貧乏くらべ――古今亭志ん生・桂文楽『穴どろ』
江戸時代、十両を盗むと獄門に処せられた。それを考えると、大晦日に三両の金が工面できないことを散々女房にののしられ、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえとまで言われた夫に同情したくなる。
特にあてがあるわけでもない彼がふらふらと歩いていると、木戸が開いている大店にでくわした。注意をしてやろうと声をかけるが、返事がない。なにか祝いごとがあったらしく、酒や料理が散らかっている。朝からなにも食べていない男は、これ幸いと箸をつけたが、そこによちよち歩きの男の子がでてくる。
その子をあやしているうちに、子供もろとも穴蔵に落ちてしまう。当時、大店では火事による全焼を防ぐために、穴蔵をつくることが一般的だったのだ。男があげた声に店の者たちがようやく気づき、泥棒だ、と大騒ぎになる。
祝いの席から縄付きがでるのもはばかれるので、捕まえて放してやろうと、鳶の頭を呼びにやるが、あいにく留守で、代わりに若い者がきた。この男、威勢はよかったが、どんな泥棒がなかにいるのかわかったものではないので、いざとなると尻込みする。店の主人も、子供が一緒だとわかったものだから、悠長に構えてもいられない、礼金が一両、二両とあがり、三両になったとき、穴の底でそれを聞いた男、なに、三両、三両なら俺のほうからあがっていく。
文楽も志ん生もこの噺をした。『びんぼう自慢』という著作があるように、一般的に、貧乏を骨身に達するまで経験し、『富久』や『お直し』のようにナンセンスにまで達するような欲望の表現において優れているのは志ん生であると言われる。川戸貞吉によると、八代目桂文楽は「泣きの文楽」と呼ばれていたという。『穴どろ』でも、最後の場面、三両なら俺のほうからあがっていく、というところでは涙声になった。喉から手が出るほど欲しい三両が手に入るのだから、むしろ喜んであがっていくべきではないか、という疑問を本人にぶつけたが、結局、その疑問に答えてくれることはなく、演じ方が変わることもなかったという。
ところが、意外にもというべきか、あるいは苦楽を共にしてきた志ん生夫婦のエピソードなどを知り、リアリティを追求する文楽の芸風を考えると当然なのかもしれないが、夫婦喧嘩で家を追いだされる最初の場面は、文楽のほうがずっと残酷で仮借がない。志ん生の夫婦喧嘩は、『火焰太鼓』や『替わり目』などと同じように言葉こそ激しいが他愛のないものであり、最後の最後、どうにもならなくなったときには、許してもらえそうな感じがする。また、当てもなく歩きまわる場面でも、もしひょんなことから金が手に入ったらという、志ん生独特の妄想を巡らせる余裕があるのだ。
一方、文楽の喧嘩では、妻の言葉は臓腑をえぐるような、逃げ場を許さない体のものであり、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ、というのは、言葉の綾ではなく、最後通告として響いている。それゆえ、通常とは異なり、貧乏が志ん生よりも文楽の方がずっとのっぴきならない状況として浮かびあがる。女房の言葉に唯々諾々と従い、木戸が開いているのを家の者に教えてあげようとしたり、子供の面倒を見たりするこの男が本質的に善良であることは明らかだ。そんな人間が思いがけない状態に陥り、さらに思いがけないことに喉から手が出るほど欲しい三両のことを耳にするのであるから、泣きたくもなろうではないか。
不可侵で空白な空間ーードニ・ディドロ『運命論者ジャックとその主人』
- 作者: ドニディドロ,Denis Diderot,王寺賢太,田口卓臣
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- 作者: ミランクンデラ,Milan Kundera,近藤真理
- 出版社/メーカー: みすず書房
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(ディドロの『運命論者弱とその主人』は、私は筑摩書房の世界文学大系に収められた尾場瀬卓三の訳で読んだので、引用文など多少の相違があるかもしれません。)
劇作家としてのディドロは無視しうる存在であるし、ぎりぎり、この偉大な百科全書派の試論群を知らなくても、哲学史はなんとか把握出来る。しかし、『運命論者ジャック』を無視すれば、小説の歴史は理解不能にして不完全なものになると主張せざるをえない。この小説が、もっぱらディドロの作品の一つとして扱われ、小説の歴史全体のなかで研究されていないのは不運なことだ。この作品の真価は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』、フィールディングの『トム・ジョーンズ』、ジョイスの『ユリシーズ』、ゴンブロヴィッチの『フェルディドゥールケ』といった著作と比較することによって初めて認識できるものなのだ。(一つの変奏曲への序文 『ジャックとその主人』)
<遊びの呼びかけ>--ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』とドニ・ディドロの『運命論者ジャック』は、現在のところ私には、十八世紀のもっとも偉大な二つの小説作品、壮大な遊びとして構想された二つの小説のように思われます。この二つの作品は、空前絶後の、軽妙さの二大頂点です。これ以後の小説は、ほんとうらしさの要請やら、写実主義的背景やら、厳密な年代学やらで自分を縛ってしまいました。この二大傑作に含まれていたさまざまの可能性は捨て去られてしまいましたが、この二つの傑作は、今日、私たちが知っているものとは別の小説の展開(そうです、ヨーロッパの小説のもうひとつの歴史を想像してみることもできるのです)を作り出すことができたのです。(『小説の精神』)
「主人 それじゃおまえは恋をしたことがあるんだな?ジャック 恋をしたことがあるかですって!主人 それも鉄砲の一発でさ。ジャック 一発で。主人 そんな話はかつてしたことがなかったぞ。ジャック しなかったでしょうな。主人 なぜだ?ジャック そりゃ、これより早くでも、これよりあとでもありえなかったからでしょう。主人 その恋の話を承る時機到来ってわけか?ジャック 分るもんですか?主人 いつでも、まったくことのはずみで、始まるんだ・・・・・・。」
それが、度重なる逸脱、妨害によって遂に語り終えられることがない、ということにつきる。「ことのはずみで」始まった話らしく、逸脱と妨害もまたいかにもことのはずみであって、話しているうちに別の話に入り込んでしまう、別の人間が割り込んで別の話を始める、話を中断せずにおれない事件が起こる、
「読者諸君、ごらんのとおり、いま話は佳境に入っているが、ぼくはジャックを主人から引き離して、彼ら両人をそれぞれ、私の気に向いたいろんな偶発事件にめぐり合うことにして、ジャックの恋物語を諸君に一年でも、二年でも、三年でも待たせることができる。」
その三つはみな、精神的活動から、本来その活動の展開によってはじめて失われるにいたったところの快感を再獲得する方法を示しているという点で一致する。というのは、われわれがこのようにして到達しようと努めている上機嫌は、そもそもわれわれが心的作業をごく僅かな消費でまかなうのをつねとした時代の気分にほかならず、われわれが滑稽なものと知らず、機知もできず、ユーモアも用いることなくして生活に幸福を感じえた子供の時代の気分にほかならないのである。(『機知-その無意識との関係-』)
ディドロは、小説の歴史のなかで、それ以前には決して見られなかった新しい空間を創造している。それは、「装飾というものをいっさい排除した舞台」である。登場人物はどこから来たのか。分らない。登場人物の名前は?そんなことは読者の知ったことじゃない。登場人物の年齢は?ノーコメント。ディドロは、その登場人物たちが、現実に、ある一定の時間と場所に存在する可能性をわれわれに信じさせるような要素は何も提供しない。世界の小説史のなかで、『運命論者ジャック』は、現実主義的な幻想性と、いわゆる心理小説と呼ばれる小説の美学を、もっともラジカルに拒絶した作品なのだ。(『ジャックとその主人』)
主人 しかし、お前の論法でゆくと、罪なんてものはなくなっちまい、罪を犯しても悔悟しないことになる。ジャック いま旦那さまのおっしゃってることは、一度ならずあっしの頭をくちゃくちゃにしました。しかしそうしたことがあったにもかかわらず、われにもあらず、たえずあっしの念頭にうかぶのは、隊長の「この世でわれわれの身に起こることは、いいことにしろ、わるいことにしろ、すべて前世の因縁だ」という言葉でした。旦那さま、あなたはこの因縁を消す何らかの手をご存じですか?あっしが自分でないことができますか?自分であって、自分とはちがったふうに振舞うことができますか?自分であって他人であることができますか?それに、あっしがこの世に生まれて以来、いま申しあげたことが真実でない瞬間が、いっときだってありましたか?すきなだけごたくをお並べなさいまし。旦那さまの理屈は、たぶん結構なものでしょう。しかしあっしのなかにか、あるいは前世にか、あっしが旦那さまの理屈はなってない理屈だと思うということが書きこまれてるんでさ。しようがないじゃありませんか?主人 おれはあることを考えているんだ。それは、お前の恩人は前世の因縁で決められていたからコキュになったのか、それとも、お前が恩人をコキュにするから、前世の因縁がそうなっていたのか、ということだ。ジャック その両方が並んで書いてあったんでしょうね。全部いっときに書かれたんです。それは少しずつひろげてみる大きな巻物みたいなものでして・・・・・・。
人生の日曜日ーージャック・タチ『ぼくの伯父さんの休暇』(1953年、1978年)
哲学との交わりは生活の日曜日とみなされるべきである。普通の市民生活のなかで、人間が有限な現実のなかへ没頭して{いる}外面的生活の平日の仕事、必要に迫られての諸関心事――と、人間がこの仕事をやめて、目を地上から天へ向け、彼の本質の永遠性、神性を意識する日曜日、この両者に時間が分けられて{いる}というのはもっともすばらしい制度の一つである。人間は週を通じて日曜日のためにはたらくのであり、平日の労働のために日曜日をもっているのではない。そういうわけで哲学は意識――目的それ自体――であり、そしてあらゆる目的は哲学のためにあるのである。(真下信一・宮本十蔵訳)
トポロジー的身体――『あたま山』
実はこの噺を落語として聞いてことがあるかどうかはっきりしない。談志百席は半分以上は聞いているのだが、このCDは聞いていない。先日古今亭志ん生の『庚申侍』を聞いていたら、まくらで、もちろん手早くではあるが、そっくりそのままこの噺を語っていた。私がもっている志ん生のCDは録音時日や場所の記述がまったくなく、いまCDで販売されている『庚申侍』が同じ音源かどうかわからないので、談志のものをあげておく。
しかし、落語の噺としては相当古くから私にはなじみのある噺なので、なんらかの形で聞いたことはあるのだろう。あるいは、絵本や昔話などのなかで読んだのかもしれない。
武藤禎夫編『江戸小咄事典』によれば、『あたま山』のもとになっているのは安永二年の『口拍子』にある小咄だという。
先に『あたま山』の筋をいうと、けちん坊がもったいないからとサクランボの種まで飲み込んでしまう。すると頭のてっぺんに桜の木が育ち、満開の桜の花が咲く。花見客が大勢訪れ、どんちゃん騒ぎやら喧嘩やらうるさくて仕方がない。そこで桜の木を引っこ抜いてしまった。ところがそこにできた穴に水がたまり、池となり魚が棲むようになる。今度は釣り客が集まり、船を出すわ網を打つわで、これまたうるさくてしょうがない。そこでこの男、世をはかなんで自分の頭の池に身を投げてしまった。
小咄の方はこうである。神田にお玉が池があるが、実はあたまの池である。昔、この辺りに棲んでいた男のあたまに池ができて、鮒や金魚が棲むようになる。珍しいといって遠近から群衆が集るようになった。息子は外聞も悪いし、見物の来ないようにしたいから、山の手からあたまの池を拝見に参りました、という人に向かい、せっかくですが、父は世上の沙汰がいやになり、夜前、あたまの池へ身を投げました。
お玉が池は、かつての神田松枝町(昭和四十年代の初めまでこの町名があった)、いまの岩本町にある地名で、神田駅の東、秋葉原駅の南に位置する。江戸時代の初めには実際にお玉が池という池があったというが、三代将軍家光の寛永年間には既にその存在が不明となっているという。それ以前は桜ヶ池と呼ばれていたその池の池畔の茶屋にお玉という看板娘がいたが、二人の男に言い寄られ、どちらとも決めかねるままに池に身を投じてしまった。それからお玉が池と呼ばれるようになったという。
つまり、この小咄は、「お玉が池」と「あたまの池」というごくくだらない駄洒落の発想から生まれたのだ。また、この小咄には『徒然草』第四十五段からのヒントもあるという。
良覚という怒りっぽい僧正があった。坊の近くに大きな榎木があったので、「榎木の僧正」と呼ばれた。そのあだ名は面白くないと、榎木を切り倒してしまった。だが、切り株が残っていたので今度は「きりくひの僧正」と呼ばれる。ますます腹が立つので切り株を掘り起こして捨ててしまった。その跡に今度な大きな堀ができたので「堀池僧正」と呼ばれるようになった、という話である。
より落語に近い類話もある。安永二年の『坐笑産』にある「梅の木」では、道楽者と信心深い二人の浪人が隣り合わせに住んでおり、信心深い男の頭に見事な梅が咲き乱れる。多くの見物人が訪れ、敷物代で大いに儲かる。それを嫉んだ隣りの浪人が、夜中忍び込むと梅の木を根こぎにして盗んでしまう。盗まれた浪人はがっかりするが、やがてその穴が池となり金魚が湧きでるようになる。隣りの浪人、再び忍び入り、煙草のヤニを投じ金魚をすべて殺してしまう。浪人はいよいよがっかりして、家主のおかみさんに頭の池に身を投げることを告げる。
自分の頭にどうやって身を投げられるものか、とおかみさんに言われた浪人は、「イヤその儀も工夫致しおいた。お世話ながら煙管筒を仕立てるやうに、足から引つくり返して下され」と答える。自分の頭の池に身を投げる方法が説かれているのがいちばん大きい相違である。
煙管筒とは、その名の通り煙管を入れる筒で、通常刻み煙草を入れるための袋と対になっている。煙管筒は木製のものが多いが、布製や革製の場合、細長く縫い合わせた袋状のものを最後にひっくり返すことになる。それを「煙管筒を仕立てるやうに」と表現したのだろう。
川戸貞吉の『落語大百科』によれば、典型的な小咄である『あたま山』を一席の落語として演じたのは、八代目林家正蔵だけだったそうだ。正蔵はサゲの自分の頭に身を投げる方法について、紐を縫うとき、最初は針目を上にして、それから物差しをあてがってひっくり返す、それと同じで、頭の池にめくり込めばみんな入っちゃう、と説明したという。
アカデミー賞短編アニメーション部門にもノミネートされた山村浩二の『頭山』(2002年)では、釣り客や水遊びをする者たちの騒ぎに耐えきれなくなった男が夜のなかをさまよっていると、池に行き当たり、その池を覗き込むことがあたま池を覗き込むことでもあって、合わせ鏡の間に身を置いたように、無限の反復に捕らわれるというような解釈になっていた。
しかし、この解釈は私には疑問だった。『あたま山』の最後の面白さとは、トポロジーの面白さであって、無限の生みだす面白さとは自ずから性質が異なっていると思われるからである。
ある婚約の風景
- 作者: セーレン・キルケゴール,中里巧,飯島宗享
- 出版社/メーカー: 未知谷
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(新刊で手に入るということで、この本をあげましたが、私が読み、参照しているのは、白水社刊の浅井真男訳のものです。)
ある若い娘が婚約を破棄したが、その理由は、彼女と相手が互いにぴったりしないということだった。相手の男は彼女に分別を取り戻させようとして、自分がいかに彼女を愛しているかを断言した。そこで娘は答えた、私たちがお互いにぴったりしていて、ほんとうに同感というものが存在するとしたら、あなたは、私たちがお互いにぴったりしていないことを悟ることでしょう。それとも私たちがお互いにぴったりしていないのならば、あなたは、私たちがお互いにぴったりしていないことを悟るでしょう、と。
土地の霊――桂文楽『愛宕山』』
総合的な噺家と分析的な噺家がいる。もちろん両方を兼ね備えていなければ一流の噺家とはいえないので、程度の問題に過ぎない。両者の相違がもっとも明瞭にあらわれるのは登場人物の扱いだろう。
分析的な噺家が各人物の性格や行動を解釈し、あとはそれぞれの行動原理の赴くところにまかせるとしたら、総合的な噺家は、各人物の性格や行動をうまく組合わせて一枚の織物となるように緊密に織りこんでいく。
古今亭志ん生や立川談志が分析的な噺家だとすると、桂文楽や古今亭志ん朝は総合的な噺家だと言える。そして総合的な噺家と親和性が高いのが、『愛宕山』や『つるつる』のような噺だろう。
幇間ものとひとくくりに言っても、『鰻の幇間』のように騙しあいが楽しいものもあれば、『富久』のようにひとりの幇間の生き方が惻々と伝わってくるものもある。『愛宕山』や『つるつる』は内容だけを読めば弱い者いじめでしかない。旦那と幇間の性格と行動をうまく織物として織りこまねば、いじめ的ないやみや弱い立場のルサンチマンなどがつい浮かびあがってしまうのである。
旦那のお供で京都の愛宕山に登ることになった幇間の一八、抜けだそうとしても監視役の繁八がついて逃げようにも逃げられない。ようやく旦那たちに追いついて休憩となった。
そこに土器投げの的があり、旦那は器用に的に当てる。陶器の盃を宙を滑らすように投げるのである。一八も投げてみるがまったく当らない。上手い人になると軽い塩煎餅で当てるらしい、今日は逆に重たいこれで試してみようと、旦那は小判を取りだし、三十枚すべてを投げてしまった。
あの小判はどうなるんです、と訊くと、それは拾った者のものさ、という答え。一八は茶店で傘を借り、広げて谷の底に飛び降りようとする。足がすくんで飛べないでいるところを、シャレに背中を押してやれよ、と旦那が言うから繁八がどんと押して、落ちていったがなんとか無事だった。
三十枚みんなありましたよー、と一八、みんなやるよー、どうして上がるー、と言われた一八、そこまで考えてはいなかった。欲張りー、狼に食われて死んじまえー、と罵声を浴びて大いに慌てて、絹の羽織、着物、長襦袢を裂き始めた。それで縄をこしらえ、縄の先に石を結び、それを長い竹の先に引っかけて手許に引きよせ、撓った力を利用して、地を足でとんと蹴り、ヒラリと戻ってきた。偉い奴だな、一八、生涯贔屓にしてやるぞ、金はどうした。ああ、忘れてきた。
川戸貞吉の『落語大百科』によると、本来これは上方の噺であり、三代目の三遊亭円馬によって東京に伝えられ、その円馬から教わったのが文楽だという。「この噺には無理がある。その無理をお客に感付かれたらお終いだよ」と円馬は文楽に言ったそうだ。谷底からヒラリと舞い戻るところなどが無理な部分というわけだろう。
ところで、幸田露伴の『魔法修行者』によれば、室町後期の武将細川政元は晩年、魔法修行に凝って、終いには「空中へ飛上つたり空中へ立つたりし、喜怒も常人とは異り、分らぬことなど言ふ折りもあつた。空中へ上るのは西洋の魔法使もする事で、それだけ永い間修行したのだから、其位の事は出来たことと見て置かう」と露伴は述べている。この細川政元が幼いときから尊崇していたのがこの愛宕山であり、多少身が軽くなるくらいのことは土地の霊が許してくれるに違いない。
若旦那生成の場――桂文楽『明烏』
その完成度に呼応するかのようにレパートリーの少ない桂文楽だが、そのなかでも文楽の精髄とも言える噺は主人公となるものにしたがって三つに分類できる。すなわち、盲人(『心眼』や『景清』)、幇間(『つるつる』『愛宕山』『鰻の幇間』など)、若旦那(『船徳』『よかちょろ』など)の噺である。
これら三者に共通することはなんだろうか。主体的に状況をつくりあげていくというよりは、受動的に状況に対応していくことにある。盲人は身体的なハンディキャップにより噺のなかでは願をかける位のことしかできない。幇間は、もちろん、自分が主導権を握るよりは旦那の言うことに即応していくことが求められる。若旦那もまたその未経験から、状況を把握することができない。『船徳』の若旦那は自分から船頭になることを申し出るが、当然のことながら船の動きをまったく掌握できない。
『明烏』の若旦那もまたそうであって、いい年をして本ばかり読んでいる倅の時次郎を心配した父親が、町内の不良二人に遊びに連れてってくれるよう頼む。二人は浅草観音の裏にあるお稲荷さんにおこもりに行こう、と若旦那を誘いだす。吉原に着くと、さすがに未経験の若旦那でもそこがどういう場所かわかり、わめくやら泣くやらの騒ぎとなった。
「帰れるものなら帰ってごらんなさい。三人できた者がひとりだけ帰ろうとすると、怪しい奴だと大門のところで止められる規則になっている」と二人は若旦那を脅しつけて、嫌がっているのも構わず部屋に放り込む。ところが、朝になると、案に相違して遊び人の二人の方は振られ、若旦那の方は相方となった浦里と一緒にまだ蒲団に入っていて、浦里が離してくれないとのろける。バカバカしくなった二人が先に帰ろうとすると、「帰れるものなら帰ってごらんなさい、大門で止められる」。
『明烏』の若旦那が『船徳』や『よかちょろ』の若旦那とまったく異なるのは、『明烏』の若旦那が『船徳』の、『よかちょろ』の若旦那になることはあっても、その逆はあり得ないことにある。つまり、『明烏』は若旦那がまさしく誕生する噺なのだ。
若旦那というはっきりとした型があらわれるのは、放蕩息子という性格が加わることによる。もちろん、若旦那が恋わずらいにかかるような噺もあるが、それらの場合、若旦那は無性格な背景であることが多く、たいていはその恋を成就させようとする周囲のドタバタが中心になる。
若旦那は家によって庇護されながら、どうすればその安楽を手放さずにすむかに腐心する。いつまでも跡継ぎという立場にあることこそが安楽であり、成長や変化に徹底的に抗することに悪知恵を働かせるのが若旦那である。一晩にして女に籠絡され、浦里が離してくれないと、二人の不良の大人をからかうところなどは、既にして時次郎が若旦那という立場、型を自覚し、ほくそ笑んでいるのが感じられる。
若旦那を演じるのに長けた噺家が、桂文楽や古今亭志ん朝といった良い意味でも悪い意味でも落語の世界を毀そうとしなかった人であったことが、若旦那の意味を別の側面から照射することになろう。