部分と全体――ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』(2016年)

 

 

 ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』は、異星人とのコミュニケーションという大好きなテーマだったにもかかわらず、期待しすぎたせいでもあろうか、それほど満足のいくものではなかった。こうしたテーマでは、タルコフスキーの『惑星ソラリス』を思い起こすのは自然なことだが、『メッセージ』の異星人には、彼らはなにを望んでいるのか、という大きな謎はなく、また彼らとの意思疎通が『ソラリス』ほどには切実なものとは感じられなかったのである。

 

 『ボーダーライン』も大きく括れば、『メッセージ』と同じテーマの映画である。FBIの女性捜査官(エミリー・ブラント)がメキシコの麻薬組織壊滅作戦のチームに抜擢される。麻薬がらみで大量の死体を発見したばかりの彼女は、その作戦に加わることを希望する。作戦の指揮をとっているのは、会議にもサンダル履きで参加するようないかがわしい男(ジョシュ・ブローリン)と、組織に精通しているらしい南米系の男(ベニチオ・デル・トロ)である。捜査官はいかにもアメリカで活動してきたFBIの職員らしく、証拠を固め、法律に従って事件を解決しようとする。だが、組織の中心である二人は、黙ってみてれいればそのうちわかるさというばかりだ。ある人物を逮捕するや、四方から狙撃手がわらわらと集まってきて、メキシコ警察は信用してはいけないと教えられる。この巨大で目に見えない組織にどう働きかければいいのか彼女は最後まで理解することはできない。いや、自分のFBI捜査官としての倫理観、道徳観からいえば、拒否すべきだということはわかるのだが、拒否したところで、どう対処すればいいのかわからないのである。

 

 グーグル・アースのようにはるか上空から見下ろした町や、西部劇でしか見ないようなロング・ショットの連続が印象的である。また、カフカの『城』を思い起こさせる映画でもある。『城』では、巨大な城の存在は見まがうまでもないが、そのなかに入るのに誰に連絡し、なにをすればいいのかわからない。同じように、夜のロングショットで、山の中腹で、拳銃のものらしい火花がちかちかと起こるが、遠くから見ているものには、それをどう調停し、あるいは関与すればいいのかさっぱりわからない。それは、作戦行動が一応の成功を収め、捜査官が自分がなんのために招集されたのか理解したのちもそう変わりはしない。麻薬組織を逃れるかのように不法移民しようとするメキシコ人たちや、ボスといわれる人物も登場するのだが、それはあくまでも部分であって、麻薬カルテルの全体をあらわすものではない。ここにあるのはその両者を媒介するもののない部分と全体だけの世界である。

奇妙なアソートーーウェイン・ワン『女が眠る時』(2016年)

 

 

 小説家の夫と編集者である妻とが伊豆の海に面したリゾートホテルに一週間のあいだ逗留する。編集者である妻の担当の作家の家が近くにあり、原稿を受け取る仕事のついでに、夫婦してゆったりとした時間を過ごそうというのだ。夫婦は幾分ぎくしゃくした関係にある。夫は新人賞をとり、数作を発表してから書くことができない状態に陥っており、小説家をやめて普通の企業に勤めようとしている。その夫が少女を伴った奇妙な初老の男性と知り合いになり、創作への衝動を取り戻す。

 

 風変わりな映画である。伊豆のリゾートホテルは、海の手前にプールを備え、無国籍な建築であり、小説を書こうとしている夫のテーブルの上にはパソコンだけしかなく、要するに80年代から90年代前半のドラマのようで、全く日常的な生活感がない。少女は初老の男にとって友人の子どもらしく、毎晩その眠る姿をビデオに撮影している。眠っている少女のうなじの際の産毛をカミソリで剃りあげる場面には明らかに性的なものが見て取れるが、実際に二人がどんな関係にあるのか最後までわからない。男は少女を毎晩撮影し、よく撮れたもの以外は上書きしていくこと、さらには彼女が死ぬまでの姿をおさめなければならないのだと小説家に語るが、そうしないではいられない、あるいはそうしなければならない理由が示されることはない。

 

 小説家は彼らのことが頭から離れなくなり、彼らの部屋を覗き、二人が不在のあいだに部屋に入り込み、撮影されたテープを盗み見るまでになるのだが、彼の執着がなにに由来するのかこれもはっきりしない。やがて、少女が行方不明になり、近辺で身元不明の少女の死体が発見されるのだが、少なくとも小説家は男と一緒だった少女だと思っているようだが、はっきりしたことはわからない。

 

 そもそも初めから最後まで、小説家が抱いた幻想にすぎないかもしれないのだ。ここまでくると、日常的な生活感のなさがかえって有効に働き始める。小説家である西島秀俊にしろ、初老の男のビートたけしにしても、ある種の存在感はあるにしろ、複雑な内面的心理を微妙な表現でもってあらわすことなどからは程遠い俳優であって、どれほどある種の苦悶を言いつのってみても、一個人として共感を誘うことはない。むしろ能の舞台にも似た抽象的で象徴的な空間が広がっている。有機的なものとして最も感覚に訴えてくるのは、少女の寝姿ではなく、虫の音や風や雨の出す自然音である。30年以上前に、一度見ただけなので断言はできないが、樋口可南子高瀬春奈が盛大に脱ぎまくっているにもかかわらず、官能性の全くなかった横山博人の『卍』のことを思い出した。

 

 それにしても、妙におかしいのは、この映画が電通が出資した映画であり、ハビエル・マリウスの同名の原作はPARCO出版から刊行されており、リゾートホテルは撮影協力から見ると、伊豆今井浜にある東急ホテルであり、きわめつけはこの一種の恋愛映画が、松竹でも東宝でもなく、まして昨今ありがちな「〜をつくる会」によるものでもなく、よりによって東映が配給していることにある。

 

婉曲な襞の淫蕩さ--スタンリー・ドーネン『芝生は緑』(1960年)

 

芝生は緑 [Blu-ray]

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 understatementという言葉がある。辞書によれば、控えめな表現のことであり、アメリカ人のほら話と対照的に、イギリス人特有の言葉づかいだといえる。良いというところを悪くないというようなもので、階級や偽善性によって鼻持ちならないものにもなるが、国民性にまでなるとある種風格が出てくる。それに、もちろん婉曲表現というのは、レトリックの第一歩でもある。

 

 この映画は監督こそアメリカ人のスタンリー・ドーネンであり、制作国はアメリカだが、イギリスが舞台であり、脚本、撮影、更に劇中の歌詞にはイギリスを代表する劇作家であるノエル・カワードが参加しており、出演者にしても、デボラ・カー、ジーン・シモンズ、そして実は私自身うかつなことにまったく気づいていなかったのだが、アメリカ人俳優の代表者とばかり思い込んでいたケーリー・グラントは、イギリス出身であり、14歳のときに劇団に加わり渡米するまで、イギリスで生活していたので、ほぼイギリス人によってしめられている。もう一人の主要人物であるロバート・ミッチャムアメリカ人であるが、劇中でもアメリカ人として登場する。『芝生は緑』とは隣の芝は青い、他人のものはよく見える、ことを示している。

 

 ケーリー・グラントとデボラ・カーはイギリス貴族の夫婦である。貴族とはいっても、優雅な生活を送ることからはほど遠く、自宅の一部を観光客に開放し、妻はマッシュルームを栽培している。いつものように観光客を乗せたバスを迎えるとそのなかにロバート・ミッチャムが加わっている。彼はアメリカの石油王であり、一目見てデボラ・カーを好きになったようで、彼女もまた、あながちそれを拒もうとはしない。ジーン・シモンズは二人の関係をそそのかすわけでも、止めるわけでもない、関心と無関心が入り交じった小悪魔的友人として登場する。夫は鈍感なのか脳天気なのか二人の恋愛に気づいたそぶりもみせない。やがて二人は週末の数日をともに過ごすことになる。しかし、ロバート・ミッチャムが見事に喝破したように、彼は私が君に恋していることを知っているし、私がそのことを知っていることも知っているのだ。しかるに、夫は表立ってなにをするわけでもない。あまつさえ、石油王と妻がしばらく旅行に行くことを提案する。かといって、すでに愛情が冷め切っているわけでもない。やがていつかこのことを思い出したときに、あのとき家を出ていたなら、と後悔することを恐れてのことなのである。つまり、嫉妬のこの上なく婉曲な表現なのだ。

 

 この映画はスクリューボール・コメディーに対する数十年を隔てたイギリス的な回答だといえる。あるカップルがなんらかの出来事をきっかけに愛情を再確認するという同じ構造をもっている。スクリューボール・コメディーの登場人物は狂っているとしか思えない行動をとるが、そうしたコメディーに多く出演しているケーリー・グラントはここでは表情を崩すことなくいかれた決断をする。スクリューボール・コメディーの女優たちは、キャロル・ロンバートにしろ、クローデット・コルベールにしろ、キャサリン・ヘプバーンにしろ、どこか中性的な、男の子のような魅力をもっているが、デボラ・カーは、実をいうと『黒水仙』で見たことをおぼえているだけなのだが、石油王と数日を過ごした二人が、その実どこまで関係を進めているのか一切触れられないことによってエロティックな存在感を持ち、『黒水仙』の尼僧姿のドレープの襞が、淫蕩さをたたえてこの映画に結びついているようにも思える。

 

イメージと技術--ヴェンダース『666号室』(1982年)

 

 

 ドゴール空港へ通じるハイウェイの傍らに、樹齢百五十年を経た樹木が立っている。『666号室』はこの樹木を捉えたショットから始まる。ちょうど盆栽の松のような形をしているが、樹木にそれ以上カメラが寄ることはないので、正確なところはわからない。空港に通じる道の傍らにあることから、パリへ来たのだという印象を与えるものだと語られる。後にもう一度この樹木が現われるが、それはこのドキュメンタリーに登場する、友人でもあったライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが同じ年、37歳の若さで死んでしまったことへの追悼の意が込められているのだろう。

 

 この映画はカンヌ映画祭に集まった映画監督たちに、映画の未来について問いを投げかけることで成り立っている。登場するのは、ヴェンダースを含めて十七人の監督だが、私がその映画を見たことがある監督だけをあげれば、ゴダール、ポール・モリセイ、モンテ・ヘルマンファスビンダーヘルツォークロバート・クレイマースティーブン・スピルバーグミケランジェロ・アントニオーニ、ユズマス・ギュネイなどである。それぞれの監督がホテルの一室に入り、十分間の時間を与えられる。カメラは置きっ放し、部屋には誰も残っていない。画面中央に椅子があり、その右手後方にテレビが流しっぱなしになり、左手には小さなテーブルに録音テープが置かれ、出演者が自分で始まりと終りを決める。

 

 映画の未来について問うということには、ある種の危機感があり、それは映画のテーマであったものが、テレビに乗っ取られていることからきている。さらに即時性についてはテレビの方に分がある。80年代にはビデオも普及し始め、映画をテレビの画面で見ることが容易になった。考えてみれば当然のことなのだが、改めてはっとしたのはテレビより映画の方がずっと長い歴史をもっていることである。ほとんどテレビを見ることがなく、パソコンの画面で映画を見ることの方が多いためにちょっとしたアナクロニズムに陥っていたのだが、私などは白黒テレビをぎりぎり経験した最後の世代になるのかもしれない。幼いころには既に家の中心となるテレビは、カラーテレビになっていたと思うのだが、十代のなかばくらいまで、自室に白黒テレビがあったはずだから、特に白黒の画面に違和感なく育った。しかし、もはやテレビが生活の中心になることはなく、要するにモニターさえあればいい。

 

 いわゆる放送局がCMを流しつつ、放映するテレビはもはや映画の危機感を喚起するほどの力はないが、ネット配信による放送のことを考えると、映画の危機はいまでも、というよりかつてないほど高まっているのかもしれない。Netflixやアマゾンによって独自に制作される作品は、漠然としたものとしてあった映画とテレビの主題の違い、放送コードや予算の相違によって自ずから生じる棲み分けを無効にしてしまった。その一方撮影機器が格段に進歩したことによって、編集ソフトを用いることによって、一人でも映画が撮れるようになった。アメリカの大作はコミックの映画化によって、限りなく連続ドラマに近くなり、ネット配信にはデヴィッド・フィンチャーウディ・アレンのような映画人も参加している。数多くのドラマを見ることができ、一日一本見たところで、追いつかないほどの映画が定額で配信されているが、そこにはヨーロッパ映画や中東や日本を除くアジアの映画はほとんど含まれていない。楽しいことは楽しいのだが、ブロイラーのように餌を無理矢理食べさせられているようにも感じるのも確かなのだ。

 

 

 この映画に出演している監督たちも、僅かな時間でこんな大きな問題に答えられるはずもないが、ゴダールが映画やテレビというよりイメージのことを考えていること、アントニオーニがビデオであろうがなんであろうが、新しい技術を取り入れるつもりだといっていることが印象に残った。ドゥルーズはホークスやヒッチコックなどハリウッドによって洗練された映画を運動―イメージと捉え、ネオ・リアリスモやヌーヴェルバーグによって開拓された新たなイメージのあり方を時間―イメージとして描きだしたが、新たなイメージもあり方が存在しうるかがおそらくは問題なのだろう。

都市という幻想――安部公房『箱男』(1973年)

 

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 

 

 安部公房は都市小説の書き手だといわれているが、相当限定をつけなければならない。いかなる意味でも、魅惑的な特定の都市を描きだすことはなかった。郷愁の対象でありながら、憎むべき相手でもあり、生活の地盤であった永井荷風久保田万太郎における東京の下町のような存在とは無縁だった。また、風俗に関心がないので、三島由紀夫吉行淳之介のように、あるいは村上春樹村上龍のように、都会が印象的な姿を見せることはない。さらにはイメージとしての都市、未来派と親和性が高い都会を稲垣足穂のように魅力的に描くこともなかった。ポオを好んだが、『群衆の人』のような、ボードレールとも結びつくような、都会に生活することの安楽と不安がない交ぜになった感受性とも不思議に縁がない。

 

 そもそも『箱男』といういかにも都市でしかあり得ない存在を巡るこの小説には、都市がほとんど描かれていないのである。二カ所に新聞記事の抜粋があり、上野の浮浪者が一斉に取りしめられたこと、新宿駅の地下で倒れていた者が十万人に及ぶ乗降客に無関心に放置されたことが記されている。また、作者自身による写真が載せられており、そこにはモノクロの粗い粒子で、シャッターの下りた宝くじ売り場、貨物列車の番号、病室に貼られた解剖図、同じ方向を見つめるおそらくは家族の一団、曲がり角で対向車を確認するミラー、公衆便所に立ち並ぶ男たち、ゴミのような大量の荷物を抱え自転車を引いている男、廃車置き場といった都市そのものというよりは都市の分泌物のような情景であり人物なのだ。

 

 だが、不思議なことに、都市の群衆のなかにいる人間についてはついぞ触れられない。男は段ボールの箱をすっぽりとかぶることによって、箱男となり、匿名の存在になるが、匿名でこそあれ異物である箱男が、群衆のなかでいかに匿名の何も意味しない存在へと変質するかは決して問題とはならない。いわば箱をかぶることによって、他者もまた消失してしまうのである。匿名性を得た男は、群衆に立ち交じることもなく、病院の院長とその愛人らしい女との三角関係に巻き込まれる。しかし、彼、または彼女も箱男を断罪するわけでもなければ、匿名性を暴き立てようとするわけでもない。しかも院長が偽箱男となったり、女は愛情を求めるわけでもなく、いわば擬似的な三角関係に過ぎないのだ。

 

 

 『燃えつきた地図』の団地といい、『密会』やこの『箱男』の病院といい、いずれも都会とは異質な、無機質な群衆には至らない、しかし病気による、あるいは同じ一群の建物に住むという紐帯でつながった集団によって形成された擬似的な都市=群衆なのであって、そこには確かに匿名性はあるが、同時に他者性も消失しており、代替可能な人間だけが残ることになる。

謎は謎として残り――福沢諭吉『丁丑公論』(明治34年)

 

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)

 

 

 福沢諭吉についてほとんど興味はなく、『学問のすすめ』さえ読んだことがない。唯一読んだことがあるのは『痩我慢の説」(執筆は明治24年、発表は明治34年)であり、それは薩長土肥を中心として創設された明治国家において、その敵であったはずの幕僚が次々と転身し、新政府の要職についているのを歎じ、そもそも徳川幕府が長年にわたる支配を続けてこられたのは、どんな悲運や辛苦があっても落胆することなく、家臣や主人のために尽力した家康及び三河武士の痩せ我慢があったからであり、ひいてはそれが武士の美質となった。しかるに、昨日までのことをすっかり忘れ、節を変じて幕府のものが新政府のために勤めることは、長年にわたり築かれてきた武士の美風を損なうものとし、その代表者である勝海舟榎本武揚を批判している。

 

 こうした問題は、私たちの親、あるいは祖父母の、敗戦後それまでの価値観が一夜にして変わった世代にとってはより切実なものだったろう。しかし彼らはあるいは痩せ我慢の必要は感じたかもしれないが、武士道を必要とはしなかった。むしろ人間としてのあり方の問題である。

 

 明治維新のときにいわゆる武士道を一番損なったのは、様子を見て趨勢を見守っていた多くの諸藩であり、藩などを越えた国のあり方の必要を実感していた勝海舟に比べると、福沢諭吉の方がより封建的な価値を引きずっている。例えば、『通俗民権論』(明治11年)などを見ると、「権」とは、「権利、権限、権力、権理、国権、民権」などと用いられるが、より通俗的に言えば、「分」のことだとしている。武士には武士としての「分」があって、各人の分に従って行動すべきだと言っているようだ。「分をわきまえよ」などという言葉は、威圧的、あるいは今風に言えば、モラル・ハラスメントでしかないことは、主人が雇い人にいうことはあっても、その反対はないという非対称性によって明らかである。また「権」ということがその程度のものであるなら、人間はその生まれの身分、性別によってはじめから与えられる「権」が定まっていることになる。

 

 それゆえ、「立国は私なり、公に非ざるなり」(立国が私だというのは、隔絶された社会において、自給自足の生活が送れる限りにおいては、そこに国の必要などないが、実際には我々は利害をことにする他者に囲まれて生活している、そこで自らの利益を守り、折衝するために国家を必要とすることを意味している)という福沢諭吉の言葉に対応するように、「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」とこの批判に簡潔に答えた勝海舟、各藩のものと隔てなく付き合い、それこそ臨海丸で福沢諭吉とも同乗してアメリカにまで渡った彼の方がよほど立派に思えた。

 

 ところで、そんな福沢諭吉西南戦争の首魁である西郷隆盛を擁護している『丁丑公論』(明治10年西南戦争が鎮圧されたときに書かれたが発表されたのは明治34年)を書いているのを知ってちょっと意外に感じた。同じく、内村鑑三が『代表的日本人』の一人目として西郷隆盛を上げているのを見たときにも意外な感を受けたが、内村鑑三はあまりに自己の立場に引きつけ、武士道的ストイシズムをキリスト教のない社会におけるキリスト教の代替物とする強引さが目立つものだった。

 

 一方、福沢諭吉の擁護論というのは、現代の状況とオーバーラップする。新政府は早くも腐敗を始め、士族は困窮し、農民は貧困を極め、徳川時代のおけるよりも農民一揆は頻発した。しかし、新聞をはじめとするジャーナリズムでは、朝鮮に対する対応の相違によって下野した西郷隆盛に対する非難が渦巻いていた。そして西南戦争直後における反応もそれに異ならなかった。いわば、政府の腐敗と民衆の貧困対策への無能力のガス抜きとして、西郷隆盛は政府および言論界において利用されたと福沢諭吉は言っている。そもそも西郷は政府を転覆しようとしたわけではなく、政府の「一部分」である政策について不和をきたして下野したのであるから、死に追い詰める必要もなかったはずだ。こうした分析は、全体としてみれば、現在の政治状況にも当てはまる正確なものだと思うが、島津斉彬に殉じて死のうとし、僧月照とともに入水し、朝鮮への使節に自ら赴こうとするなど、常に死に場所を探しているような西郷の謎については手つかずのままで、やっぱり不満を感じる。

 

退屈?な日常――前田司郎『不機嫌な過去』(2016年)

 

 

 なんで、どうして、を繰り返し、大人になることは毎日の繰り返しのなかで、感覚をすり減らしていくにすぎないと思っている女子高生の果子(二階堂ふみ)は、祖母と両親、それに新しく生まれた妹とともに豆料理の店に暮しており、スナックを経営している近所の一家ぐるみの友人の小学生の娘と夏休みの日々を暮している。なんで、どうして、と言い返すのは、なにか根本的な原因を知ろうとするためではなくて、むしろなんでだかわからない物事に関しての疑いを遮断しようとしているかのようだ。そんなある日、死んだはずの叔母、未来子(小泉今日子)がふらりとあらわれる。詳しくは語られないが、彼女は前科もちで、果子が生まれてすぐに北海道で死が確認されていた。

 

 正直なところ、単調な繰り返しにしか思えない日常に僅かな驚きが突き刺さって生になんらかの意味を見いだすというタイプの物語は、映画からアニメにいたるまで無数に題材にされていて、食傷気味であり、タイム・リープものも、平行世界ものもそのヴァリエーションだとすれば、手垢にまみれている。

 

 さらに、監督が演劇人であることを思えば、「別の世界」を求める果子の状況はもはや古典であるベケットの『ゴドーを待ちながら』そのままであり、槍のホンダという女性が、あらわれるのを見張り続ける我が子を喰ったワニや短い会話で空間を成り立たせていく手法は別役実、果子が唯一関心をもつ男性、山高帽をかぶり、トンビっぽい上着を着て、人さらいであり、革命家であるらしい人物などは唐十郎的である。

 

 監督の発明は、死んだはずの未来子を迎え入れる家族は、生きてたの、というくらいでさほど驚きを見せるわけでもないし、ある晩ふっと姿を消しても、特にうろたえはしない、果子が感じている退屈な日常と同時に、大林宣彦の『異人たちとの夏』のように、死者が戻ってきたとも思えるし、未来子が言うように生きていたのだとも思える、いるはずのない巨大なワニや人さらいや爆弾が共存し、実は退屈な日常からは浮き上がった漂うような空間をつくりだしたことにある。

 

 

 そして、舞台では表現できない、二階堂ふみの不機嫌な表情のクローブアップ、最終盤で、髪をあげると一瞬誰だかわからなくなる、実は変化に富んだ顔立ち、小泉今日子の、『あまちゃん』以降だろうか、もしかしたら樹木希林のような女優になるのではないかと思わせる、すっかり板についた少々やさぐれた雰囲気、更には海があり、川があり、橋がある品川の街が、漂うこの空間をしっかりとした具体性に結びつけており、映画として成立させる。