承を大事にする映画界のなかでは、新しいものを積極的に受け容れる少数派に属すると思うが、テクノロジーはあくまで、挿話を装飾するものではなく、場面を流動化することに用いられている。
 
 物語は判然としないが、二人の男女が愛しあい、もう一人の男が拳銃をぶっ放しているところなどをみると、不倫が行われているらしい。さらに一匹の犬が重要な登場人物となっており、人間と動物はなにが違うのか、動物が体験する世界はどんなものなのか、繰り返される問いかけの対象となっている。
 
 そして、観客である我々は、諸感覚に制限されることのない、思想、観念を含んだ象徴体系のなかで全人間的な流れのなかに放り込まれる。
 
 映像と言葉とが独立して進行することはゴダールの映画においてしばしばあることだが、今回は映画の大部分において、各要素がそれぞれ別な流れを形成しており、キャノン、フジ、ミニ・ソニー、フリップ・フロップ、ゴー・プロ、ルミックスの様々な機器による映像、バッハからベートーヴェンシェーンベルクシベリウス等々流れ続ける音楽、コンラッド、フォークナー、プルーストコクトー、アルトからフロイトヴァレリーブランショデリダ、バデューなどの言葉言葉言葉がひたすら発せられて、美しい映像と、それらすべてを束ねるのが映画だという以外にすでに映画の意味はなくなっているようなものだが、それこそが映画というもののかけがえのない意味だと高らかに宣言している映画でもある。

道徳の系譜――メリメ『マテオ・ファルコーネ』

 

エトルリヤの壷―他五編 (岩波文庫 赤 534-1)

エトルリヤの壷―他五編 (岩波文庫 赤 534-1)

 

 

 1829年5月3日号の「パリ評論」に掲載された。
 
 コルシカは地中海、イタリアの西にある島であり、そのほとんどが急峻な山岳地帯で成り立っている。現在はフランスに属しているが、独立した地方公共団体が島を管轄している。
 
 古代においては貿易の中継点として争いが絶えず、中世においてはイタリアの都市国家の植民地であり、18世紀には独立戦争がおこったが、ジェノバとフランスが協定を結ぶことにより、フランスの圧倒的な軍事力に敗れ、フランス領となる。ちなみにフランス領になって数ヶ月後にナポレオンがこの島に生を受けた。つまり、フランスとはいっても、独自の文化が強固に存在しており、コルシカ語という別の言語も存在する。
 
 この短編はコルシカの情景を描くことから始まっているが、作者のメリメはこのときまだコルシカを訪れたことがなかったという。書かれていることが的確なのかどうか、実際にコルシカに行ったことがない私には判断しかねるが、江戸時代を経験したことがないにもかかわらず、森鷗外の史伝を的確だと感じるように、虚構ではリアリティは実在と対応しているのではなく、表現と対応するのだ。
 
 メリメのこの短編では、町を離れると、すぐに険阻な岩場があらわれること、岩場を抜けても、広大な「雑木山」が拡がり、それはマキと呼ばれることが伝えられる。もし、人殺しなどをして逃げなければならないことになったら、銃と布団にも使えるような頭巾つきの茶色の外套だけあれば、ここに逃げ込めば安心して暮らしていける。
 
 実際のコルシカにおいても、現在でも生活を営むことができる居住地区は少なく、沿岸地は一年を通じて地中海特有の温暖な気候であるにもかかわらず、4カ所もスキー場があることでも、この島の峻厳さが見て取れる。
 
 マテオ・ファルコーネはそんななかでも富裕な階層に属し、牧人を雇って家畜を遊牧する上がりでもって暮らしていけた。彼は銃の名手であり、妻となった女の競争者を撃ち殺したとも言われていた。しかし、友人としては信頼に値し、敵にまわすとこの上なく危険な男だと評判されている。妻は三人の女の子を産み、四人目にしてようやく男の子を出産した。その子はフォルチュナトと名づけられ、すでに十歳になっていて、跡取りとして期待できるだけの萌芽を見せていた。
 
 ある秋の日のこと、マテオは妻とともに、家畜を見回りに出掛けていた。フォルチュナトも一緒に行きたがったのだが、留守番もいないので、残ることになった。昼近くなったころ、近くから数発の銃声が聞こえてきた。マキに逃げ込んでいたお尋ね者が、治安維持に当たる兵隊たちに追われているようだった。フォルチュナトに近づいてきた男は、マテオ・ファルコーネの息子であることを確認し、かくまってくれるように頼む。フォルチュナトは男の銃にもう弾が残されていないことをめざとく見て取ると、じらすように返答を渋り、銀貨をもらうことと引き替えに、男を自分が横になっていた干し草のなかに隠す。
 
 しばらくすると、マテオの遠縁のガンバという名の男が率いる兵隊たちがやってきて、男が逃げてこなかったか尋ねる。この遠縁の男はお尋ね者に恐れられている切れ者であり、そんな男は見なかったよ、とはぐらかすフォルチュナトの言葉に納得しない。そして、懐から銀時計を取り出すと、教えてくれたらこれをやろうともちかける。まだ子供であり、なまじ小利口なために、フォルチュナトはこの取引に応じてしまう。
 
 そこへマテオ夫婦が帰ってきて、ガンバたちと挨拶を交わすと、ガンバは何気なくフォルチュナトがいなかったらお尋ね者が捕まらないところだった、なにか立派な褒美がもらえるようにするよ、と報告する。このちょっとした言葉は、マテオにとってはあらゆる価値を転覆する言葉となる。
 
 「おれの血筋で裏切りをやったやつはこいつが初めだ」とマテオは言うと、フォルチュナトを家から少し離れた窪地に連れて行き、子供が知っているかぎりの神への祈りを唱えさせると、「神様に許してもらえ!」と撃ち殺す。
 
 フォルチュナトは人の信頼を裏切ったばかりではなく、マテオの信用と名誉を汚し、金品で命を受け渡した。
 
 旧約聖書アブラハムは、息子を生け贄として捧げるように神に命じられ、煩悶する。そして、この箇所は聖書を信仰するものにとっては無限の思索を誘うものとなった。
 
 もちろん、両者の違いはどちらが正しく、どちらが間違っているかという問題ではない。聖書とはまったく異なる価値や倫理があることを示唆し、それが峻厳な島の描写と即応している見事な短編である。