アキ・カウリスマキの『ル・アーヴルの靴みがき』(2011年)は、カウリスマキには珍しく、

 

ル・アーヴルの靴みがき [DVD]

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  アキ・カウリスマキの『ル・アーヴルの靴みがき』(2011年)は、カウリスマキには珍しく、不法移民というアクチュアルな話題を取り入れているが、逃げている黒人の少年を靴みがきの老人が町の友人たちとかくまって、引退したロック・ミュージシャンのチャリティー・コンサートで金をつくって、母親のいるロンドンに逃がしてやるというおとぎ話的な展開となり(そもそも靴みがきですからね)、世界の片隅での小さな幸福というカウリスマキ映画のテーマがカウリスマキの全作品のなかでも、最大限の夢のような幸福としてあらわれる。

 

 

アメリカ―非道の大陸

アメリカ―非道の大陸

 

  多和田葉子の『アメリカ』は副題が「非道の大陸」であり、没義道でバイオレンスな大陸ということかと思えば、主人公が自動車の免許をもっていないので、移動もおぼつかないアメリカが非道の大陸としてあらわれてくるという趣向で、趣向といえば、この小説の主人公は「あなた」と二人称で呼ばれ、最初は理由がわからなかったが、様々な人間と出会い、それぞれ親切で友好的なのだが、どこか薄い膜があり、直接的であることを感じさせない様子が、作者である私と小説の主人公である「あなた」との関係とうまく反映しあっている。

マクタガート『存在の本性』2(翻訳)

〈実在は定義しがたい。〉


 2.実在は定義できない。「なんであれあるものは実在である」という命題は、真であるかもしれないが、実在を定義する、あるいはそれを別の面から明らかにする助けとはならない、というのも、「なんであれあるものは」の「ある」には存在が含まれ、存在は実在と同じだからである。しかし、この命題は、同語反復ではあるが、実在の広範囲な意味の広がりをもたらすので、無益だとは思われない。


 実在はなんであれあるものは実在だとは言いうるが、定義できない特徴のものである。その語の表向きの意味は普遍的だといいうるが、それは非実在の述語が矛盾だという意味ではない。実際、非実在の述語はしばしば正しい。三角形の四つ目の角や1919年のロンドン公はどちらも非実在である。*

 

*ある三角形の四つ目の角は、もし我々がなにかしら真であるような述語を加えるなら、実在となるに違いないと反論される。かくして、非実在の述語が自己矛盾しているのだろう。しかし、これは私には誤っているように思われる。なにかについてなんらかの述語をつけるためには、私はそのものの観念を持たねばならず、観念は――私の精神における心的な出来事として――実在でなければならない。しかし、こうした角についての真の観念は角の実在を含んではいない。この問題は第六巻で論じることになろう。

ルカ・ガァダニーノ『サスペリア』(2018年)、冒頭の夜の豪雨の場面から、

 

 

 

サスペリア 4K レストア版 Ultra HD Blu-ray 通常版

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 ルカ・ガァダニーノ『サスペリア』(2018年)。冒頭の夜の豪雨の場面から、この世ならぬところに連れて行ってくれるダリオ・アルジェントのリメイクなどは、そもそも名作のリメイク自体が一種の形容矛盾だと思っているので、全く期待しておらず、冒頭の30分くらいはそこそこ面白く見ていたが、どんどん減速、別に違う題をつけていれば、誰もリメイクだとは気づかず、文句もでなかっただろうに。

 

 ヒッチコックの『裏窓』(1954年)は、ジェイムズ・スチュアートグレイス・ケリーという無敵の組み合わせなのだが、ヒッチコックのなかではあまり好きになれない映画で、冒頭のパンによって主人公が写真家で、事故にあってという状況を示す一切無駄のない映像から始まり、結末のちょっと皮肉なオチにいたるまで語り口は見事だし、『ロープ』にも通じて、中庭という限定された空間ですべてが収まる実験精神にも富んでいるのだが、なんとなく好きになれないのは、どこか自分の病的な部分を刺激するところがあるのだろうか、それものぞき趣味に関してというよりは、カメラは撮るのも自分が撮られるのも好きではないという感情が絡んでいるようなのだがはっきりとしない。

 

 ネットフリックスの『全裸監督』は面白いが、私のように村西とおるで育った世代からすると、というのは実は大げさで、クリスタルはあまり好きなメーカーではなかったのだが、村西とおる黒木香がいる日常を過ごしていたことは確かで、そんな私にとって村西とおるはもっといかがわしく、得体の知れない人物であったはずで、山田孝之は好きな俳優で力演しているが、あんな好人物の訳はないと思えるのだが、まあドラマではあるしとも思うが、実名で登場しているわけだからとも思う。

マクタガート『存在の本性』1(翻訳)

マクタガートは、ヘーゲルのイギリスへの影響という大きな潮流のなかに位置づけられる。ブラッドリーより20歳ほど若く(1866年)、ほぼ同じ時期に死んだ(1925年)。ケンブリッジのフェローであった時期もあるから、ブラッドリーがバートランド・ラッセルやムーアの教師的存在であったとすれば(実際に教えたこともあった)、マクタガートは指導的先輩であったといえる。もちろん、ラッセルはどちらについても、後には歯牙にもかけないようになっていく。マクタガートは、時間が実在であることを否定したことで知られている。時間の系列のどの点を取っても、過去、現在、未来という両立しがたい性質をもっており、その矛盾を取り除こうとすれば無限後退に陥る。岩波新書滝浦静雄の『時間』という本に、こうしたことが書いてあったように思うが、かなり昔に読んだ本で、現在手元に見当たらないので、断言はしかねる。『存在の本性』は2冊に及ぶ大著で、これもまた途中までの翻訳である。]

 

第一巻 序

第一章 序

〈この作品の対象。存在物と実在〉
 1.この本で私は、存在するすべてのもの、あるいは、全体としての存在に属する特徴についてなにが明らかにできるか考えてみたい。また、我々に経験的に知られている存在の多様な側面に関する一般的特徴から、理論的、実際的などんな帰結を引きだすことができるかについての考えることになろう。*

*最初の探求はこの巻の第二巻、三巻、四巻に含まれる。第二の探求は次の巻の第五巻、六巻でなされるだろう。

 存在物は、一見したところ、実在の一種だと考えられる。存在しない実在があるという立場は認められるとしても、存在するあらゆるものは実在でなければならないことは普遍的に認めらる。我々が考えるべき第一の疑問は、実在、あるいは存在ということでなにが意味されているかである――二つの言葉は、一般的には等しいものとして使われている。

G・H・ルイス『伝記的哲学史』ピタゴラスの哲学(終了)(翻訳)6

§III.ピタゴラスの哲学

 

 全歴史において、ピタゴラス派として知られている共同体を正確につかみ、あらわすことほど困難なことはない。それは世界に不思議な騒音をつくりだしている。それはしばしば遠い木霊と混同させる。常に神秘の雰囲気が招かれ、それに取り巻かれている。その高名な創設者に関わる驚くべき関係、そこに含まれる東洋的思索の多様な要素との想定される同化、その教説の象徴的な性質と思われているもの、それらが等しく結びつき、魅力的でもあれば、矛盾したものともしている。あらゆる教説はそれに先行するなんらかの哲学の痕跡を辿っている。もし我々がユダヤ、インド、エジプト、カルデアフェニキア、さらにはトラキアまで、彼が借り受けたと宣言しているもので補填したとしても、いかなる痕跡も教師そのものの本質には残っていないだろう。


 剽窃とされるものも、我々はまったくありそうもないことのように思える。ピタゴラスアナクシマンドロスの結果であった。そして彼の教説は、指導的となっている学説から集めたかぎりでは、アナクシマンドロス創始者である抽象的で演繹的な哲学を継承したものでしかない。


 最初に、ピタゴラスに属するものとされた意見がどれほど関心を引こうとも、それを辿ることは我々の企図とは両立しないということを前提にしなければならない。もっとも大きな不確かさがいまだに存在し、それらの説が真正なものであるかに関しても学者のなかで永遠にそれは存在するに違いない。信頼に値する権威でさえも、それらを常に「ピタゴラス派」のものだとし、ピタゴラスに帰すことはない。現代の批評は、ティマエウスやアルキタスの作品とされるものが疑わしいことを明らかに示している。オセラス・ルカヌスの『あらゆるものの本性』にいたっては、ピタゴラス派によって書かれたものではあり得ないとされている。古代の作家たちのなかでこうした問題では唯一信頼の置けるプラトンアリストテレスは、ピタゴラスに特別な学説を帰していない。理由は単純である。ピタゴラスは秘密裡に教え、なにも書かなかったからである。彼が弟子たちに教えたことは、その弟子たちが教えたことから正確に学ぶことは不可能である。彼らの精神に与えた影響は間違いなく莫大なものだった。そしてその影響は学園において目立った傾向をもつものとして伝えられたが、一致した説としては伝えられなかった。それぞれの学者が、この傾向を自分の好みと力に応じて方向付けてしまったからだろう。*

 

*我々の場合もそれに当てはまろう。しかしそれは根拠のないことだとは思わない。我々は著名なサン-シモンによって与えられた印象的な類似によって導かれている。ピタゴラスのように、このフランス人は体系全体をあらわすような著作を出版しなかった。彼はそれを弟子たちに伝えた。彼らの精神に与えた影響は較べるものがなく、その哲学の傾向は異なった精神に異なった果実を実らせたが、根を深く下ろしていた。それほど極端に走らないフランスの作家でもそれを評価しており、MM.ティエリー、オーギュスト・コント、ピエール・ルルー、ミシュエル・シュヴァリエ、ル・ペール・アンファンタン、M・ビザールなどすべてサン-シモンの弟子である。

 

 ピタゴラスの思想、あるいはその弟子たちが考えていたことを正確に確かめることが極度に困難なのは、彼らの思索の一般的な傾向、とりわけ、その方法の特異性しか確かめることができないことだが、それによって我々が当惑することはないだろう。というのも、この困難――それは批判的な歴史家にも克服できないものであり、我々には間接的に影響を与えるだけである――は、我々が特徴的な方法や傾向を捉えようとする努力を、より危険で、より責任を負うべき矛盾へと追い込んでしまうからである。しかし、我々の前進を阻むような個別の見解が要塞となって立ちふさがるというわけではない。我々は哲学的世界の地図を辿らねばならない。各国の境界がどこにあるか注意深く確かめねばならない。それは各国の内的な多様性を完全に知り尽くすことなしにも可能であり、地理学者が地質学者でもある必要はないのだ。


 ピタゴラス派の方法と傾向とはどういうものだろうか。方法は、純粋に演繹的である。傾向は、科学の真の材料である抽象について考察することに完全に向かっている。それゆえ、この学派が「数学的」と呼ばれることはさほど頻繁にはない。ピタゴラス派のリストには数学や天文学において偉大な名が擁されている、アルキタス、フィロラオス、後にはヒッパルカス、プトレマイオス。*

 

ピタゴラスの弟子のアエスチラスは科学においてもっとも高次の、数を発見したのだと桁外れの自慢をしている。

 

 ここで、我々はピタゴラスが数は事物の原理なのだと、あるいはより文字通りに翻訳すれば、「数は諸事物の物質的存在の原因である」と教えたことの意味をある程度理解できる。本質はここでは明らかに具体的な存在のあらわれである。このことは、いろいろなところでアリストテレスが与えている、自然は数から実現されるという言葉からも確認される。あるいは、事物は数の複製でしかない。ピタゴラスが意味しているのは、数は事物の究極的な本性だということである。アナクシマンドロスは、事物そのものは最終的なものではないとした。それらは常に位置や属性を変える。それらは変わりやすいもので、存在の原理は恒久的なものでなければならなかった。彼はその恒久的な存在をすべてと呼んだ。


 ピタゴラスは多様性のもとに恒久的な存在があるとみた。しかし、彼はそれにより限定的な表現を与えたかったので、数と呼んだ。かくしてそれぞれの個物はその位置を変え、存在の様態を変えることができる。すべての特殊な属性はつまり、その数的な属性以外には破壊されうる。つねに「ひとつの」ものがある。なにものもその数的な存在を破壊することはできない。あらゆる可能な方法で事物を結びつけたとしても、「一者」が残る。「一者」以下のものになることもできなければ、「一者」以上のものになることもできない。微細な粒子のなかで回転していたとしても、それぞれの粒子はひとつである。かくして、数的な存在が唯一の変わることのない存在なので、すべての事物が数の複製に過ぎないと主張するに至ることは容易であった。「すべての現象はもっとも単純な要素から生じなければならず」と、セクスタス・エンピリカスは言っている、「そして、宇宙の原理が感覚される現象の本性に関わっていると想定することは理性に反しているだろう。原理は、結局のところ、不可視で、不可触であるだけでなく、非物質的なものである。」と。


 数的な存在とは分析が有限な事物に関して到達できる究極の状態であり、無限や存在自体について到達できる究極的な状態である。それゆえ、無限は一者でなければならない。一は絶対的数である。それは自律して存在する。他の何とも、他の数とさえ関係をもつ必要はない。二は一に対する一の関係に過ぎない。存在のあらゆる様態は無限の有限な側面でしかない。すべての数は一との数的関係でしかない。始原的な一のなかにはすべての数が含まれており、結果的に全世界の要素である。


 その上、一者は本質的に、αρχηであり、――哲学者が追い求めた事物の始まりなのであって、というのもどこから始めようが一者から始めなければならないからである。3という数字を想定したとしても、2をつくる最初の部分を切り離せば、第二の部分は一と成ろう。一言で言えば、一はすべての事物の始まりなのである。


 言葉上の揚げ足取りで、実際それで全体系は停止してしまうのだが、ピタゴラスのまじめさに疑いをもつ必要はない。ギリシャ人は不運なことに自身の言葉以外に知ることはなかった。自然な結果であるが、言葉上の相違と事物の相違とを取り違えた。ウィーエル博士がうまくいったように、「自然の作用を把握しようとする最初の試みは、抽象的概念で実際曖昧でもあるのだが、それゆえに無意味なのではない。そして、哲学化の次の段階は、そうした曖昧な抽象をより明確に、しっかりしたものとし、論理学の力によって、それらを安全に、整合的に採用できるものとすることにある。しかし、この試みを為すには二つの方法がある。一つは、言葉を検証し、思想をそれに見合ったものにする。第二には、そうした抽象的な言葉を使用することによって、事実や事物に到達することにある。ギリシャ人は言語的。或いは概念的過程をたどり、失敗した。」(1)

 

(1)『帰納的科学の歴史』i,34

 

 上述の説明によってのみ、歪められたピタゴラスの特異性を評価することができる。それによってのみ、我々は数が存在であるのがどういうことなのか理解することができる。アリストテレスはその哲学をピタゴラスの数学への好みに帰しており、それは抽象的なものに関わり、感覚しうる事物の物質的存在を軽視する。しかし、それは説明の半分に過ぎないのではないだろうか。今日の数学者は、事物と少しも親和性がなく類似性もないもの(完全に任意のしるし)を事物をあらわすシンボルとして推論するだけでなく、シンボルを使って推論し、事物を調査することになんの問題も感じていない。天文学の多くは天体望遠鏡をまったく使わずに行われている。紙の上に数字が書かれ、それが計算されている。しかしながら、天文学者がシンボルとして数字を使っているから、彼らが数字をシンボルだけでしかないと思っているわけではない。ピタゴラスはこうした区別をできなかった。彼は数字を実在のものだと信じ、単なるシンボルとはしなかった。それゆえ、リッターがピタゴラスが数式を「シンボルとして扱うことができた」というとき、彼は大きな時代錯誤を犯しており、我々がギリシャ哲学として知るものから数世紀を経て変動した考え方を先取りしている。変動はアリストテレスにも証拠としてあらわれており、彼は「ピタゴラス派は数と事物とを分けなかった。彼らは数を事物の原理であり材料であるとともに、本質であり力であるとした」(1)といっている。現在の哲学において、数がシンボルとしか考えられないために、ピタゴラスが同様に考えていたに違いないと考えるのは、広く行き渡っているが、シェイクスピアヘクトールアリストテレスを引用したり、ラシーヌがアウリスの宿営地ででヴェルサイユの礼儀作法を披露するのと同じようなアナクロニズムである。そして、リッター自身、この哲学の様々な点の細部について述べた後で、本質的な教義は「数学的世界からの派生物であること、空間と時間の関係を単位や数で解決しようとしている。すべてが原初的な一、あるいは第一の数、一がその発展の過程で分裂した単位や数から生じる」と述べている。さて、この教義が単に数学的なものだと想定するなら、数学的宇宙論は歴史的哲学のすべての原理を侵犯することはないだろう。というのも今日における見解をピタゴラスの時代に投げ込めばいいからである。最終的な証拠として、「事物は数の複製である」という定式を考えてみよう。この定式は、我々が戦う考えのなかでももっとも好意的に受け取れるものだが、詳しく見ると、ピタゴラスの真の意味がシンボル的なものの正反対に向いていることをあらわしている。シンボルは任意のしるしであり、それがあらわすものとはなんら類似点はない。a,b,c,dはアルファベットの文字でしかない。数学者はそれを量や事物のシンボルにする。しかし、xが未知の性質の複製だとは誰も言わないだろう。事物が本質的に数だとするなら、数の複製である事物とはなにを意味するのだろうか。あらかじめその意味を探っておかなければならない。事物は抽象的な存在の具体的な存在であることになろう。数が原理だと言われるとき、それは物質的存在の形相であり、変わることのない本来的な本質が数だということになる。(2)かくしてある石は一つの石である。そのようなものとして、一の複製である。抽象的な一が具体的な一に実現したものである。石を塵の中に置こう。塵の粒子はまた別の一の複製である。

 

(1)『形而上学』i.5.おそらくより正確に言うと、「数は事物の始原であり、物質的存在の原因である」とした方が正しいだろう。
 数をシンボル的に使ったと信じているものの意見も聞くべきかもしれない。アリストテレスの簡潔な言葉で疑問の余地のないことは明らかである。この点に関する箇所は、この節の最後に翻訳してある。


(2)それゆえ、我々はピタゴラスが「定比率」の理論を予見していたと仮定するには注意するべきだろう。数は組みあわせの法則でも、そうした法則の表現でもなく、どのような組みあわせにおいても変わることのない本質だった。

 

変奏される自伝ーー澁澤龍彦『玩物草紙』

 

玩物草紙 (P+D BOOKS)

玩物草紙 (P+D BOOKS)

 
 デヴィッド・マッソンが編集した十四巻ある著作集のうちの三巻が当てられ、しかもそのなかには、必ず代表作としてあげられる『英吉利阿片服用者の告白』と『深き淵よりの嘆息』が含まれているのだから、自叙伝はまずトマス・ド・クインシーの主著といっていいだろう。
 
 だが、自伝がそれを書く者の波瀾万丈の一生、彼が経験した冒険や珍奇な経験を描きだすことを主眼とするなら、ド・クインシーの自伝は少々物足りなく思えるだろう。たとえば、カサノヴァの『回想録』やフランク・ハリスの『我が生と愛』のように、嘘か本当かわからないエピソードが途絶えることなく繰りだされて、それを呆然と見守るしかないといった経験はド・クインシーでは得られない。
 
 また、ヘンリー・ミラーの一連の作品のように、行くとして可ならざるはないかのように、ものを食べ、友人と会話し、あたりかまわず性交し、大量の本を読み、思索し、ユートピアや幻想を夢見るといった猛烈なエネルギーとも無縁である。
 
 たしかに、ド・クインシーの自伝にも、十七、八歳の頃、一文無しの状態で厳しい寒さのロンドンを放浪し、知り合った少女やまだ年若い娼婦と抱き合うことでかろうじて暖を得たというような印象的な出来事が描かれており、それはド・クインシーがもっとも愛した妹の死と結びついて、ある種特権的な輝きを放っているのだが、それを『英吉利阿片服用者の告白』や『深き淵よりの嘆息』のような単独のものとして作品化された文章から切り離して、三巻に渡る自伝のなかに置いてみると、ある特定の時間と場所で経験されたという固有性は拭い去られて、非人称的な大きなうねりのひとつになっている印象を受ける。
 
 自伝に限らず、日記や書簡など自分に関することが書かれるとき、おおよそ二つの方向性がある。
 
 一方は、そうした自己の固有性を書きとどめることが眼目となる。上記のカサノヴァ、フランク・ハリス、ヘンリー・ミラーもこのタイプに属するだろう。もっともここでいう自己には、ある思想、趣味、性癖などをもち、立ち会う出来事ごとに自らの主張を繰り広げずにはいられないような「特異さ」が必ずしも求められているわけではない。
 
 たとえば、石川淳の小説『雅歌』のなかで、語り手が探している村田了阿の日記などは、今日はなんの花が咲き、なんの鳥のさえずりが聞こえたというごく短い記述だけで成り立っているが、その文章から書き手の生活の様式を組み立て直してみると、尋常一様なものではないことが理解されてくる。つまり、自己の固有性とはそのときその場所にあることをおろそかにしないことであり、そのためにそうした作品はその時代の風俗を調べるさいの資料として用いられることもある。
 
 他方、時間や場所の固有性にさほどとらわれることなく、普遍的な問題に向かうタイプがある。日記というと固有の時間と場所が優先されるように思いがちだが、そうした事柄にまったく関心を払わない日記も珍しくはない。
 
 サルトルがジッドの日記についてこう書いている。「昨日、ジッドの日記をまためくっていて、その宗教的な側面に打たれた。これは何よりもプロテスタントとしての自己省察であり、次いで瞑想と祈禱の書である。モンテーニュの『随想録』や、ゴングール兄弟の日記、あるいはルナールの日記などとは何の共通点もない。根本にあるのは罪との闘いだ。そして日記をつけることが、悪魔と闘うことを可能にするつつましやかな手段の一つ、つつましやかな術策の一つとなっていることがたびたびである。」(『奇妙な戦争』海老坂武・石崎晴己・西永良成訳)キルケゴールカフカの日記もまた同様なものに数え上げられよう。
 
 普遍的な問題に向かうタイプにも、実は二種類ある。
 
 ひとつは、普遍性というものが、書き手が生涯を捧げているものと常に結びついている場合である。自己について書き省察することは、より大きな問題に向きあうための方途に過ぎない。ジッドにはプロテスタントとしての罪との闘いが、キルケゴールには神への信仰が、カフカには小説を書くという大きな問題があり、何を書いていようとも最終的にはその問題に行き着かざるを得ない。『告白』を書いてそのジャンルを創始したアウグスティヌスがまさにその原型であり、異境を排し、キリスト教を普及、確立する目的のために若かりし頃の遊蕩や異教信仰について述べることが役立つと思えばこそ自分の経験を書きとどめたのであり、もしそれが目的に不必要なものだと判断されたなら、容赦なく切り捨てられただろう(文学作品としての魅力の大半は失われてしまっただろうが)。
 
 普遍性を目指すもうひとつのタイプは、特に奉じる信仰や仕事があるわけでもなく、いわば個物から普遍性へと向かうことに興趣をおぼえ、それ自体が目的となっている。
 
 澁澤龍彦があげられる。自分について語ることを潔癖に拒否してきた澁澤龍彦だったが、死の十年ほど前からあえてそれを厭わなくなった。もっとも、アクチュアルな問題に首を突っ込んだり、どこで誰と飲んだなどといった日常にまったく関心が払われないことは相変わらずで、もっぱら幼少年時代の思い出だけが文章になることを許されているようだ。各著作にそうした文章は散見されるが、短いエッセイがこの同じテーマでまとめられ一冊の本となっているものに『玩物草紙』と『狐のだんぶくろ』がある。
 
 しかし、それらの思い出は常に普遍的なもの、ある観念や形而上学的な夢想に結びつくのである。『玩物草紙』のなかからいくつかの例をあげよう。
 
 小学校に入学する以前、澁澤はいつも昼食にはパンを食べていたという。食卓にはバターやジャム、コンデンス・ミルクの缶が並べられる。コンデンス・ミルクはメリー・ミルクという商標で、レッテルにはエプロンをかけた女の子が片手に籠を抱えている。籠のなかにはメリー・ミルクの缶がある。もちろんその缶にも籠を抱えた女の子がいるはずであり、籠にはメリー・ミルクの缶があるはずだ。それが無限に繰りかえされる。「この目の前のテーブルの上のミルクの罐のレッテルに、小さな小さなメリーさんが無限に連続して畳みこまれているかと思うと、私は何か、深淵に吸込まれてゆくような気がしたものだった。」と澁澤龍彦はいっている。
 
 そして、ココアの箱に描かれた、レースの帽子をかぶった田舎娘が同じココアの箱をもって、ほほえみながらそれを指さしている絵を見て、「無限の観念に最初に触れた」と『成熟の年齢』で書いたミシェル・レリスを引用している。
 
 子供は変なアイデアを思いつくもので、「ねえ、日の丸をつくって」と母親に要求した。日の丸は白地に赤であるから、つまりはパンの全面にコンデンス・ミルクを塗り、その中心に赤いジャムの丸を描くわけである。妹たちに自慢しながら食べていると、やがて妹たちも真似をするようになり、大はやりになった。そこで今度は「反対日の丸をつくって」とこっそり頼むことになる。反対日の丸とは白地に赤くの反対の赤地に白くであり、ジャムの地のうえにミルクの丸を描く。この新機軸で澁澤少年は「得意満面」になる。「『ミルクとジャムのおかげで弁証法の観念を知った』ということにはならないだろうか」と澁澤龍彦は書いている。
 
 父親から聞いたハレー彗星の話に「形而上学的な恐怖」を感じる(「星」)。動物園にいるナマケモノオオアリクイといった珍妙な動物をみることから、科学者はまずテーマを決め、そのテーマを証明するためにエヴィデンス(証拠事実)を集めるが、神さまも同じように、ナマケモノオオアリクイといったテーマに固執して、それを満足させるようなエヴィデンスをかき集めた結果「やむを得ず誕生してきた獣」がナマケモノオオアリクイではないかと、見事なアナロジーを見せる(「神のデザイン」)。
 
 「体験」の一篇は、対話体で、これらのエッセイが自分の体験の自己告白ではない、と抗弁している。そもそもなにかを体験するとは、それ以外の体験の可能性を消すことであるから、ひとつの体験はあり得たかもしれないもうひとつの体験を失うことである。そうだとすると、体験の数は誰しも永遠に変らないということになる。
 
 日常的な体験というのは、つまりはいくらでも入れ換えがきくもので、もし真の体験があるとするなら、道元の「身心脱落」のように、体験がないところに成立する「強烈な体験」だろう。確かにこれらのエッセイでは「体験」のようなものが語られているが、それらは既に見てきたように、人間関係の機微であるとか、処世上の知恵であるとかが引きだされるような体験ではないのである。
 
 子供のころ、お気に入りのカフスボタンを誤って呑みこんでしまった事件から「巨大な生きものの腹中に呑みこまれはしないかという、恐怖と魅惑の反対感情を伴った、無意識の感情傾向のことであり、胎内回帰願望の一変種」だというヨナ・コンプレックスを引っぱりだし、ジルベール・デュランの『想像的なものの人類学的構造』を引用して、「呑みこんだ私は、想像界では、呑みこまれた私と等価であったようだ」と結論づける(「カフスボタン」)。
 
 「あとがき」では、「私には取りたてて玩物の趣味があるわけではなく、ここで扱われているのはむしろ観念、あくまでも私の生きてきた観念の世界であろう。すなわち、私は観念を物のように玩弄することを好む人間らしいのだ」と書かれているが、「玩物」という言葉は「自分のことを語る」と言い換えてもよかっただろう。
 

G・H・ルイス『伝記的哲学史』5ピタゴラス(翻訳)

§II.ピタゴラス

 

 ピタゴラスの生涯は、ぼんやりとした荘厳な伝説に包まれていて、そこから救い出そうとする試みは希望がない。ある種の一般的証拠は間違いなく信用される。しかし、それはほとんどなく、曖昧である。


 その伝記に必要とされる難点の一例として、古代の作家たちや現代の学者たちが探求の結果あげた誕生年のことをあげよう。ディオドロス・シクラスは61回オリンピアのときだと言った。クレメンス・アレックスは62回オリンピア。ユーセビウスは63あるいは64回オリンピア。スタンレーは53回オリンピア。ゲールは60回。ダンシエは47回。ベントレーは43回。ロイドは43回。ドッドウェルは52回。リッターは49回。サールウォールは51回。48年の幅で変わっている。もし選択をしなければならないなら、ベントレーに決めることになろう。素晴らしい学者にたいする敬意のためだけではなく、ピタゴラスの友人や同時代のアレクシマンドロスによって知られている誕生の日と合致しているようだからである。


 ピタゴラスは通常、偉大なる数学の創設者に分類される。このことは、彼の広範囲にわたる労作、彼が主に専念していたのは広がりや重量の決定、音楽の音の比率にあったことなどを知ると納得される。彼の科学と技術は、彼の生涯とともに、無意味なまでに過大視されている。伝説によると、彼は聖人であり、奇跡の使い手であり、人間の知恵の教師以上の存在だった。生まれもまた驚くべきもので、ヘルメスの息子ともアポロの息子ともいわれている。その証拠として彼は金の腿をあらわしていたと言われる。国を荒廃させたダフネの熊を飼い慣らした。彼はメタポンタムとタウロミニアムの異なった場所で、同じ日同じ時間に講義を開いた。川を横切るときは、川の神が「これは、ピタゴラス」と挨拶をし、彼にとって天球の調和は音楽に聞こえたという。


 伝説はこうした驚異を記している。しかし、伝説的な伝承として存在しうるのは、ピタゴラスの意味深い偉大性ということである。リットン・ブルワー卿に十分にいわれているように、「ピタゴラスに関するあらゆる伝統だけではなく、彼個人が後にイタリアにもたらした強い影響は、彼が人類に及ぼした個人的影響、道徳的命令を必要としていた者に及ぼした熱狂、諸派閥や制度の創立者であること、彼がいまだ名前のない芸術を有していたことを証明している。ピダゴラスの時代と教えに多くの者が服従したが、彼が入念にギリシャの古代からの宗教と政治を探求し、異邦人ではあったが、訪れたデロスの伝統を(いかに寓話によってそれを損なったとしても)拒否し得ず、デルフィーの敬虔な奉仕者から教えを受けて感動したということが信じられていた。」*通常の人間ではなく、寓話によって詩的な領域にまで賛美されていた。ロマンティックで、奇跡的な行為が帰せられているときには、英雄はそうした驚くべき栄光を担うに足るだけ偉大であることはたしかだ。

 

*『アテネ、その勃興と没落』ii.412。

 

 かくして、示された事実は、一般的に伝えられている、彼がその教えと哲学をすべて東洋から借りたという説を反駁する。こうした偉大な人物が異邦からの教師なしですますことができるだろうか。実際できたし、そうしたことはたしかである。しかし、同郷の者たちは、ごく自然な考えによって、彼の偉大さを東洋での教育の結果だと見なした。彼の国には予言者はいなかった。想像力のあるギリシャ人は遠く離れた異境の国の者にそうした性質があるとする傾向があった。彼らは自分自身のなかから知恵が湧いてでるということを信じることができなかった。東洋という広大で未知の領域から、すべての新しいもの、思考が生じるに違いないとみていた。


 リッターが観察したように、古代ギリシャにとってエジプトがいかに驚異に満ちた土地であったか、後にもっと知られるようになっても、人々の性格は保留したとしても、国家的建築の途方もない構造に観察者の注意がねじ曲げられるのを見るとき、ギリシャ人が強力な東洋と偉大なピタゴラスとのあいだに何らかの関連をつけたことは容易に想像される。


 しかし、我々はピタゴラスがその学説についてエジプトにさほど負うことはないことを信じるとしても、彼がエジプトを旅したことに懐疑的なわけではない。サモスはエジプトと定期的な交流があった。ピタゴラスがエジプトを旅したか、旅したものに話を聞いたかしたならば、その体系にあらわれているように、エジプトの慣習について多くの知識を持っていたことだろう。そしてそれは司祭から教えを受けるまでもないことだっただろう。輪廻の教えはエジプトでは一般的なものだった。リッターがいうように、彼はそのために教えを請うまでもなかったのである。埋葬の習慣やある種の食物を禁じることは旅行者にはよく知られたことだった。しかし、ピタゴラスがエジプトの司祭から教えを受けたことに対する根本的な反論は、司祭階級そのもののなかに認められる。もし同じ階級に属さないのならば、同郷人の最も親しい者へも教えることを惜しんだとするなら、異邦人であり、異なった宗教をもつ者にどうして教えを授けることがあろうか。


 古代の作家たちはこの反論に気づいていた。それを無視するために、彼らはいまならブルッカーが与えている物語を発明した。ポリクラテスはエジプト王であるアマシスと友好的な関係にあり、ピタゴラスを送って、司祭と接することができるように推薦したというのだ。王の権威は司祭が異邦人にその神秘を明かすことを認めるほど十分なものではない。それゆえ、彼らはピタゴラスをテーベにおいて古代に精通したものとした。テーベの司祭は王族から選任されたものとして畏敬されており、異邦人に儀式を見られることを嫌っていた。新参者を嫌いながらも、彼らは割礼を含めたいくつかの残酷な儀式に参加させた。しかし、彼をくじくことはできなかった。彼は忍耐をもって指図に従い、最終的に信頼を得た。彼はエジプトで二十二年を過ごし、あらゆる学問に精通して帰ってきた。これは悪い物語ではない。しかし、一つ反論があるとしたら――実体がないということである。


 哲学者という言葉の発明は、ピタゴラスに帰せられている。ペロポンネソスにいたとき、レオニティアスに「なにがおまえの技芸なのだ」と問われた。「私には技芸はない。私は哲学者だ」というのが答えだった。レオニティアスはその言葉を聞いたことがなく、なにを意味するのか尋ねた。ピタゴラスは重々しく答えた、「それはオリンピアの競技に比較できるかもしれない。あるものは栄光と王冠を求める。買ったり売ったりすることで利益を求める者もいる。彼らより高貴な者たちは、利益も賞賛も求めず、この素晴らしい見世物を楽しみ、そこで起きるすべてのことを知ろうとする。同じように、我々は天国である国を出て、多くの収益、多くの利益を得るものの集まりである世界にきたが、そこには数こそほとんどいないが、貪欲や虚栄を軽蔑し、自然を研究するものが存在する。それらを私は哲学者と呼ぶ。というのも、個人的な関心なしでいる観客ほど高貴なものは存在せず、その生涯では、瞑想と自然の知識とが他のどんな仕事よりも名誉あるものとされているからだ。」ピタゴラスが言うところによれば、「知恵を愛するもの」という通常の哲学者の解釈は、「愛するもの」という言葉に最高度の広がりをもたせたときにだけ正確なものとなることを見ておく必要がある。知恵というのは哲学者にとって「ここにあり目的でもあるすべてであり」、単なる好みや一つの追求すべきものであってはならない。それは生命を捧げる貴婦人でなければならない。それがピタゴラスにとっての意味であった。それ以前に賢人を指していたのはσοφςという言葉だった。しかし、彼は自分を、その体系において為したのと同様に、Sophoiあるいは当時の哲学者とは区別することを望んでいた。Sophosの意味は何であろうか。間違いなく我々はそれによって哲学者とは異なる賢人を意味している。その知恵とは実践的なものであるか、実践的な目的に変わるものであった。知恵を愛するものは、それ自体を愛しているのではなく、目的のために愛していた。ピタゴラスは知恵をそれ自体において愛していた。彼にとって瞑想は人間性の最高度の修練だった。生きることの底辺にある目的のために知恵を引きずり下ろすことは冒涜だった。それゆえ、彼は自信を哲学者――知恵を愛するもの――と呼んだが、知恵をより有益な目的のために求める者とははっきりと区別した。


 哲学者という言葉のこの解釈は、彼の意見のいくつかを説明することになろう。とりわけ、厳格な入会儀礼の後でなければ入ることが認められない秘密結社の設立を説明する。五年のあいだ、加入希望者は沈黙を守らねばならなかった。多くのものが絶望のうちにそこで断念した。彼らは純粋な知恵のための瞑想には値しなかった。饒舌な傾向のないものは、その期間を守り通した。様々な屈辱に耐えねばならなかった。自己否定の力を測るために様々な実験が為された。それらによってピタゴラスは彼らが世俗的かどうか、科学という聖域に入るのにふさわしい者かどうかを判断した。浄化、犠牲、通過儀礼によって魂の基本的な部分を一掃した後に、彼らは聖域に入ることが認められ、魂のより高次の部分も、非物質的で永遠な事物についての知識からなる真理に関する知識によって祓い清められるのだった。この目的のために彼は数学から始めたが、それは物質的なものと非物質的なものとを媒介し、それだけが精神を感官的な事物から切り離し、知的なものへ導くことができるからである。


 我々が不思議に思うのは、彼は神として崇拝されていただろうかということである。世俗的な争い、偉人になろうとする野心も超越し、知恵のためだけに生きた彼こそが、通常の人間よりも高次の刻印を押されているのではないか。後の歴史家たちは、白いローブをまとい、黄金の王冠をかぶった、重々しく荘重で、沈着な彼の姿を描いた。人間的な喜びや悲しみなどは超越し、存在のより深い神秘について瞑想している。音楽や、ホメロス、ヘシオドス、タレスの頌歌、あるいは天上の調和に聞き入っている。活気があり、おしゃべりで、議論好き、活動的で多才なギリシャ人から、荘重で謹厳、沈黙と瞑想を旨とする人物が現れるほど驚くべき現象があろうか。


 リットン・ブルワー卿の『アテネ』から、ピタゴラスの政治的経歴についての部分を引用しよう。――「キケロとアウルス・ゲリウスの証言によると、ピタゴラスはタルキニウス・スペルブスの統治下にイタリアに到着し、アカイア族のギリシャ人によって植民地化されたタレンタム湾の一都市であるクロトンに住居を定めた。もし後の弟子たちの途方もない話を部分的にでも信じ、けばけばしく飾り立てられたものから、もともとの単純な真実を引き出そうとするなら、彼は最初は若者の教師としてあらわれ、当時としては異例のことではないが、すぐに法制官の教師となった。都市の紛争は彼の対象として好まれた。議会(千人の人員があり、間違いなく異なった人種からなっていた――最初は入植者の子孫たちであったが、最後には土着の人々も加わった)は雄弁で名声のある哲学者の到着と影響を利用した。彼は貴族の強化に力を尽くし、同じく、民主主義と専制主義に反目した。しかし、彼の政策はなんら世俗的な野心を伴ったものではなかった。彼は少なくともしばらくの間は、表向きは権力や地位を拒み、時期的にいうと比較的最近であるロヨラによって創設されたような強力な秩序に似ていなくもない、組織化された畏怖される社会を創設することに満足していた。弟子たちは試験と見習い期間を経ることでこの社会に入ることを認められた。段階を経ることで彼らはより高い栄誉を受け、より深い神秘に与ることが認められた。宗教は同胞愛の基礎となり、進歩と力を得る目的のために人間を結びつけた。彼はクレトンで高貴な家族のあいだから自らの制度を形成するのに三百人を選び、彼らは自らの身分を知り、世界に命令するのに適するように育てられた。ピタゴラスが首長となったこの社会は、古代の元老院に取って代わり、行政管理を得てからさほどたっていなかった。この制度においては、ピタゴラスは他に類のない唯一の存在だった。ギリシャ哲学の創建者たちの誰も彼には似ていない。誰から聞いても、女性の重要性を認めることにおいてその時代の賢人たちとも異なっていた。彼は女性に講義をし、教えたといわれている。彼の妻自身が哲学者であり、十五人の女性の弟子たちが、彼の学派を光彩を放つものとしている。人類を魅了し欺すあらゆるものについての深い知識をもとにした制度が、一次的な権力を守ることに失敗するはずがない。彼の影響力はクロトンに限られることはなかった。他のイタリアの都市に及んだ。政治制度を修正し、転覆した。ピタゴラスがより粗野で、個人的な野心を持っていたなら、彼はおそらくは強力な君主制を築き、社会年代記を新しい実験の結果でより富ますこともできたろう。しかし、彼の野心は英雄のものではなく、賢者のものだった。彼は自分の身分を高めるよりもむしろ制度の確立を願った。彼の直接の後継者たちは、彼が創設した同朋社会から生じる結果のすべてを見ることはなかった。そして彼の華麗で、荘厳な政治的企図は、しばらくの間は成功したが、無能な友愛感情の茶番と熱心でなかばは気のきいた禁欲主義を残しただけだった。


 かくも神秘的で革命的な権力が社会のいたるところに行き渡り、イタリアの相当の部分で確立されたとき、警戒と疑惑の一般的感情が賢人と宗派のものに向けられた。ポルフィリーによれば、反ピタゴラスが勃興し、後の長い世代に記憶されるほど多数で活発だった。賢人の友人たちの多くは死んだと言われ、ピタゴラス自身敵たちの怒りの犠牲になったのか、弟子たちとメタポントゥムに逃亡して死んだのか疑問をもたれている。最近までイタリア南部は騒乱によって疲弊し、ギリシャも仲裁や調停に入ったが、騒動は収まらなかった。ピタゴラスの制度は捨て去られ、アカイアの金権的な民主主義が知的であるが共感は呼ばなかった寡頭政治の残骸の上に築かれている。


 ピタゴラスは、社会を革命しようと試みたときに、官吏として貴族に頼るという致命的な間違いをした。革命、特に宗教に影響されたものは、民衆の感情によらなければ決して働き得ない。この間違いから、彼は人々に反感を買うようになった。ポルフィリーに関連してネアンテスが考察し、他のすべての証言からも明らかなことだが、部分的な暴動ではなく、民衆の反撥によって彼の没落が決したことは間違いないからである。彼の死後、哲学的な派閥は残ったが、政治的規範が消え去ったことも明らかである。彼がまいた種で、大きな国家にまで育ったのは、よいことであれ悪いことであれ、それは多数のものの心に植えるのだということである。」


 長い間世界を楽しませてきた、彼が音楽のコードを発見したのだという物語も除くわけにはいかない。ある日のこと、鍛冶屋で、多くの男が次々に熱した鉄を叩いているのを聞いて、彼はひとつのハンマーを除いて他のすべてが調和のとれたコードを、つまりオクターブ、五度、三度、を生みだしていると述べた。しかし、五度と三度のあいだの音は不調和だと。仕事場に入ったとき、彼は音の多様性はハンマーの重さの相違によるのだとわかった。彼は正確な重さをはかり、家に戻ると、平面に四本の弦を張り、それぞれの弦の端にハンマーと同じ重さのものをつるし、かき鳴らすと、ハンマーの音に対応した音がした。彼はそこから音楽の音階をつくりだすことに進んだ。


 このことについて、バーニー博士は『音楽の歴史』のなかでこう述べている。「ハンマーと鉄床がオーストリッチのように消化力のある古代人と現代人によって飲み込まれ、検証と実験がなされたとしても、異なった大きさと重さのハンマーは同じ鉄床の上で異なった音を出すに過ぎず、それは異なった大きさの矢や鐘の舌が、同じつるや鐘でしか異なった音を出さないのと同じでああろう。」


 ピタゴラスの生涯を終えるにあたって読者に思い起こしてもらいたいのは、途方もない矛盾した主張を歴史や伝記から集め、「権威」として無批判に使うことである。一例としてそうした「権威」をひとつあげよう。イアムビリカスはピタゴラスの生涯を、キリスト教の勃興と戦い、キリストに異教の哲学をもって対立したという視点で書いている。ピタゴラスに帰せられている奇跡も同様に根拠がないことである。