終わりよければーー北野武『座頭市』(2003年)

 

座頭市 <北野武監督作品> [DVD]

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脚本、北野武。原作、子母沢寛。撮影、柳島克己。音楽、鈴木慶一

 

 全作品をおぼえているわけではないが、勝新太郎の映画版の座頭市で特に印象深く記憶しているのは、初作の『座頭市物語』は例外とすると、12作目にあたる『座頭市地獄旅』(1965年)である。監督は1作目と同じ、三隅研次、脚本が、どういう機縁になるのか、伊藤大輔によって書かれている。

 

 どことなく、浪曲清水次郎長』の「石松三十石舟」を思わせる舟のなかではじまり、同乗した船客に馬鹿にされた座頭市が、シリーズ定番のいかさまばくちで金を巻き上げ、それを脇からじっと浪人が見ている。この浪人を成田三樹夫が演じているのだが、素晴らしい出来で、これは脚本の力も大いに預かっているのだが、通常、すぐその本性をあらわし、最後の決戦を待つだけという展開になってしまうのだが、成田三樹夫の浪人は、将棋だけが大好きで金や女にも無頓着な品性の持ち主であり、結局は敵もちであることがわかって、座頭市に斬られてしまうのだが、正直なところ、座頭市が従者に世話をさせて見つからない敵を求めていらいらしている若者の味方をする理由がさほどはっきりせず、しかもその若者の父親が殺された状況といっては、将棋上の諍いがもとで殺されたというだけしかない。そもそも座頭市とその浪人とは盤なしで、棋譜を言い合うことで将棋をするくらいの仲で、特に諍いがあるわけでもないのだ。

 

 加えて、同じ宿になる芸人の娘(岩崎加根子)は小さな子供を連れているのだが、年齢的に娘ということはないだろうが、妹なのか、事情があって引き取ったのか、芸人仲間の娘であるのかもはっきりしないし、その娘がなぜか中盤にいたるまで、座頭市に対して敵意のようなものをあらわにしているのもまた不思議で、とにかくどう転がっていくのかわからない不穏さに満ちた映画なのである。

 

 北野武の『座頭市』は、これは監督のせいではないが、映画において時代劇の伝統がいったん途絶えたことが、どれだけ壊滅的な影響を与えるのか、慄然とする思いで、特に本家の座頭市を見たあとだと、田舎の町並みがちゃちであるし、いっそう悪いことには、町の外側に当たる野っ原が開放感を与えてくれないのである。

 

 また、座頭市と関わる浪人と渡り芸人の姉妹(実は妹ではなく弟なのだが)の過去とが、挿入される。浪人(浅野忠信)はかつて、さる藩の師範係であったらしいが、旅の剣客に御前試合で敗れ、仕官をやめ、修行を積み、そのときの剣客に報復することを目的にしていたが、いざ見つけ出してみると、貧しい生活のなかで病み衰えて、勝負をできるような状態ではなくなっていた。いまでは重い病気を患っている妻(夏川結衣)とともに旅をし、用心棒や殺し屋のようなことをしている。

 

 渡り芸人の二人(橘大五郎大家由祐子)は、幼いときに豪商であった家が、強盗に押し入られ、たまたま二人で秘密にしていた場所にいたために、二人を除いた家族のもの、店のものが皆殺しにされたなかをのがれ、かすかな手がかりをもとに復讐を誓っている。

 

 こうした二つの物語が所々で挿入されるために、全体的にもっちゃりしていて、たぶん初期の北野武であったなら、どちらも捨ててしまったことだろう。さらに、浪人と座頭市が対決するとき、座頭市対策を考えていた浪人が幻想する主観的未来をあらわされるが、一瞬のうちに逆手もちを順手に持ちかえる座頭市によって切り倒される。その幻影なども、初期の北野映画からすれば、無駄なものでしかないだろう。

 

 意外だったのは、北野武が、アキ・カウリスマキのように自らのスタイルを崩すことなく撮り続けるタイプではなく、あるアイデアや工夫を生かすためには、自らのスタイルを捨てて顧みないところがあることで、この映画ではそれが下駄によるタップであることは明らかであり、余計な回り道も、タップの群舞による大団円で、どうでもよくなってしまうところがずるい。

 

舞台としてのそば屋――柳家小さん『時そば』

 

昭和の名人?古典落語名演集 五代目柳家小さん 十二
 

  『時そば』はもっとも早くおぼえた落語のひとつだ。ある男が、夜鷹そばを呼びとめ、そばを頼む。的に矢が当たっている模様の提灯をみては、これから手なぐさみに行くのだが、縁起がいい、注文してすぐ出てくるのは江戸っ子の気質がよくわかっている、使いまわしの箸ではなく割り箸を使っているのがいい、どんぶりもきれいだ、鰹節をおごっているから出汁の香りがいい、麺も細くて腰が強い、竹輪麩を使っているそば屋が多いがここは本物の竹輪だ、とのべつ幕なしに褒める。

 

 支払いになり、銭が細かいから手をだしてくれ、ひい、ふう、みい、よお、いつ、む、なな、はち。何刻だい? へえ、ここのつで。十、十一、十に、十三、十四、十五、十六と銭を払った。それをみていたのがちょっとぼおっとした男で、よくしゃべりやがる男だな、食い逃げかと思ったら銭まで払ってやがる、とわけのわかったようでわからぬ怒りを抱いている。

 

 ところで、あいつ妙なところで刻を聞きやがったな、とそこであの男が一文ごまかしたことにようやく気づいた。こいつは面白いと、その日は小銭がなかったので、次の日小銭をそろえてそば屋に向かった。

 

 前の男と同じように褒めようとするのだが、提灯に当たり矢の印はなく、注文したそばはなかなか出てこない、箸は使いまわしで先が湿っている、どんぶりの縁は欠けたところばかりで、出汁はお湯を足さなければ飲めないほどのしょっぱさ、麺はうどんくらいに太く、入っているのも竹輪麩でしかも探さないと見つからないほどの薄さときている。勘定で憂さを晴らせるかと、ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、七、八。なん刻だい? へえ四で、五、むう、七、八・・・・・・


 しかし、私は何度か聞くうちに、一文をごまかす世知辛さがあまり好きではなくなってしまった。お金の基準が正確にはわからないが、屋台のそばだから、いまの金額にしても三、四百円といったところだろう。二、三十円を小商いの商人からせしめたところで、後味が悪いばかりではないか、と思ったのである。


 だが、さらに幾度か聞くうちに、真似して失敗する男の方に眼が移りはじめた。時刻を確かめないようなところはいかにも間が抜けているが、与太郎ほど常識を顧みない確固たる芯をもっているわけではない。そもそも勘定をごまかすだけなら、まずいそばを無理して褒める必要などないのだ。さらにさかのぼっていえば、なにもひとがそばを食っている様子を最初から最後まで見ているのもどうかしている。


 つまり、この噺はそばの勘定をごまかす噺ではなく、落語家がそうであるように、そば屋の場景を語る噺なのである。最初の男が目につくものを次々に褒めあげていくのは、勘定をごまかすための下準備などではなく、ある種の(落語家をそこに含めてもいいが)生存のあり方である。失敗する男が無理をして前の男と同じように褒めようとするのは、自分では気づかぬうちに、こうした生存のあり方に魅了されてしまったためだと言える。こうした演者にとっては、そば屋もまた場景のひとつでしかないのだから、お代が足りませんよ、などどいって演者の呼吸を乱すことなど考えることもなく、はんちくな素人から余計にとればいいだけなのだ。

群衆ではないグループのためにーーバタイユ『有罪者』II

 

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

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有罪者―無神学大全

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 笑いを必要としない人間、エロティシズムや愛を必要としない人間、「移行するもの」を必要としない人間、孤立した人間は、自らを中心に全世界を反映することができるならば、まさしく世界を保有し、真理をもまた手にしていると考えることができるだろう。
 
 ここでは真理とは、孤立者を中心に置く、安定し、閉ざされた世界についての認識である。この閉ざされた世界では、孤立者の価値観によってすべての出来事がその重要性によって等級づけされ、その階層化された全体こそが真理であるから、いかなる出来事であろうが閉ざされた全体に影響を及ぼすことはない。すべては、いわば中心点からの距離によって位置づけられるからである。
 
   
    サン・ラザール駅に列車が入ってくる。私は列車の中にすわって、窓ガラスに顔を向けている。こんなことは、無辺際の宇宙の中の、取るにたらぬことでしかないと考える、そういう甘い考えを私は採らない。もし宇宙に完了した全体性という価値を与えようとするなら、そういうこともあり得よう。だが、もし、未完了のある量の宇宙しかないのなら、ひとつひとつの部分は全体に劣らぬ意味を持つのである。恍惚の中に、完了した宇宙という次元まで私を押し上げる真理を、「駅に入ってくる列車」から意味を剥奪するような真理をたずね求めることは、私には恥ずべきことに思われる。
             (ジョルジュ・バタイユ『有罪者』)

 

 
 世界を、中心点を持たない未完了のものだと考えることは、一見すると参照される単一の大きな意味(たとえば神)が見出されないゆえに、そこでは、日常の些細な出来事などは、まったく意味のないものであると感じられるかもしれない。
 
 逆に、孤立者の閉ざされた世界であるならば、サン・ラザール駅に列車が入ってくることは、取るに足らないことであるにせよ、階層の底辺に場所を与えられるだろう。だが、中心点を持たない世界においては、参照される意味という支えがないことで、あらゆる出来事は無意味に落ち込んでしまうのではないだろうか。
 
 中心点を持ち、完了した世界では、あらゆる出来事が中心との関わり如何によって意味を配分されている。つまり駅に列車が入ってくるということは、あらかじめ取るに足らない意味が与えられていて、現実に列車が入ってくること自体はその取るに足らない意味を確認することでしかない。あらゆる出来事はあらかじめ意味を与えられているために、収まるべき場所があり、既知のもので、どんな出来事であろうと完了した全体に本質的な影響を与えることはない。
 
 だが、中心点を持たない未完了の世界では、意味とは、すべてが連関している全体の中での一つの結節ではなく、むしろある特定の場所、ある特定の時間において生み出されるものである。どんな出来事も確定的な意味や位置があらかじめ与えられることはなく、出来事は未知のものであり得、全体に劣らぬ意味を生み出す可能性を持っている。
 
 すなわち、バタイユがここで言っているのは、どんな些細な出来事にも意味があるというのではない。それはまさしく中心点を持つ完了した世界の印であり、意味の配分が終わり、新しい出来事など存在しないことを示している。
 
 そうではなく、あらゆる出来事には全体を変えうる、それだけ重大な意味を持ちうる可能性の核がある。意味とは、配分され、固定された位階に位置づけられるものではなく、出来事に潜む核から引き出されるものとして捉えられねばならない。
 
 サン・ラザール駅に列車が入ってくることの意味そのものが問題なのではなく、出来事に意味を確認するだけの働きしか認めないのか、あるいは、与えられる意味を越え出て、新たな意味を形成する力の備わったものと捉えるかがここでは問われている。

秘するが花ーー柳家小さん『長短』

 

 気が長い短いとはよく言われることだが、あくまで相対的なものだけに、ある人物を指して気が長いあるいは短いと特定することは難しい。

 

 『長短』にはそれぞれ気の長さ短さを代表するような対照的な人物が登場するが、二人の人間が気の長短を本当の意味であらわしているのかどうか、はっきりしているわけではない。そもそも、長さを物差しで、重さを重量計で測るように、ここで、長短を測るのに正当なはかりが用いられているかどうかさえはっきりしないのだ。


 長さんと短七は、気が長い長さんに短い短七と、真反対なのに幼なじみで喧嘩さえしたことがない。長さんの気の長さといっては、相当なもので、訪問の挨拶で今日の天気に言い及ぶのに昨晩小便にいったことからはじめる。菓子をだすと、いつまでももぐもぐしていて、いっかな食べ終える気配がない。煙管をだして煙草を吸いだしたと思えば、のんでいるのかいないのかいつまでもぐずぐずしていて、見ている短七はいらいらしてしかたがない。

 

 煙草っていうのはこうして吸うんだと、煙管をひったくると何度も立て続けにのんでみせた。すると長さんは、おまえは気が短いくらいだからひとにものを教わるのはいやだろうな、怒りそうだな、と妙に思わせぶりなことをいいはじめる。そうなると気短な短七は気になってしょうがない。どうか教えてくれと、懇願するまでになる。

 

 おまえが煙草を吸っているとき、何服目かの火玉が煙草盆ではなく袂のなかにはいった、もしかすると取りだしたほうがいいんじゃないかな、ああ煙だけじゃなくて火がでてきた。おまえどうしてそういうことを早くいわないんだ、穴があいたじゃないか、それみねえ、そんなに怒るじゃねえか、だから教えねえほうがよかった。


 はたして、長さんは気の長い人物の、短七は気の短い人物の典型だといえるだろうか。最初に述べたように、長短は相対的であり、長さんは短七に比較して気が長い短いにすぎない、ということなのか。

 

 それだけでだとすると、この噺は、動作の俊敏さあるいは感情がどれだけ容易に表にあらわれるか、を描いたとなってしまう。感情がどれだけ直截的にあらわれるかは、内向性と外向性の違いをあらわしているかもしれないが、自ずからそれは気が長い短いとは別のことであろう。

 

 つまりは、この噺は、実際には相対的な相違をだしにして、二人の人間の相性のよさを語っているに過ぎないのだが、『替わり目』の夫婦と同じように、口に出して言うのも気恥ずかしいので、ある意味、計測、比較が可能な相違を表向きに、慎ましやかな大事なところは内に隠している。

 

 

エモーションのサスペンスーーアルフレッド・ヒッチコック『ダイヤルMを廻せ!』(1954年)

 

ダイヤルMを廻せ [DVD]

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原作・脚本、フレデリック・ノット。撮影、ロバート・バークス。音楽、ディミトリ・ティオムキン

 

 ヒッチコックの映画には、純粋な推理もの、探偵小説的なものはほとんどなく、あるいはこの作品が唯一といえるかもしれない。犯行手口が最初から明らかにされ、どこに破綻があらわれるかを楽しむ、ほとんど刑事コロンボ的な作品である。

 

 テニス・プレイヤーであったトニー(レイ・ミランド)と資産家であるマーゴ(グレイス・ケリー)の夫婦仲は、マーゴが推理小説作家であるマーク(ロバート・カミングス)と不倫をすることによって一挙に剣呑なものとなり、トニーはマーゴを殺す綿密な計画を練る。

 

 長年顔を合わせたこともない、大学のときから素行が悪く、刑務所にも入っていた同窓生を引きずり込み、金に困っている弱みにつけ込んで、殺させようというのである。これもコロンボ的だといえるが、時間や殺す方法まで決められていて、完全犯罪を目指し、恐ろしく几帳面なのである。

 

 ところが、マーゴも黙って静かに殺されるわけでもないので、もみ合いになった揚句、近くに置いてあったはさみで、殺そうとするものが逆に殺されてしまった。

 

 とっさに、トニーは、自分の浮気を脅されていた妻が、計画的にその男を殺したのだと筋書きを書き換えた。脅迫になるような種は現実にあり、マーゴは処刑を待つ身となる。

 

 『ロープ』や『裏窓』と同様、この映画もほぼ一室で物語が進行するが、それは芝居が原作だからである。映画化権を買い取ったヒッチコックは、ヒットしているものにはヒットするだけの理由があるのだから、変える必要はない、と原作者に脚本を任し、舞台を映画的なものにすることだけに専心した。

 

 倒叙ミステリーであるから、サスペンスには一見欠けるようなのだが、エモーショナルな部分を牽引するのは、追い詰められる犯人というよりは、三角関係でのマーゴの情の揺れ動きにある。それとともに、またそれとは関係なく、我々観客のエモーションもあちらこちらから引っ張られる。

 

 私自身に関していえば、最初は、上品で丁寧ではあるが、その実、状況を強引に支配しようとするトニーに反発をおぼえ、マーゴの不倫も仕方がないと思えるのだが、後半にいたり、トニーが失敗を重ねると、警部にまとわりついて、なかばあたってはいるのだが、処刑直前の彼女をどう救い出すのかまでは考えが及ばないマークがうざったくなる。最後の決め手が、トニーが用意した鍵が合わないというのも、露骨に性的な意味合いがして、相手になっているのがグレース・ケリーなだけに、とにかくエロチックである。

 

 ちなみに、グレース・ケリーはこの映画当時はまだ無名で、ヒッチコック映画への出演もはじめてだった。しかし、すぐヒッチコック一家と仲良くなり、演技については天性の才能があり、撮影が特に滞るようなことはなかったという。それだけに、このあと立て続けに2本、『裏窓』と『泥棒成金』をとってモナコ王妃になり、引退してしまった彼女に対しては、ヒッチコックはトニーやマークに勝るとも劣らない葛藤と喪失感をおぼえ、我々としても『北北西に進路を取れ』はグレース・ケリーで見たかったと思うのだが、この喪失がなければ、おそらく『めまい』が生まれることはなかったのだと思うと、複雑な気分になる。

2種類の笑いーーバタイユ『有罪者』

 

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

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群衆と権力〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

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群衆と権力〈下〉 (叢書・ウニベルシタス)

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 (私は出口裕弘訳を読み、引用している。新訳の方は見ていない。)

 

 バタイユが持ち出す笑いの諸例はベルグソンの引く例とはまったく異なるものである。ベルグソン有機的なものに機械的なものが張りついたとき、つまりもったいぶった人物が倒れるとき、そのとき彼の有機的な運動は、重力という物理法則に支配され、機械的になるとともに、笑いを生む。
 
 一方バタイユがもちだす笑いとは、幼児が母親の顔を見て笑うときの笑い、身体をくすぐられるときの笑い、思わぬ場所で知り合いに出会ったときに思わずこみ上げてくる笑いなどである。
 
 バタイユの笑いは、幼児の場合にしろ、知人との出会いやくすぐりの場合にしろ、他ならぬ彼あるいは彼女とともに笑いが笑われる。いずれも、笑いによる交感が強い結びつきを形成する。ベルグソンの笑いが、基本的には劇場をモデルにした笑いであり、観客としてあることが笑うことを許す状況を作りだすのと対照的である。
 
 関係や状況が笑いを許すのではなく、笑いこそが関係と状況を作り出す、あるいは既にある関係や状況を変容するのである。既にある関係を変えることなく成立する笑い、弱者に対する強者の優越感に由来する笑いなどは単にその関係を確認するための笑いであって、笑っているつもりの強者も関係によって笑わされているに過ぎない。
 
 そうした笑いは笑う者に対して完全に外在的であり、笑う者は笑うことによってなんら変容を被ることはない。そして笑う者が笑うことによって変容をこうむらないような笑いは、バタイユにとって笑いとは言えないものなのである。
 
 バタイユにとって笑いが「要ともなる問題」であるのは、笑いが人間の孤立を揺るがし、「ひとりの人間から他の人間へと移行しつつ、はじめて生起する」(『有罪者』)真理や世界をあらわにするからである。
 
     
   ある、比較的孤立した体系が、孤立した体系と目されるものがあるとしよう。何らかの突発的な状況が、私に、その体系が、ある別の全体(定義しうるものにせよ、できぬものにせよ)に結ばれるのに気づかせる。この変化は、第一に、それが突然のものであること、第二には、いかなる禁止、抑制もはたらかないこと、この二つの条件があれば、私を笑わせることができる。
                     (ジョルジュ・バタイユ『有罪者』)

 

 
 母親の顔を見て子供が笑うのは、子供が母親を自分と同じ様な存在だと認めるからである。この認知によって母親という体系は子供の体系と結びつく。「子供を支配していたものが、子供の領域に落ちこむ」のである。
 
 笑いは優越感や支配と被支配の関係を確認するものではなく、そうした関係が交感によって一挙に崩れ去ることにある。知人との突然の出会いが笑いをもたらすのは、見知らぬ匿名の通行人のうちに身近な知人の顔を認めるという突然の結びつきである。また、冗談が笑いを誘うのは孤立した体系、価値観を冗談が別の体系に移行させることができるからである。
 
 くすぐりによる笑いでは、皮膚の直接的な接触によって個人という孤立した体系が崩れ去る。エリアス・カネッティは人間の根源的な恐怖を接触恐怖、特に未知のものとの接触においている。
 
 未知のものを既知のものに変えようとする、そして、接触の可能性をできうる限り遠ざけようとする努力、つまりは未知のものとの接触の恐怖が権力を生み出す原動力である。接触に対する恐怖は根深いもので、「人間がいったん自分のもつ諸性質の統一体としての人格の領域を確立するや、もはや決してその人間から離れぬものである。」(『群集と権力』)
 
 接触は他の何にも増して「統一体としての人格」を脅かし、崩壊させるものであるためにより強烈な交感を招き寄せるだろう。交感の強度は抵抗力が高ければ高いほど強くなるものだからである。
 

欲望と飢え――立川談志『短命』

 

立川談志ひとり会 落語CD全集 第14集「短命」「小猿七之助」「羽団扇」
 

  長屋はほとんどなくなり、人情の機微も感じられなくなった、へっついや十徳、行灯や提灯などの道具も使われない、着物は着られなくなり、髪は結われなくなった、町人や侍や、さらに細かくいえば、職人と商人、町娘と御殿女中などがそれぞれ用いる言葉の違いも認められなくなった。こうした理由から落語は時代にそぐわないと言われることが多かった。現代的な要素を取り入れる試みも多くおこなわれたが、とりあえずそのことは措いておこう。


 いまあげたような外面的なこと以外に、内面的にも大きな隔たりがある。そのことを感じさせるのが、たとえばこの『短命』のような噺である。伊勢屋の婿養子が死んだ。これで三人目である。八五郎がそのことを隠居に告げた。どの婿とも仲はよかったが、しばらくすると婿の顔色が悪くなり、そのうちに死んでしまったのだという。

 

 どうしてこう次々と死んでしまうのだろう、と首をひねる八五郎に、隠居はそれは嫁の器量がよすぎるのだろう、と答える。確かに、伊勢谷の娘は美人の評判が高い。だが、それが短命とどう結びつくのか八五郎には合点がいかない。

 

 伊勢屋ほどの大店だ、店は番頭に任せっきり、夫婦には特にすることはない、二人っきりで奥にいれば、ご飯を手渡すようなとき、手と手が触れあうこともあるだろう、そりゃ短命だ、隠居は幾度も繰り返してわからせようとするのだが、八五郎には納得がいかない。器量がいいんだろ、手と手が触れあったら、それだけではすまないだろう、と言われて、ようやく鈍感な八五郎にも呑みこめた。なるほどそりゃ短命だ。家に戻った八五郎は女房に頼みこんでご飯をよそってもらう。手と手が触れる、女房の顔を改めて見つめる八五郎、おっかあ安心しねえ、おれは長生きだ。


 話としてはよくわかる、だからこそ八五郎の鈍さを我々は笑う。しかし、吉原狂いならともかく、いかに美人とはいえ、ひとりの女と毎日交わって飽きないということなどあり得るのだろうか。いや、それ以上に、命を削るまで突き動かされる性欲がなかなか想像しにくくなっているのではないだろうか。

 

 「接して漏らさず」と言ったのは『養生訓』の貝原益軒で、この言葉のもとには道教がある。道教は自然がそれこそ自然に保っているバランスを理想とした。「接して漏らさず」といっても、射精をしなければいいというものではない。たとえば、『抱朴子』には「人はすべて陰陽の交を絶つべからず、久しければ、元気を壅閼ぐの病を致さん、故に幽閉の怨女、流浪の曠夫は、多病にして壽あらざるなり。然れども情に任せ意を肆にすれば、又た年命を損ず、唯だそれ節を得て、之を宣ばさば可なり。」とある。つまり、多淫も度の過ぎた禁欲も避けるべきなのだ。


 いまのほうがこの道教的な理想により近づいているというわけではない。命を縮めるといえば、性欲よりもアルコールやドラッグへの依存のほうが現在ではより切実なものとなっているだろう。それらは欲望というよりはむしろ精神的身体的な飢えといったほうが近い。そのために禁欲のように精神的な努力によって抑えこむことができない。『短命』に見られるような過剰な欲望とは似て非なるものなのだ。落語は欲望が過剰になり得る世界があることを教えてくれる。