世界劇場 3 モーツァルト『フィガロの結婚』(2006年)

 

 

Mozart: Great Operas/ [DVD]

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  • 出版社/メーカー: Opus Arte
  • 発売日: 2016/09/30
  • メディア: DVD
 

 

 

指揮者:シルヴァン・シャンブリング

演出:クリストフ・マータラー

振り付け:トーマス・スタッチ

アルマヴィーラ伯爵:ピーター・マッテイ

アルマヴィーラ伯爵夫人:クリスチーネ・オエルゼ

スザンナ:ヘイディ・グラント・マーフィ

フィガロ:ロレンゾ・レガッツォ

ケルビーノ:クリスチーネ・シェーファー

パリ国立オペラ・オーケストラ

 

 オペラを聴くだけではなく、見始めてさほど時を経ていないので、ザルツブルク音楽祭のことは聞いたことはあるものの、それほど関心をもつことはなかった。モーツァルトの生誕地で行われるこの音楽祭は、モーツァルトに関連して節目の年にはその作品を集中的に上演するらしい。生誕250年である2006年には、モーツァルトのオペラ全曲が上演された。

 

 この音楽祭についてさほど知らない私には、音楽祭を統括するプロデューサーの力がどれほどのものか実感が湧かないのだが、すべての演出が「現代風」になされている。いわゆるコスチューム劇ではなく、現代の服装と舞台装置で統一されている。これまでの演出の歴史をまったく知らない私には現代的にする理由もよくわからないのだが、『イドメネオ』は古代ギリシャが舞台であること、『後宮からの脱出』はトルコが舞台であることを思えば、考証に時間をかけるよりは、思い切って現代に転換した方が新鮮かもしれない。

 

 しかし、ザルツブルク音楽祭ではないが、先日見た2010年のパオロ・カリニャーニ指揮、ネーデルランド交響楽団ヴェルディの『シチリアの晩鐘』などになると、音楽や歌手たちはともかく、衣装がすべてユニクロのようで、余計なところで気が散って、舞台に集中できなかった。

 

 特に『フィガロの結婚』などの場合、貴族とそれに仕える者たちとのセックス・バトルであるから、貴族である標識として衣装がある、伝統的な演出の方がわかりやすいのではないかと思うのだが、肝心の伝統的な演出を見たことがないので文句を言っても冴えないことになる。一応伯爵と伯爵夫人とは、よりフォーマルな服を着ていて、それほど戸惑うことはないのだが、その程度の服装の差は階級の相違を示すには足りない。

 

 物語は、伯爵の使用人であるフィガロが、伯爵夫人の使用人であるスザンナとの結婚の準備をしているところから始まるが、伯爵はスザンナに浮気心を抱いていて、封建領主が有している初夜権をほのめかせて彼女をものにしようとしている。様々な障害を乗り越えて、フィガロとスザンナが結婚し、伯爵と伯爵夫人とが互いの愛情を確かめあって大団円を迎える。

 

 つまり、アメリカの哲学者スタンリー・カヴェルが1930~40年代にハリウッドでつくられたスクリューボール・コメディを総括して言いかえた「再結婚のコメディ」、結婚したにしろそうでないにしろ、いったんお互いの愛情を確かめあったカップルが、障害や誤解やカップルであることの退屈や倦怠を、奇天烈な事件を共有することによって、根本的に反省し、新たなカップルとして再誕生する物語である。

 

 フィガロには貸した金をもとに結婚を迫ってくる年増女があらわれるが、実の母親であったという嘘のような話で解決し、小姓であり、伯爵の逆鱗に触れて追い出される、女性歌手(クリスチーネ・シェーファー)が男として演じるケルビーノは、いかにもモーツァルト的な人物で、恋に恋するエロス的な存在で、性別などは単なる慣習でしかないかのように、女性が演じる男性が女装して、とめまぐるしく性差を無効化しながら、結婚を言祝いでいるかのようである。

 

 舞台にはもうひとり、奇妙な人物が登場し、レチタティーヴォの部分で、小さなシンセサイザーチェンバロ風にかき鳴らし、飲みかけのビール瓶を笛として用いたり、グラス・ハーモニカを演奏するユルグ・キエンバーガーもまた、あたかも天使のような役割を担っている。

 

 この「現代的な」演出では、結婚式のドレス店が舞台となっており、上手には紳士服が吊され、下手には女性用のドレスが展示されており、店の奥、つまり通常店主が居る場所が、伯爵の私室という構成であり、つねに結婚という祝祭的な場面から思いが離れないようにしているのが工夫であり、モーツァルトの音楽はスピンが効いてどの方角に向かうかわからない場面の急速なテンポを楽々と乗りこなしていてその点に関しては申し分ないのだが、惜しむらくはこの映像版、余りにカット割りが多すぎて、遙か昔、マイケル・ジャクソンがはじめて来日したとき、コンサートを中継したテレビのディレクターが、なにがかっこいいと思ったのか知らないが、とにかくめまぐるしいカット割りで、お前のカット割りはどうでもいいからマイケル・ジャクソンのダンスを見せろよ、と腹の底から怒りの塊がのど元にまでせり上がってきたことを思いだしてしまったが、そこまでひどくはないが、ちょっといらいらするのは確か。

 

シネマの手触り 5 イングマール・ベルイマン『ファニーとアレクサンドル』(1982年)

 

ファニーとアレクサンデル オリジナル版 HDマスター [DVD]

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  • 出版社/メーカー: IVC,Ltd.(VC)(D)
  • 発売日: 2010/11/26
  • メディア: DVD
 

 

脚本:インマール・ベルイマン

撮影:スヴェン・ニクヴィスト

音楽:ダニエル・ベル

出演:グン・ヴォールグレーン

   エヴァ・フレーリング

   アラン・エドクール

   ハッリエット・アンデルセン

   アンナ・ベルイマン

 この映画には5時間のTV版と劇場公開用の3時間の二つのヴァージョンがあり、ヨーロッパでは3時間のものが公開されたのだが、日本では神保町の岩波ホールで5時間版が公開された。岩波ホールは後期のベルイマンの作品をずっと公開し続けていで、より完全ものをという配慮から5時間版が1985年に公開されたのだろう。私は公開時に見て、それ以後WOWOWかなにかで見たとするならそれも5時間版だったはずで、ところがいま手元にあるのは劇場版の3時間のものでそれを再び見直した。なにぶん、5時間版を見たのが数十年前にさかのぼるので、二つのヴァージョンの比較をすることはできない。

 

 それにしても、いつでも記憶に残っている印象が、世界大戦以前のブルジョアという階層が、いまだ豊かな生活を送っていた時期の甘美な幼年時代ということに限られていて、中盤に父親が死に、母親が子供(アレクサンドルという兄とファニーという妹)たちを連れて、病的なまで権威的で、すべてに支配力を振るおうとする聖職者のもとに嫁いでいく場面がくると、そういえば、この映画にはこんな陰鬱な場面もあったのだな、とこと新しくびっくりする。『沈黙』、『仮面/ペルソナ』、『叫びとささやき』などとは異なり、カメラの動きが制限されておらず、美術がうつくしいので、中盤にある『沈黙』や『仮面/ペルソナ』的な息詰まるような場面を自然に忘れてしまうらしい。

 

 この映画はクリスマスから始まり、それこそロバート・アルトマンの群衆劇のように、着飾った者たちが続々と入れ替わり立ち替わり登場するので、TV版だとまた違うのかもしれないが、ほとんど人物が特定できない。ファニーとアレクサンドルの父親は、家族を中心にした劇団の運営を行っているのだが、映画の中盤近く、その父親が倒れて、はじめてその妻、つまりファニーとアレクサンドルの母親がはっきりするほどである。

 

 題名こそ『ファニーとアレクサンドル』となっているが、ファニーは5,6歳くらいか、幼くてほとんど言葉を発することもないので、10歳くらいのアレクサンドルが事実上の主人公だといっていい。彼は、額縁のついた彩色図画の上で、いろいろな絵を動かして物語を語るような、夢想的な少年である一方、宗教的なことについては反感を持っているらしく、最後には折檻に屈してしまうが、新しい父親のおためごかしの神の話などにはなんら心を動かされず、嘲笑的ですらある。しかし、本来は女性的な能力だと思われている、巫女的な力を備えていて、『叫びとささやき』と通底するテーマであるが、彼には死者が語りかけてくる。実際、死んだはずの父親に出会っている。

 

 新たな夫の高圧的で、権威主義的な面にようやく気がついたアレクサンドルたちの母親は、離婚を申し出るが、夫は承諾せず、あまつさえ子供の親権を取り上げると脅す。しかし、母親は子供が折檻されていることを知ると、子供たちだけ逃がし、自分は夫の元にとどまることを決意する。彼女は新しい夫の子供を既に妊娠している。無事に子供たちを逃がし、自分のためにつくった睡眠薬入りの飲み物を偶然夫が飲んでしまったことから、とっさに自分も逃げだすことを決意する。

 

 アレクサンドルたちはクローゼットのなかにはいり、人形や能面などの仮面があふれた古物商のうちにかくまわれることになる。夜、トイレに起きたアレクサンドルは、古物商を手伝っている人形遣いの男と話し、幾つもの錠で部屋に閉じ込められた男の兄弟に紹介され、死者と出会うアレクサンドルの能力についてなにか暗示的に語られるのだが、あるいはそれはアレクサンドルの夢であるのかもしれない。

 

 逃げだした聖職者の家では、寝たきりではあるが怪物的に肥大化した叔母がある種隠然たる支配力を握っており、彼女の火の不始末によって聖職者もろとも、すべてが焼けてしまう。

 

 クリスマスという賑やかな場面から始まったように、もとの家に戻ったファニーとアレクサンドルの母親が、新たに出産した子供をお披露目する場面がエピローグとなっている。一通りのお祭り騒ぎが過ぎたあとで、アレクサンドルは、焼け死んだはずの義父が、いつまでもおまえから離れはしないぞ、とおどかすのに出会うのだが、さして怖がる様子はない。

 

 祖母の膝枕で、実の父親に変わって母親が引き継ぐことになった劇団の次の公演演目であるストリンドベリの言葉、起こりえないことなどなく、すべてが可能である、時間と空間は存在しない、現実という薄っぺらい額縁には、想像力が新しい模様を紡ぎ上げるのだ、と祖母が読み上げる言葉を、アレクサンドルが既に知っているかのように聞いている姿で映画は終わる。

シネマの手触り 4 イングマール・ベルイマン『叫びとささやき』(1972年)

 

イングマール・ベルイマン 黄金期 Blu-ray BOX Part-3

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ベルイマン自伝

ベルイマン自伝

 

 

脚本:イングマール・ベルイマン

撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演:イングリッド・チューリン

   ハリエット・アンデルセン

   リヴ・ウルマン

   カリ・シルヴァン

 

 『仮面/ペルソナ』が二人の女性が手を重ねるというイメージからできあがったように、『叫びとささやき』は四人の白いドレスを着た女が赤い部屋のなかにいるという、ベルイマンにくりかえしよみがえってくるイメージをもとにつくられた。それゆえ、モノクロを使用することの多かったベルイマンがカラーにしている。

 

 四人の女性は三人姉妹、長女のカーリン(イングリッド・チューリン)、次女のアグネス(ハリエット・アンデルセン)、三女のマリア(リヴ・ウルマン)、そしてアグネスの召使のアンナ(カリ・シルヴァン)である。次女のアグネスは死の床についており、その死を看とりに姉妹たちが集まっており、死を迎え葬式を済ますと、それぞれが散り散りに去って行く。『叫びとささやき』という題名は、モーツァルトの四重奏曲のレビューで、ある音楽評論家が用いた表現をもらったものだという。『沈黙』や『仮面/ペルソナ』と同じく、室内楽的なドラマである。

 

 既にこの時期、ベルイマンは世界的な名声を手にしていたが、映画制作の資金集めや配給先に苦労したようで、初公開となるアメリカでは大手の配給先が、ひどい映画だと受け入れてくれず、結局、ホラー映画とポルノ映画が専門の小さな配給会社が引き受けてくれ、ニューヨークの映画館で公開された。皮肉なことに、この映画は凡百のホラー映画よりずっと恐ろしく、密閉された空間のなかで、各人が神経症的な密かな快楽から逃れられないという意味ではポルノ的である。

 

 次女のアグネスは映画の中盤であっけなく死んでしまう。そうした現在の時系列のなかに、各女性の顔のアップから過去の回想とも、あるいはそれぞれの本質的な部分を示すエピソードともつかぬものが挿入される。三女のマリアはナルシストであり、鏡のなかに映った自分の映像と戯れることに喜びを見いだし、男女の性的関係についても奔放である。一方、長女のカーリンは、性的に強力な抑圧下にあるのか、自傷傾向があるのか、割れたガラスで自らの性器を血だらけにしながら、夫を迎える。二人の姉妹の関係はもはや言葉を交わすことがないくらい冷え切っており、次女の死をきっかけにして仲直りするかに思えるのだが、最後には冷淡なよそよそしいものに戻っている。

 

 召使のアンナだけがアグネスのことを真に配慮しており、アンナのアップから始まるシーンは、新たな時系列を呼び込み、自閉的な姉妹の世界を無理矢理押し開こうとする。死んだはずのアグネスが姉妹を呼び寄せ、語りかけようとするのである。このエピソードのもとについては『ベルイマン自伝』でも触れられていて、『叫びとささやき』が自身の映画で何度か再現を試みた「死にきれない死者」の決定版だと述べている。十歳のとき、ベルイマン霊安室に閉じ込められたことがあったという。

 

 激しい好奇心が燃えあがってきて、私はじっとしていられなくなった。立ちあがると、何か抵抗しがたい力に動かされるかのように死体の置かれた部屋への足を運んでいた。しばらく前まで病院にいた少女が部屋の中央の木のテーブルの上に横たわっていた。私はシーツをめくった。彼女は全裸で、喉のあたりから恥骨まで絆創膏が貼ってあった。手を伸ばし、彼女の肩にそっと触れた。死体が冷たいことは聞いていたが、その少女の肌は冷たくはなかった。むしろ熱いほどだった。黒い乳首が突き出た、小さなたるんだ胸へと手をすべらせる。腹には黒い毛がはえ、彼女は息をしていた、いや、息をしてるわけじゃない、口が自然に開いたのか? まるい唇の奥から白い歯がむき出している。陰部が見えるように、ちょっと脇に寄る。それに触ろうとした――しかし、どうしてもできなかった。

 そのとき、半分閉じたまぶたの下から彼女が私を見ているのがわかった。頭の中ですべてのものがぐるぐるとまわり、時間は停止し、強い光が炸裂した。

 

 

 ベルイマンの人間的なもの、特に情緒的な人間関係に対する阻隔感、ある種、魔的な相貌がよくあらわされているエピソードである。「死にきれない死者」の呼びかけに姉妹たちは答えようとしない。叫びをあげるのは、耐えられない苦痛にあえぐアグネスであり、自ら性器にガラスの破片を突き立てるカーリンであり、死者に呼びかけられ、恐怖しかおぼえないマリアである。死者に対して慰藉の、心置きなく死ねるための鎮魂の言葉をささやくのは召使のアンナだけであり、人間関係の親密さが血縁関係に比例するものではないことをベルイマンの冷酷な眼が伝えている。

世界劇場 2 ヴェルディ『椿姫』

 

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  • 発売日: 2013/04/29
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椿姫 (新潮文庫)

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  • 作者:デュマ・フィス
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1950/12/06
  • メディア: 文庫
 

 

演出:リチャード・アイル

指揮:アントニオ・パッパーノ

ヴィオレッタ:ルネ・フレミング

アルフレード:ジョセフ・カレーヤ

ジョルジュ:トマス・ハンプトン

コヴェント・ガーデン王立歌劇場

 

 デュマ・フィスの『椿姫』を数十年前に読んだ。新潮文庫で、現在のものとは違うクリーム色の装丁もはっきりおぼえている。しかし、恋愛ものが苦手な私がこの種の本に手をだすにはなんらかの理由があったはずである。その理由がまったく思い出せない。内容もほとんどおぼえていなくて、悲恋に終わることくらいしか記憶にない。

 

 しかしまた、『椿姫』は舞台で見たこともある。1990年代だったと思うが、第三エロチカを退団した深浦加奈子が演出の松本修と組んで、MODEというユニットを組む前だったか後だったか、たしかMODEというユニット名がつく前にも何本か松本修と深浦加奈子は数回公演をしたように記憶しているのだが、とにかく『椿姫』を公演した。『椿姫』という題をそのまま使っていたかははなはだ疑問である。場所は青山円形劇場で、オペラでいえば、ヴィオレッタ役の深浦加奈子が、アルフレードを拒絶するときのまっすぐに伸びた腕と、松本修演出では当時かならずあったスキップで歩くといえばなんとなくわかってもらえるであろうアクセントのついた歩きが演目中、あるいは演目後の役者たちが舞台に集まるときなど必ずどこかに配されていて、このときは演目後であったはずで、鮮明におぼえている。調べればあるいはより正確なことがわかるのだろうが、こうした個人的な記憶については調べたくない。それに若くして亡くなってしまった深浦加奈子のことを思うと悲しくなる。

 

 マリア・カラスのCDでも『椿姫』は幾度か聞いた。だが、「世界劇場1」でも書いたように、映像をまったく見たことがないままに聞いているだけだったので、ほとんど器楽としての声を楽しんでいるだけだった。

 

 物語は単純で、快楽主義的で、自らのコケットリーを武器にして社交界の男どもを手玉にとって過ごしているヴィオレッタが田舎から出てきたアルフレードの求愛によって、はじめて心からの愛を知る。(ここまで第一幕)二人で暮らすようになったが、そこでアルフレードの父親のジョルジュがあらわれ、息子もヴィオレッタに対しては単なる遊び相手だと思い込み、老いた自分の身、家族のことなどを話して、息子を返してほしいと願う。拒みかねて、ヴィオレッタはアルフレートのもとを去る。捨てられたと思ったアルフレートは、怒りに耐えかねて、さる社交の場で、公衆の面前で彼女を侮辱する言動をとってしまう。(第二幕)かねてから兆候のあった病気が悪化したヴィオレッタは、孤独のうちに死を迎えている。いよいよ重篤になり、あと数時間の命だと宣告されたとき、誤解を解いたアルフレートとジョルジュが登場し、ヴィオレッタとアルフレートは互いの愛を確認し合い、ヴィオレッタは愛の絶頂のうちに息を引き取る。(第三幕)

 

 いかにも甘いセンチメンタルな話なのだが、『トスカ』と同じく、傑作と呼ぶにふさわしい。ヴィオレッタを演じたルネ・フレミングは、インタビューのなかで、ずっとやりたかった役だが、この役を演じきるには年齢を重ねることが重要だったと述べている。実際、ヴィオレッタとは、社交界で何年も過ごすことによって、コケットリーが生の様式にまでなっている女性であり、それゆえアルフレートの父親の疑念も、だまされたというアルフレートの怒りも、観客の我々に共有できるものとなり、愛の喜びも怒りも我々の感情に隙間なく注ぎ込まれる。そして、もっとも感動的なのは、死を目前に愛を再確認したヴィオレッタにおいても、コケティッシュな魅力が少しも衰えないことにある。

 

シネマの手触り 3 イングマール・ベルイマン『仮面/ペルソナ』(1966年)

 

 

 

イングマール・ベルイマン 黄金期 Blu-ray BOX Part-3

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脚本:イングマール・ベルイマン

撮影:スヴェン・ニクヴィスト

オンガク:ラーシュ・ヨハン・ワーレ

出演:ビビ・アンデショーン

   リヴ・ウルマン

   グンナール・ビョンストラント

 

 モノクロ映画である。いかにも実験映画的な極端に短いショットの積み重ねには、数字などが書き込まれたフィルムの断片、古いカトゥーンの断片、溶接される鉄片にまじって、勃起した男性器が挟まれ、装飾がまったくない真っ白な部屋のなかに少年がシーツにくるまっており、側転をしてシーツを巻き込んで本を読み出す。

 

 焼身自殺する人物のニュース映像らしきものが映り、舞台上にいるらしい女性の顔があらわれる。少年がいた空間と同じような、医療器具のまったくない真っ白な部屋のなかに女優は寝かせられている。担当する女医が言うには、身体的にも、精神的にもまったく健康だという。しかし、女優(リヴ・ウルマン)はまったく言葉を発しなくなっている。

 

 気分を変えるために女医の別荘である、海沿いの家でしばらく過ごすようにいわれ、付添として若い看護婦(ビビ・アンデショーン)が選ばれる。ほぼこの二人の顔の映画であり、背景さえほとんど映り込むことはない。女優が言葉を発しないので、看護婦が自分の恋愛の話などをしゃべることになる。ところが、あるとき、女優が女医宛に書いた手紙を盗み読むことによって、自分が観察対象でしかないことを知る。そこから看護婦の女優に対する感情に憎悪が入り交じるようになる。しかしそれは看護するという自分の職域を離れることによってひとりの女となることであり、同一化が始まり、実際、終盤では二人の顔が融合されて区別がつかなくなる。

 

 この映画を撮ったときには、ベルイマンは非常に体調が悪かったらしく、脚本らしい脚本も書けず、走り書きに過ぎないものと、二人の人間が手を重ねるという夢で見たイメージだけをもとに、撮り進めていったらしい。それだけにベルイマンの本性というものがもっともむきだしになった映画といえるかもしれない。

 

 実際、謎の多い映画である。冒頭の少年は何ものであるのか。彼が読み始めた本の中身が映画の主張部分に当たると見られないこともないが、少年が女性二人の自己同一性に関する濃密なドラマを読むことに自然なつながりがあるとも考えにくい。後半にごく短い間だけでてくる女優の夫が盲目らしく、看護婦のことを妻だと思い込み、ベットをともにしながら子供のことをくどくどと語るのをみると、あるいは少年は女優の子供であるかもしれないが、どちらにせよ明示的に記されるわけではない。更に、この映画には男性のナレーションがはいるのだが、語っているのはベルイマンなのであろうか、女優の夫なのであろうか。そして、最終的に、女優がなぜ言葉を発しなくなったのか最後まで明らかにされることはない。

 

 しかし、とりもなおさず、この映画が二人の女の顔の映画であることを思えば、ペルソナが徐々にはがれていき、空虚な生の顔があらわれてくるまでの映画だと見て取れる。ペルソナは幾つもの層から成り立っている。女優は言葉を発しないことによって、既に女優という役割を失っており、看護師は自分の仕事を最後に放棄する。役割の下には、社会的なペルソナというべきものがあり、家庭における位置などはまさしくそうしたものだが、夫を他人の手にゆだねることによって放棄される。母親という地位も放棄している。そして、人間にとってもっとも根本的だと思われる自己同一性も失われる。もっとも根本的だと思っていた自己同一性にも実は他者が関わることが重要なのであり、最終的には自己同一性を意味のあるものとする他者までが去って行く。そして最後に残されるのが、もはやペルソナではない能面のようなただの仮面なのである。

 

 

幸田露伴を展開する 13 「白芥子句考」

 

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

 

 

 師匠や仲間に迷惑をかけることを恐れたのか、保美に蟄居していた杜国にはほとんど句は残っていないが、杜国という号を捨て、野人として俳席に参加したこともあった。『笈の小文』にある芭蕉の一句「いざゝらば雪見にころぶところまで」を発句とする歌仙がある。

 

  いざゝらば雪見にころぶところまで

     硯の水のこほる朝起     左見

  同じ茶の焙じ足らぬは気香もなし  努風

     三十余年もとの貌なり    野人

  あの山のあかりは月の御出やら   支考

     蚊帳つる世話もやめた此頃  故江

 

 あるいは、師匠である芭蕉が杜国の家僕の手紙にさえ杜甫を引用するくらいだから、杜国という号自体も杜甫から来たものかもしれないし、唐の天宝三年、杜甫李白に送った詩の一節、

  野人対腥羶 蔬食常不飽

で、杜甫が自分を野人とたとえたことにならって、杜国は野人という号を用いたのかもしれない。

 

 この歌仙は『一葉集』に載っているもので、『一葉集』は正確には『俳諧一葉集』といって、文政十年に、古学庵仏兮・幻窓湖中が編集して刊行された、前編五冊、後編四冊からなる発句、紀行文、書簡までを合わせた最初の芭蕉全集ともいうべきものである。明治25年にはじめて活字化され、したがって、この文章の冒頭に引用した坪内逍遙宛ての書簡にあった地獄谷に露伴が携えていった『一葉集』は、江戸時代に刊行されたものであった。

 

 典拠が明らかではないものなども含まれており、この連句も実際に集まってなされたものか、書簡などのやりとりによって交わされたものなのか、明らかではないが、いずれにしろ、『笈の小文』の「いざゝらば雪見にころぶところまで」の句は、その前後の句の場所からすると、名古屋の熱田あたりでの句であったと推察される。

 

 その後、芭蕉は保美から出てきた杜国を伴って、伊賀、伊勢、大和、紀伊、攝津を旅する。芭蕉の紀行文で、同行しているのは杜国、越人、曽良で、いずれも「偽り」のない人物だった。一方、同じく名古屋の荷兮や、支考は師匠の芭蕉を都合よく利用した人物として露伴に容赦なく責められている。杜国の死の年に送られた書簡を引用して、露伴は、『奥の細道』の紀行では杜国を伴うつもりで、保美から誘いだそうとしていたのではないかと推察している。

 

 いずれにしろ、同年、杜国は我々には知るすべのない原因によって死んでしまった。露伴は全集版において65ページに及ぶ考証を次のように締めくくっている。

 

 杜国句あり、曰く

  馬はぬれ牛は夕日の村しぐれ

と。人生禍福の相、種々無量なり。諦観の一句、既に閑葛藤を画化し詩化するに似たり。善い哉。

 

 

 そして、何事にも懶い老いのなかにある自分にとっては、これ以上調べることにも倦んでしまったなどといいながら、「追記」と「追加」が更に付け加わっており、杜国が保美にあったのが、藩の命令によるのか、それとも罪を恐れて杜国自ら保美に身を隠したのかが、気になって仕方がないらしく、保美が天和元年から元禄三年までは土井周防守の領地であったことを確かめ、尾州領ではないことから、杜国が自ら身を隠したことは間違いないことをいい、古来の伝承や伝説の多くは「虚妄」であり、そのまま受け入れることはできないと戒めている。

 

シネマの手触り 2 イングマール・ベルイマン『沈黙』(1962年)

 

沈黙 [DVD]

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ベルイマン自伝

ベルイマン自伝

 

 

脚本:イングマール・ベルイマン

撮影:スヴェン・ニクヴィスト

出演・イングリッド・チューリン

グンネル・リンドフロム

ヨルゲン・リンドストロム

 

 『ベルイマン自伝』は、時系列に自分の生涯を振り返るものではなく、むしろペンの趣くままに幼い頃の思い出や映画や演劇と自分との関係を書き綴ったエッセイ集のようなものなのだが、家族や仕事仲間などとの人間関係についての記述が、なんというか、非情なまでの個人主義に貫かれていて、ちょっとあまり読んだたぐいのない自伝である。そして、ベルイマンのそうした側面が映画においていちばん顕著に表れているのが『沈黙』である。

 

 電車内にいる二人の女性と小さな男の子の姿をとらえることからこの映画は始まるが、登場人物もほぼこの三人に限られている。男の子が車窓から外を見ると、戦車の隊列が電車と平行するように並んでいる。最初はこの三人の関係はわからないが、次第に、女性二人が姉妹であり、男の子が妹の子供であることがわかってくる。三人は故郷に帰る途中で、足止めされ、ティモカという街のホテルにとどまる。

 

 脚本の段階では映画はこの『ティモカ』という題だったそうで、ベルイマンがたまたま見たエストニアの本の題名がティモカであり、その言葉を架空の都市の名前にしたものだったらしい。ティモカの本来の意味は、「処刑人にふさわしい」といったものだという。また、映画は時代も場所もわからない架空の空間でドラマが繰り広げられるが、当初は、第二次世界大戦が終りに近づいているドイツの街という設定であった。実際の映画では、新聞の文字などは中欧か東欧のようでもあるのだが、蒸れるような熱っぽい感じがむしろ南米のどこかを思わせる。さらに、制作の段階では、二人の姉妹のうちのどちらかを、映画界から遠ざかっていたグレタ・ガルボが演じるという噂が飛びまわったという。

 

 電車内の場面の後は、言葉が通じないティモカにあるホテルが舞台になる。そして、姉が生命に関わるような病にかかっていることがわかる。姉は翻訳などで世界的に著名な人物であり、妹はその「優秀な」姉にいつも監視され、道徳的にとがめられているような感覚を持っている。ホテルには姉妹と子供の三人と、近くの演芸場に出演している小人の一団、それに老いた客室係しかいない。

 

 無人のホテルの通路を探検する男の子は、キューブリックの『シャイニング』を連想させる。廊下にかかったルーベンスの絵画から背後を振り返ると、小人劇団の団長が紳士らしく、ステッキを軽くあげて挨拶する、異世界に入り込んでしまったかのような瞬間も味わわせてくれる。客席係の老人は、言葉が通じないせいもあって、最初は不気味な感じがするが、姉の病床をかいがいしく世話する親切なところも見せる。

 

 姉はほとんどベッドに寝たきりで、ときどき発作のようなものに苦しんでいるようだが、病にもかかわらず酒を手放すことができず、妹がすることに詮索の目を注ぎ続けている。妹はそんな姉の病状を気遣ってもいるが、それ以上に姉の支配をうっとうしく思っており、夜の街に出かけ、ホテルの部屋に男を引きずり込むのを子供に目撃される。ホテルで数日を過ごした後、妹は子供を連れ、姉を置き去りにしたまま旅立っていく。

 

 『沈黙』は『鏡の中にある如く』(1961年)、『冬の光』(1962年)と三本合わせて、室内劇三部作とも、神の不在三部作とも呼ばれているが、室内劇はともかく、『沈黙』を神の沈黙とし、神の不在と結びつけるのは実情に合っていない。この映画で恐ろしいのは、言葉の通じない街にいるのとまったく同じように、姉妹二人にコミュニケーションが成立せず、更にいえば、もっとも大事であるはずのことについてコミュニケーションをとろうとしない、少々のホラー映画では太刀打ちできないほどの苛烈さしか応酬することのできない不毛な人間関係にある。

 

 妹は自分の肉体を通して、見知らぬ街でも男と性交することによって、偏頗なコミュニケーションをとり、姉は姉で、異国の言葉を少しずつ知ることによって、ごく浅薄なコミュニケーションには成功するが、そうした偏ったコミュニケーション手段しかもたない二人は共感することができない。姉は妹の不品行を責めるが、自分の肉体に関する病気をなだめ、ならすことはできないし、妹は姉の優秀さというものがたかだか知識の表層に属するものであり、深層にある生の実相に触れることと優秀さとになんの関係もないことをわかろうとしない。

 

 小人劇団の部屋に紛れ込んでしまって、彼らとともに戯れる子供だけが姉妹の偏頗さを免れているが、二人の中に立ち仲介するだけの力はない。絶望は希望があってこそ成立することを思えば、ここには絶望すらなく、豪華で立派な造りでありながら、もはや泊るもののないホテルと同じように、置き去りにされた姉には徐々に生命の熱が奪い去られていく時間だけが残されている。