ビターも大事ーー花田清輝『大衆のエネルギー』(1957年)
荷風・淳・安吾の系列は、わたしに、シェークスピアの芝居に登場する道化の三つの型――辛辣な道化、悪賢い道化、愚鈍な道化を連想させる。中橋一夫の『道化の宿命』によれば、シェークスピアの描いた道化のうち、つねに人びとの笑いに身をさらしているほんものの阿呆である愚鈍な道化は、一歩前進すると、一見、馬鹿のようにみえながら、じつは腹のなかで人びとをせせら笑っている偽阿呆の悪賢い道化となり、さらにいま一歩前進すると、その偽阿呆に輪をかけた、ふれるものことごとくを笑殺する、いささか凄みを帯びた辛辣な道化となるということだが――しかし、案外、道化の進化は、人眼を掠めて、それとはまったく逆のコースをたどってきたのかもしれないのである。たとえば、荷風の『花火』における思わせぶりなプロテストが、淳の『曽呂利咄』における手のこんだ風刺に変り、最後に安吾の滑稽小説のたぐいにおける痴呆的な笑いと化した、とみればみれないこともないのではないか。もっとも、それは、進化ではなく、退化だといって反対するひとがあるかもしれない。しかし、平野謙のいうように、戯作者に韜晦がつきものである以上、ともすれば反俗の旗幟を高くかかげたがる荷風が愚鈍であり、通俗を標榜しながら、じつは反俗以外のなにものでもない淳が悪賢く、通俗一本槍の安吾が最も辛辣だということは、いまここであらためてことわるまでもなく、自明の事実ではあるまいか。
シミュラクラへの扉ーー井伏鱒二『白毛』(昭和23年)
私は釣りには6~7度行ったことがあり、ほとんど自慢以外のなにものでもないが、一匹も魚を釣ったことがない。しかもいまでは不思議なことに思えるが、当時は町の片隅に釣り堀があるのが珍しいことではなく、私の家の近くにも釣り堀があり、そこにもいったし、湖でも釣ったし、磯釣りもしたし、さらには船に乗って海に出ての釣りまでしたのだが、どの場面においても一匹も釣ったことはないばかりか、沖釣りの最後には船の底に引っかかった針を思い切り引いたことによって、竿を折ってしまった。
開高健によると、釣りには気の長い人間のほうが向いているといわれるが、俗説であって、瞬間瞬間を刻み、釣れるか釣れないかでとらえる釣りには気が短い人間のほうが向いているという。わざわざ釣りをするために世界をめぐったほどの人が言うのだから、それなりの経験的根拠はあるのだろう。
実際、私は特に海などへ行くと、釣りをする時間がもったいないと感じてしまう。ぼーっとしたり、磯遊びをすることのほうがずっと楽しいのだ。
井伏鱒二は開高健にとっては、文学的先達であるとともに、釣りにおいても敬愛すべき先輩であった。この短編で扱われているのは、渓流釣りで、開高健といえば海やアマゾンのような大河でばかり釣りをしていた印象があるが、剣呑な山道をたどりながら、スポットを探して歩く渓流釣りもしたかどうか、さほど愛読者であるわけではない私には即座に思いだすことはできない。どうでもいいようなものだが、そういえば私も、川だけは釣りの経験がない。
そういうわけで、借りた竿で釣るばかりで、自分の道具をもったことさえないのだが、この短編は最近髪の毛に交じってきた白髪をてぐすに比較するところから始まっている。てぐすというのは、本来、カイコと同じような蛾の繭からとれる糸のことをいう。本編のなかでも触れられているが、いまのような化学繊維が使われる前は、馬のしっぽの毛なども使われたもので、それは桂文楽の落語『馬のす』やさらに詳しいことは幸田露伴の『幻談』にもあり、要するに、比喩としてではなく、自分の髪の毛を釣り糸にすることが、実感としてあり得た。
「私」は四川の隣村に疎開している。四川は広島県の尾道の東隣にある町であるが、「私」が四川のどちら側にいるかは特に記されていない。戦争が終わり、疎開先から東京に戻る予定が立ったので、隣村の四川の渓流にあった祠を見ておこうと思い立つ。三十年ほど前に覗いて、それ以後、幾度となく釣りに出かけることはあったのだが、特に祠には立ち寄ることはなかった。
さて、実際にいってみると、稲荷様か薬師様をまつったものらしいが、思いの外小さく、また常夜灯として使われていたと記憶していた焼きものも真っ黒に汚れたものでしかなかった。
がっかりするほど期待もしていなかったところで、帰ろうとする途中、二人連れの若者に声をかけられた。水が飲めるような井戸がないか、というのだ。聞いていたよりも釣り場がずっと遠く、また川の両側にはずっと木が植えられてあって、竿が思ったように振れないらしい。「私」は特に用事もないので、二人を案内がてら、井戸へ案内し、一緒に弁当を食べた。
二人はウイスキーをもってきており、しばらくすると、酔っ払った様子だ。そして口論を始めた。どうやら一人が駅のホームにてぐすを忘れたらしい。ここで、てぐすというのは、釣り道具のひとつとしていわれているらしく、長く、海釣りのような場合にはリールに巻きつけられもする糸は道糸であり、その先端の部分、つまり、針や浮きや場合によっては疑似餌などをつけるごく短い箇所をいうようなのである。ホームに忘れたという男は、事実、そのほかの道具は揃っていると主張する。
「私」は山一つ向こうの自宅に戻れば、都合をつけることができること、村の子供などは木綿糸を使っていること、馬のしっぽの毛でも代用できるが、抜くには手加減が重要であることなどをなかば二人のなかを取りなすようにしゃべるのだが、「こいつ、べらべらしゃべる男だよ。うるさいやつだ。ーーおい、おっちゃん、よくべらべらしゃべるな。」という言葉とともに一瞬にして状況が変わり、「私」は男たちに羽交い締めにされると、てぐすにするために髪の毛をむしられるのである。
これは幻想的な世界が広がることでもなければ、超現実的なイメージが飛翔することでもない。最近髪の毛に白いものが混じり始めたことと同じ水位で、あえて言えばリアリスティックに描かれる。しかし、世の中なにがあってもおかしくないとはいっても、おそらくはこの出来事は現実に起きたわけではあるまい。つまり、幻想ともイメージとも異なる現実のシミュラクラを精巧に現出させているのである。
珍饌会――古今亭志ん朝『酢豆腐』
- アーティスト: 古今亭志ん朝
- 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
- 発売日: 2002/06/19
- メディア: CD
- クリック: 20回
- この商品を含むブログ (7件) を見る
幸田露伴に『珍饌会』(明治三十七年)という作品がある。全集だと戯曲に分類されているが、上演を目的に書かれたものではなく、会話と独り言の話し言葉だけで書かれている。なんに関しても一家言あるような一癖ある趣味人たちが互いに珍料理を持ち寄る会を開くことになる。皆の鼻を明かしたいものだから、それぞれ物知りの老人に聞きにいったり図書館に通ったりして準備に大わらわである。
まむし酒、鰊漬け、三平汁、鶏肉の刺身、フカヒレくらいはいまでも食べられているが、猿の唇の煮ものや、フランス帰りの男がエスカルゴを持っていこうとするが、カタツムリがまったく見つからず、ナメクジで代用する段になると相当おかしな雰囲気となり、赤蟇蛙、黒蝦蟇、青蛙を生きたまま入れて煮る鍋物で頂点に達する。とどめを刺すように、鼠の胎児に蜜を吸わせたものを生のままで食べるという一品が出るが、ひとりを残して皆が逃げ去ったあとで、しん粉細工であったことが明かされる。
いかにも露伴らしいのは、彼らは単に食べれば食べられるような下手物を持ち寄っているのではなく、それぞれに典拠が求められていることにある。猿の唇の煮ものは『呂氏春秋』の本味の段に、蛙の鍋は唐の尉遅枢の『南楚新聞』に、鼠の胎児は『遊仙窟』の作者が書いた『朝野僉載』に基づいているという。『酢豆腐』はこれに似た噺である。
町内の連中が集って飲もうということになったが、酒はあるが肴がない。大勢なので数があって安いものはなんだろう、とがやがや言い合っていると、ひとりが糠味噌桶をかき回してみれば思わぬ古漬けが残っているに違いない、それを細かく刻めばどうか、と名案を出した。ところが誰も臭いが残るのを嫌がって桶に手を入れようとしない。
たまたま通りかかった半公を褒め殺しにし、取りださせようとしたが、香々を買う金を出すから勘弁してくれ、といくらかの金を置いていった。次に通りかかったのがキザで知ったかぶりの若旦那、彼に与太郎が腐らせてしまった豆腐を食べさせようということになった。さんざんにおだて上げ、貰いものだといって腐った豆腐を出す。若旦那、それはなんてえものなんです、拙の考えでは酢豆腐でげしょう、若旦那、たんとおあがんなさい、いやぁ、酢豆腐は一口にかぎる。
気にくわない若旦那をやり込める、ある種陰険ないじめのように演じているのを幾度か聞いたが、その解釈は違うと思う。まず、あくまで食べる方向に進んでいくのは若旦那であり、なんら強制されているわけではない。
こんな食べものなど知らないし食べたくない、と拒否するなど若旦那の矜持が許さない。珍しいものですな、酢豆腐でげしょう、と言いながら食べることは、追いつめられた末の行為というよりは未知の現実をねじ伏せていく行為とみるべきなのだ。露伴の典拠の代わりにあるのは、アドリブによる言い逃れだが、底にあるものは共通しており、矜持とやせ我慢としてあらわれる負けん気なのであり、若旦那の行為は町内の単なる飲み会を珍饌会という晴れの場に変えている。
あがく
「怖い夢でも見たの」
「いや、なんでもない」
そう答えたが、シャツはびっしょり濡れていた。
「きのう、待ちくたびれたんじゃない」
洗面台の前に行くと、自分は一個のクルミのなかに全世界を収めてみせると豪語したソフィストがいたことを思いだした。すると、幼いころ、万力のように挟み込んで、クルミの殻を割る小さな人形があったことを思いだした。頭の部分をぐるぐる回して力を加えていくのである。そのくせ、クルミを実際に割り、なかの実を食べた記憶は一切なかった。
「年甲斐もなく、走ったんでしょう」
ぐにゃぐにゃとした不明瞭な音を出しておく。
「コーヒーがはいってるわよ」
ひとり暮らしのときには考えられないことだが、食卓の上には青磁の花瓶があり、ダリアが活けてあった。
「ダリアって菊の一種だっけ」
「そうよ」
「じゃあ、食べられるわけか」
といっても、パセリなら苦みがあるだけまだしも、菊の仲間なんか間違って口に入れないかぎり、食べやしない。
高層階というほど高いところに住んでいるわけではないが、窓から海が見えるのが自慢で、見たところは近いのだが、歩いて行くとなると20分ほどかかり、しかも、おそるべし、潮の力は侮りがたく、ベランダに出したものは金属であればみるみるうちに錆び、洗濯物は思いなしか乾きが遅い。
「目玉焼きでもつける」
「いや、パンだけでいい」
「それで、どんな夢みたの」
「吉田くんが来るよ」
「いつ」
「昼前には来るんじゃないかな」
「食事はどうする」
「駅弁祭りをやってるらしくて、買ってきてくれるみたいだ」
ゆっくりコーヒーを飲んでいると、彼女は仕事を始めた。古い着物を買い集めては、ほどいて袋物につくりかえている。
しばらくするとチャイムが鳴った。
「はせ参じました」
吉田くんが紙袋を下げて立っている。広げられた布の間を縫って奥に入ってもらった。
「横川の釜飯です」
彼女が歓声を上げた。普段好き嫌いが多く、椎茸も食べないのだが、釜飯のときだけは食べる。
「しかし、どうしてあんずがはいってるんでしょうな」
釜飯の唯一の難点は、ずっしりと重い土の釜をなかなか捨てられないことで、とっておいたところで小物入れくらいにしかならないが、中に入れたものがとりにくいことおびただしい。
お茶を飲んで打ち合わせを始める。
「宮城野に萩でも見に行きますか」
いくつか候補を絞り、吉田くんを駅まで見送りがてら散歩に出る。
「柴田さんはご存じですよね、断捨離を始めたらしいんですがね、捨てたはずのものが数日すると元の場所に戻っているそうです」
「怪談かい」
「違いますよ、結局必要だったってことですよ」
帰ると、食器棚に釜飯の容器が伏せられている。
広がった布のなかで、軽い夕食を済ませた。
「ところで、どんな夢をみたの」
「柴田って知ってるだろう、断捨離を始めたけど、捨てたはずのものが数日すると元に戻っているそうだ」
「教訓は」
「教訓ねえ、あがいてみても損はないってことかな」
不自由と芸――桂文楽『心眼』
八代目桂文楽のレパートリーが偏波とさえ言えるものだったことはよく知られている。『落語大百科』によると、『明烏』ばかりを注文された文楽は、それによっていくつ噺を損したかわからないと言っていたそうである。そして、晩年まで完成させようと心を砕いていたのが『三味線栗毛』だという。
『三味線栗毛』は、大名の末っ子とその出入りの按摩が、治療中の座興の話に、自分が大名になったらお前を検校にしてやろうという約束を交わす。検校はなるだけで数千両の金がかかる盲人としては最高の地位である。末っ子が大名になる可能性などほとんどないことは両人ともわかっているのだ。ところが、ふとしたきっかけでかの人物は大名の位に就くことになる。病で臥せっていた按摩はこれを聞いて夢中で駆けつけ、約束通り検校にしてもらう。
名人といわれた円喬が得意としていた噺で、按摩がお出入りの若様が大名になったと家主に知らされるところが聞かせどころだったという。まあ、感動的な話ではあるのだろうが、晩年まで執念を燃やすような噺だろうかと疑問に感じるのも確かである。
しかし、このことは文楽の十八番のひとつの柱をなす盲人もの全体に言えるのではないだろうか。他の落語家の十八番には遠慮をして手を出さないという不文律が寄席の世界にはあるようだが、若旦那や幇間の噺はともかく、『景清』や『心眼』などについてはその魅力が他の落語家にはピンとこなかったというのが本当のところではないだろうか。
按摩の梅喜は盲人であることをさんざん弟に馬鹿にされて悔しくなって、薬師様に願をかける。願いが通じたらしく、満願の日に目が見えるようになった。早速女房のお竹に知らせようと自宅に向かうが、途中で上総屋の旦那に出会う。
そして、女房のお竹が気立ては良いが、器量の悪さも相当だと聞かされてがっかりする。女房と違って男前の梅喜は、彼のことを前から憎からず思っていた芸者の小春と料理屋に上がり、夫婦約束までしてしまう。そこに乗り込んできたのがお竹で、梅喜につかみかかる。苦しさに気がついてみると夢だった。しっかり信心してね、と励ますお竹に、俺はもう信心はやめた、盲人ていうのは妙なものだねえ、寝ているうちだけよく見える。
はじめの頃文楽は、恨みつらみを言ってお竹が池に身を投げるところまで演じていたという。さすがに後味の悪さを感じて変更したのかもしれないが、どちらにしても勘所のよくわからない噺である。
最後が夢という落ちになっているので、お竹が器量が悪いのか、梅喜が男前なのかも本当のところはわからないようになっているが、どちらだったにしても、梅喜の目が見えないというハンディキャップを再確認することにしかならない。最後まで盲目であることが座頭市のようにプラスに転化することはない。心眼といっても、単にものが見えるだけの目とさほど変わることはないのである。
なぜ文楽はこれほど盲人の噺にこだわったのだろうか。あえて推測してみると、文楽の十八番の中心になっていたのは既に言ったように若旦那、幇間、そして盲人の噺である。若旦那と幇間に共通しているのは、どちらもある意味で不自由を背負っていることだ。
『明烏』などの場合は自分の未経験が拘束力となって自由を奪っているし、その他の噺では親がいるために気兼ねなく遊ぶことができない。幇間は、もちろん、旦那の気に染まぬことはできず、「しくじる」可能性があるという緊張感のなかで常に自分の不自由を感じているだろう。
こうした不自由がもっとも端的な形で、身体的に表現されたのが盲人だと言えないだろうか。そして文楽はこの不自由を表現することにこそ芸の妙味を感じていたのではないか。弱い立場にあるものが強者へと逆転するダイナミズムなどにはほとんど感興をおぼえず、不自由を不自由であるからこそ芸の対象として好んだように思えるのである。
『水滸伝』と幸田露伴といくつかの版本と
武松は、片足で虎の眉間、目の中めがけ、懸命に蹴り立てれば、虎はほえ立てつつ、体の下から、泥を二山かきあげて、穴を一つこしらえてしまいました。武松は虎の口を泥の穴の中へつっこみます。虎は武松にしてやられ、もうすっかり気合が抜けています。そこを武松、左手でしっかり頭の皮をひっつかみ、そっと右手を抜いて、鉄槌ほどもある拳骨をふりあげ、日頃の手並みにものいわせて、めったやたらになぐりつけました。五、六十ぺんもなぐるうちに、かの虎、目の中、口の中、鼻の中、耳の中から、どっと鮮血をほとばしらせます。まこと武松は、日頃の武勇の限りをつくし、胸中の武芸にものいわせて、あっという間に大虎をぐんなりと叩きのめして、錦の布袋をひろげたようにしてしまいました。
武松隻脚を把つて大蟲面門上眼晴裏を望み只顧乱踢す。那の大蟲咆哮し起来す、身底下を把つて両堆の黄泥を爬起し、一箇の土坑を做了す。武松那の大蟲の嘴を把つて直に黄泥坑裏に按下し去る、那の大蟲武松に奈何し得られ、些の気力没し。武松左手を把つて緊々地に頂花皮を揪住し、右手を偸出し来り、鉄槌般の大小の拳頭を提起し、平生の力を尽し、只顧に打つ、打得て五七十拳、那の大蟲眼裏、口裏、鼻子裏、耳朶裏より都て鮮血を迸出し来る。武松平昔の神威を尽し、胸中の武芸仗り、半歇児にして大蟲を把つて打つて一堆と做す、却て一箇の錦布袋を攩着するに似たり。
水滸伝は聖嘆の評のほかの本は、今は殆ど手に入れ難いほど稀有なものになつてゐて、李卓吾評と云伝へられたり、鐘伯敬評と云はれたりしている本は、寓目してゐる人も少い、隨つて水滸伝と云へば直に聖嘆の名を思ひ出すやうになつてゐて、聖嘆を水滸伝の忠僕の如く思つてゐる人も有り、又近頃の支那の人などは、何でも古に反対して新しいことを言ひたい心から、聖嘆を大批評家などと揚げてゐる者もある。しかしそれは飛んでも無い事で、聖嘆は水滸伝を腰斬にして、百二十回有つたものを七十回で打切つて、それを辻褄を好い程に合せて、これが古本である、普通の俗本は蛇足を添へたものだなぞと、勝手なことを云つたもので、本来の水滸伝から云へば、けしからぬ不埒なことをしたものである。忠僕どころでは無い、欺罔横暴、何とも云ひやうの無い不埒な奴である。又聖嘆の批評といふのは、如何にも微細に入つた批評のやうであるが、実は自分の勝手に本書の精神も情懐も何も関はずに、自分の言ひたい三昧をならべたもので、一向本来の意味合も気分も関はぬどころか却つて反対の方向へ無理やりに漕ぎつけたものである。もちろん原書を半分に截断して澄ましてゐる程に人を食つた男であるから、其位の事は何でも無いのである。であるから、聖嘆を良い批評家だと思つたり、聖嘆本で水滸伝を論じたりなんぞしてゐるのは、余りおめでたい談で、イヤハヤ情無いことであるのだ。けれども聖嘆は口も八丁手も八丁で、兎に角に世間のお坊ッちやん達を瞞着し得ただけの技倆は持合せてゐたのだから、感心な小僧には相違ない。聖嘆の遣り口は、他人の酒を飲み肴をあらして、そして自分の太平楽を喋り立てたのであるから、割の宜い仕事をしたのである。(「金聖嘆」『露伴全集第十五巻』)
先づ梁山泊豪傑は一百八人とありますが、此の人々の顔触を見わたして、其の人となりを考へますと、一寸おもしろく出来てゐます。宋江は総頭領ですが、これは小吏の出身で、一向に大した材能も有りませんが、人の頭たるべき人の代表のやうに描かれて居ります。武術も少しは出来るので孔明孔亮二人には先生格で有りまするが、其孔明も孔亮もまことに弱いからして、武行者には撲り倒され、呼延灼には生擒にされたりします、宋江の弱さも推測されます。智恵はといふと余り智恵も無く、短見ですから、助けずとも宜い女を助けて、其為に自分も自分の友の花栄も困難したりなどします。併し宋江は謙虚にして人に下り、常に功を衆兄弟に帰して、飽まで自己を没して居り、兄弟に難儀があれば身を挺してこれを助け救はんとします。都べて自分のが勇を揮ひ智を逞しくするのは、槍つかひ、棒つかひの分際、策士説客の流で、人の上たるには適しませぬ、力は衆の力を使ふより大なるは無く、智は衆の智を使ふより大なるは有りません、自分は何一ツ出来ずとも衆を致し士を招くの道を能くすればそれが本当の人に長たる者です。で、宋江は然様いふ人に描けてゐます。廬俊義は余の百六人を一ト睨みといふ人で、意気の人に描けてゐます。扨呉用は軍師として描いてありますが、三国志で云はゞ孔明のやうな軍師型の人物を代表させてあります。公孫勝は魔法使とのみではありません、歴代の史を読んで御覧なさい、支那では真命の天子起る時は必ず異人が有つて之を祐けることが常です、で、宋江を助ける然様いふ俗ばなれした人に出来てゐます。関勝、林沖、秦明、呼延灼其他多くの勇将は武人をあらはして居り、柴進李応は貴と富とをあらはして居ります。魯智深は禅僧、武松は行者、此等は其最後のところに至つてそれらしくなるところが、其人の本来有るところの地と思はせます。戴宗等の牢獄官はいづれも牢獄官くさく、三阮、二張、李俊などは如何にも水上の人です。李逵は馬鹿でひどい奴、石秀は聡明でひどい奴、解珍、解宝は猟師気質、史進は坊ちやん気質で良い人、燕青は恐ろしい怜悧で洒落者、陳達だの王英だのといふ手合は真に山賊でもするほかに能は無く、時遷は小賊、白勝は小博打打、かういふ人々に至るまで、皆それ/″\に何等かを代表してゐるので、詳しく言へば楊志は名家の落ぶれ、流石に昔ゆかしき人柄ですし石勇は気ばかり強くて能の無い男、意気はすさまじくて天下の人を草鞋の下の泥だと思つてゐるところは偉いが兎角そんな事をいふ者は余り沸つた事も出来さぬが世の実際である。(同前)
私が卓吾先生に従うこと、姿形を真似て、心を委ねる、卓吾先生の他にはいない。先生の言葉でなければ言わず、先生が読んだものでなければ読まない。狂っているとも病気とも言われるかもしれないが、我々が忘れられても卓吾先生がいたことは忘れられることはない。先生が亡くなってその名はますます尊敬され、教えはますます広まり、書物はますます広まった。僅かな片言も留めて発すれば、その珍しさは美しい草のようであり、厳かなことは天地が傾くほどである。ああ、まことに盛んなことではあるが、不朽であるものもその吉凶を判断できる。先生の文を優れたものとする十人のうち七人、その人間性を優れたものとするもの十人のうちの三人、その胸中を叩けば、みな卓吾先生の実像をもっていない。私が呉に遊んでいたとき、陳無異使君を訪問し、袁無涯氏と会うことができた。挨拶も終わらぬうちに先生のことを問いかけてきた。私淑している誠意が眉に溢れていた。その胸中にほとんど卓吾老先生がいるようであった。それを縁にしばしば立ち寄っては語り合った。語っていると話は卓吾老先生のことになり、卓吾老先生が残した言葉を求めることに努め、卓吾老先生が校閲した書物を求める努力も大変なものだった。無涯氏は狂っているのか病気なのか。私は自分の荷物を探り、卓吾先生が校閲した忠義水滸伝、及び楊升庵集の二書をまとめてだした。無涯の喜びようは至宝を受けたようで、それを世に公にすることを願った。私は、どちらを先にすべきか問うた。無涯は、水滸にして忠義、忠義にして水滸とは、自らを知り自らを罪とする卓吾の春秋に近いものだろう、水滸伝を先にすべきだといった。ああ、卓吾先生でなければ水滸伝の精神を引きだせなかったが、無涯でなければ卓吾先生の精神を引きだせなかった、私が卓吾先生に仕えた期間は最も長いが、無涯が卓吾先生の教えを最も深く得たといえる、私は無涯に対して恥ずかしい思いだが、とはいえ、無涯も私がいなければ、誰が無涯の精神を引きだしたろう、だとすれば私も卓吾先生には背くことなく、無涯もまた私のこの遊歴に背くことはなかったというわけだと私は笑っていった。そして顔を見合わせて笑い、茶をともにすすり、卓吾先生の忠義水滸伝に付する文をとって、声を揃えて読んだ。川の急流は我々に答えるようで、私は無涯を忘れ、無涯も私を忘れ、卓吾先生だけがそこにはあった。楚人鳳里楊定見、船上にて書す。
愛する
細川政元は仙術に夢中だった。
政元は武将の子に生まれ、そして必ずしも戦いが嫌いではなかったが、戦いを中心とする生活にうんざりしてしまった。 戦いを片手間にすることはできない。敵方を全滅できれば話は簡単だ。ところが、相手にも親族がおり、忠臣がおり、さらに面倒なことには機を見るに敏なものがいる。倒しても倒してもどこからか敵は湧いてでて、つまりは生涯をかけなければならない、解決のできない問題として後生に残さねばならない、そんなことを考えると、闘争心よりもけうとさが勝るのである。
京都の管領をつとめた際などは、いまなお残る『源氏物語』の余香をかすかながらも感じて、黄金時代が終わったことを感じないではおれなかった。肉体同士の衝突に終始する戦場よりも、魑魅魍魎が跋扈する殿上人の生活に郷愁をおぼえた。
とはいえ、政元には大きな欠落があった。そもそも『源氏物語』を成り立たせている色恋沙汰が彼にはまったく理解できなかった。したがって、彼にはその物語群が、登場人物のいない世界像をあらわしたものに過ぎなかった。恋情や嫉妬などの感情が力をもち、研ぎすまされて平凡な我々の日常生活を切り裂いて、物の怪を招来するのではなく、元来物の怪が先住する世界にたまたま人間というものが入り込み、おっちょこちょいにも自分たちの感情がこの世界を動かすと誤解しているような世界である。
もっとも武将たるもの、物語などを読むことは忌避されていたから、そんなことを語る相手もいなかったし、読んだことさえ秘密で、特に印象に残った部分は筐底の奥にしまい込んでいたが、それ以外は密かに処分した。
たまに会うこともある坊主などにそれとなく遠回しに聞いてみることもあったが、あまりに遠回しに過ぎるのか、あるいは彼らには経典のことしか頭にないのか、煩悩をいい、極楽浄土や地獄のことを語るばかりで、どれだけ言葉で飾り立てようと、こことは別の次元にある世界の話など、軽侮の念を引き起こすものでしかなく、話をしようとする気さえ失せてしまうのが常だった。
だが、政元は愚かではなかったので、同僚には方々で美しい女がいると聞くや、ひきさらってきては手慰みにし、後宮のようなものをあつらえているものがおり、配下の者たちが酒席で女と戯れたり、あるいは夫婦間での睦まじい仲を冷やかされたりするのを見るにつけ、色恋が彼らの大きな原動力になっていることは認めざるを得なかった。女を抱くため、妻と再会することを動機に戦っているものが予想外に多かった。むろん、功名心や忠義心といったものもないではないが、その結果としてもたらされるものを考えてみると、一族の繁栄であったり、安泰だということになれば、そこには家族があり、情の問題が絡まってくる。
政元はつくづく、自分がこの情から隔てられているのを感じた。美しい女を見て抱きたいと思うことはあったし、肉親に対してある種の感じをもつことはあった。しかし、いずれにしてもそれは隣の間に起こる気配であり、たとえ追いかけて、間仕切りを越えて隣に移ったとしても、それはすでにまた隣に移っている。
政元ほどの地位にいると、当然のごとく跡継ぎを求められるから、好き嫌いでことが解決するわけはない。肉体的な欠陥があるわけではないのでなおさらのことである。
しかし、物心ついたころから、出所もはっきりしない粗悪な、おそらくは仏教とすっかり融合してしまっているらしい仙道の書に読みふけっていた政元は、いかにも通俗書らしく、冒頭に書かれている生臭ものを食べないことと、女の肌に触れないという禁止事項を忠実に守った。家中の者たちはそれを仏教の戒律を子供ながらに守っているのだと信じていた。ずるがしこい政元は、当然それを信じたままにさせ、仙術のことなどおくびにもださなかった。
父親は応仁の乱の最中、政元が幼いときに死んでいた。子供のことにかまっていられない時勢のことではあり、母親は政元の振る舞いを幼いものの信仰心のあらわれとして、むしろほほえましく見守っていた。女のことに関しては、成長すれば自ずから解決されると考えていた。ところが、それらしい年齢になっても、政元はいっこうに色気づく様子を見せない。政元にしてみれば、性欲は旺盛なのだが、仙術の要諦が精気を漏らさないことにあるのだから、かえって夢精によって失われることを心配していたのだ。
そうなると、性欲を煩悩のひとつとして禁じている仏教などより仙術のほうがしぶといもので、仏教に帰依するには、人間なら誰にでも本来備わった五感から生じる快楽を罪として認めることを丸呑みしなければならない。その点、仙術は五感の封殺を命じているわけではなく、生臭ものを食さないことと射精することを禁じているだけで、しかもそれが罪だから禁じているのではなく、仙人になるという、ある意味自己中心的な理由のために禁じているにすぎないわけだから、抵抗の根拠としてはよっぽど堅固にできている。
こうして、毒に徐々に身体を馴らしていくように、いってみれば十年弱の年月をかけて、無言のまま説得を続けていたわけだから、元服を過ぎて何年になろうと嫁を取ろうとしない政元にたいして誰もそれほど強く叱責することができなかった。
それに、面詰したところで政元は晴朗な顔を崩すことがない。幼いときからの仙術の修行が実を結んだものか、お側役としてついていた百戦錬磨の爺が力ずくでねじ伏せようとしても、いつの間にか床に手をついた自分の横に、晴れ晴れとした顔をしたままの勝元が隣に座っていて、幼いときから仕えているものの薄気味悪くもあった。しかも、公務に関しては若くして優秀といっていい実績を残している。
実際、父親の死の直後、八歳のときに官僚の地位に即位し、後には現職の将軍を追いやって新たな将軍を立てるなど、相当きわどいことも行っており、将軍を名目上の存在にし、後の戦国時代を用意したともいわれる人物なのだ。
ずるずると時間を過ごしているうちに、とうとう政元は四十歳になってしまった。さすがにその頃になると、すでに政元の仙術狂いは世に知られていて、四十歳ともなれば、癒やすことのできない病だと一族の者たちもなかばあきらめていた。仕事はできるし、仙術なるものが恐ろしくもあったので、腫れ物に触るかのような扱いになっていたのである。
ところでここでいささか厄介な事態が生じた。諸大名の取りなしに、将軍のお墨付きまでついて養子を迎えることになったのである。養子をとることについてはむしろありがたいことであり、政元には何の文句もなかった。しかし、病のために数ヶ月のあいだ床を離れられなくなったとなると、女の脛を見て雲から転げ落ちた久米の仙人と同様、地上から離れるべき身が重力に抗しかねているわけだから、恥ずべき失態だといえよう。
そのありさまを見ていた一族の者たちは、政元もひとりの人間であることを改めて発見した。そうとわかると、とたんに将来が不安になった。そこで一族の者たちが集まり、相談の結果養子を迎えることになった。こちらも家柄といい、気質といい立派なものである。
まったく別のところから、ほぼ時を同じくしてでた話となると、より配慮を払わなければならぬ方、つまり将軍と諸大名からの提案が選ばれることになる。しかし、この話を受け入れたときには、すでに一族が決めた養子の方も承諾を得るまで話が進んでいた。
しかるに、払わなければならない配慮の量としがらみの多さは必ずしも比例するものではない。一族の要請を携えて使いにたったものが正直一途な上に忠義に厚く、あるいは武士たるもの一度だした言葉を翻すことはできないということもあったのか、この場合の忠義は、要請を受けいれてくださった先方に尽すものとなった。
このことが種となり、家督争いに火がついてしまった。政元はもとよりこの状況を知らないではなかったが、もともと自分の血筋を後世に残すことなど何の関心ももたない男である、細川家の未来のことより、自分が俗世的な、あまりに俗世的な病気にかかったことに、思ったよりずっと大きな衝撃を受けてしまった。そして、政治の黒幕的な存在であることにますます興味を失った。元来、世俗的なことなど仙術によってどうにでも動かすことができることを証明し、信念をより確かなものにするために政治に関わっていたので、そろそろそうした些末なことが面倒になっていたのである。
夜明け近くに目を覚ますと、夏が終わったのが部屋の空気の肌触りでわかった。今年も行きつ戻りつはあったが、決定的に秋に踏み込んだことは、あたりの粒子が夏のようにざわめいていないことからもうかがわれた。政元は朝の日課として湯殿に向かった。
行水の前に、たらいに汲んだ水が静まり、滑らかな水の膜が光と影を蔵して、複雑な立体をたゆませている、その曲線的な結構に視線を添わせることが日課となっており、いつしか視線は様々な襞やたゆみのなかに溺れて、次第に水と一体化していくのである。
ふと累卵のようにもろく重なる光と影の建築が揺らぎ、剣先の鋼の光が閃いたが、その光は影の層のなかに吸い込まれて、荒武者が政元の背中に突き立てた刀は、時を同じくして荒武者が政元に突き立てられた刀となり、吹き出た血がたらいの水のなかで赤黒い煙を立てた。どうやら、権力争いのなかで暗殺者が送り込まれたらしかった。「これだから、世の中は面倒だ」といっていまは荒武者である政元は、返り血に汚れた衣服を着替えると屋敷を出て行った。
そもそも仙術のなかには尸解というものがある。死んだはずの人間が身体を抜け殻のように残して魂だけ抜けだして、別の人間として生きている、あるいは、死んで埋葬したはずの者を掘り返してみると、柩の中にはもはや影も形もなかったといったたぐいの話はよく伝えられている。
仙人伝のなかには頻繁に見られる話だが、俗耳に理解しやすいために多く取り上げられているだけのことで、術とすればたいしたことではない。人間の世の中の出来事のすべてが、実体を伴わない現象に過ぎないなら、現象を入れ替えるくらいのことはごく些末な術であり、つまりは、俗世間で細川政元と呼ばれている現象と、暗殺者である荒武者という現象を入れ替えたに過ぎない。
多少の工夫があるとするなら、この際、政治の裏工作や後継者などといったつまらぬことにこれ以上煩わされることがないよう、政元の死体をちゃんと残しておくために、暗殺者の魂を追い出して、その身体を政元が乗っ取ったくらいのことで、たらいに追い出した暗殺者の魂はやがて水のなかの光と影の揺らめきのなかに分解していくだろう。
政元は新しい身体に慣れるため、雑事に気をとられることなく、思う存分仙術に励むため、紅葉に色づいた山に入った。半年ほどすると、新しい身体にも慣れたが、なぜか常に梅の香を炊き込めたなかにいる感じがした。数年たつうちに、仙界から遊山に訪れていた陶弘景先生と幸いにもお目にかかる機会を得て、親しく玄奧の一端を教示していただき、無可有の境地に遊んだ。
ところが、いつのころからか、梅の香りが徐々に強くなり、それと同時にある種の懐疑を心から追い払うことができなくなった。確かに、人間が毎日繰り返していることなど価値がないことだ。現世的な栄枯盛衰、歴史的な勃興と没落の繰り返しなどは意味のない現象の連続に過ぎない。
しかし、それを見るともなく見やり、自然のなかを遊弋している我々仙人にしたところで、諸現象のなかを無目的に通過しているだけなのではないだろうか。いや、現世的なものが無意味だとわかっている点ではいっそうたちが悪いといえる。なぜなら終わりのない、抜けだすことのできない夢のなかに閉じ込められているに過ぎないのだから。
そう思うと、政元を仙術へと導いた無情さ、色恋に対する無感覚が、取り返しつのつかない欠如であったかのようにも思われてきた。梅の香りが、あたかも自ら香炉になったかのごとく、身体の奥底から立ち上るのを感じた。仙人であるための第一にして最重要なことは身体を充実させることにある。呼吸法が重要なのも、無機的な空気を気として吸い込むことで、身体に隙間をつくらないためである。
しかるに、気の充実である身体に喪失が練り込まれるようになった。なにについてかわからないもどかしさをおぼえた。「寂しいならお言いなさい、一晩添い寝をしてあげよう、」その言葉はかつて幼いときに自分に言われたのか、誰かに言われているのを聞いたのか、物語のたぐいで読んだのかすでにわからず、洞を鳴らす風のように、「恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のようベールの奥にひそんでいる。唇は紅の糸。言葉がこぼれるときはとりわけ愛らしい。乳房は二匹の子鹿。ゆりに囲まれ草をはむ双子のかもしか。」考えたことも思い描いたこともない言葉が口から漏れでるごとに空虚は大きくなり、常人と異なる仙人においては空虚が広がることは不純物が広がって身体が重くなることなのであれば、雲の上に政元の居場所はもはやなく、意志のきかない滑空は落下でしかなくなり、コンクリートにひしゃげる頭蓋骨の音に、はじめて、それとて幻影であるのかもしれないが、実在の重さを感じ、視界の端に雨上がりのぬめるような夜道をてらす隅田川の街灯が明滅した。