風呂敷包みの中身ーー三浦哲郎『流燈記』

 

流燈記

流燈記

 

 

 山の窪地に円い鏡のような水たまりがある。水面に落ちた葉は岸に吸い寄せられているので、水の湧きでている泉であることがわかる。耕三は容器もなく、山歩きで汚れた両手も使えないので、地面に両手両足をついて口だけで飲もうとするが、鼻が先についてどうもうまくいかない。連れのひとりはうまく飲み、もうひとりは無造作に手にすくって飲んだ。

 

 中年といえるこの三人は、山のなかに茸取りに来ている。耕三もこのあたりの出身なのだが、東京暮らしが長く、茸の収穫も二人には及ばない。水は飲みものであると同時に、別の世界へ通じる扉でもある。また、その後に訪れた古いトーチカの跡も、腰をかがめれば入れるくらいの洞窟の穴のようになっていて、どうやら三十年ぶりに訪れた耕三にとってこの山は別世界への入り口が至る所に口を開いているらしい。

 

 かくして、耕三は別世界のなかに入っていくのだが、そこは戦況も押し詰まった小都市である。一緒に茸狩りに来ている安吉のところから(彼の家は下宿屋をしていた)耕三は五年間旧制中学校に通って卒業しているが、終戦は三年生のときだった。

 

 ガダルカナル島からの転進、山本五十六の戦死、アッツ島守備隊二千数百名の全員玉砕などがすでに発表されているが、戦争がこの小都市の中学生の日常生活を混乱にいたるまで掻き乱している様子は見えない。せいぜい憲兵に気を遣ったり、小料理屋も兼ねた下宿屋にある朝負傷した兵隊たちが押しかけ、住人たちに口止めしたうえで、しばらくいたあと去って行くという小事件があったくらいのことだろう。

 

 それ以外には中学生らしい現在があるばかりで、たとえば海の向こうの戦況やいまの自分がそのときのことをどう考えるかといった、時間と場所をのり越えようと無理をするときの意識の濁りはまったく見受けられない。夏休みの宿題の作文で特に優れた二編として一緒に選ばれたことから友達になった真柄千松(漁師町に住む彼がごちそうしてくれるイカの刺身は実においしそうだ)は「戦争がなければ、文士にでもなろうかと誘いたいところだけどな。」というが、実際に「文士」になった耕三はそのきっかけとしてこの出来事を振り返るまでもなく、「文士というものがよくわからなくて、黙っていた。」と受け流してしまうのだ。

 

 この距離の取り方は、『流燈記』の登場人物の筆頭とも言える満里亜についてより一層はっきりしている。彼女は耕三が下宿している家と同じ並びの五、六軒むこうにある桔梗屋という下駄屋の孫娘で、父親はおらず、母親は港の方で船員相手の酒場を取り仕切っている。夏と冬には桔梗屋で休暇を過ごすのが慣わしで、そのときに耕三と出会う。女学校の生徒だが、大柄で、大人の女性に見える。目が特徴的で、暗いなかでも金色のように微光を放っている。まるで猫の目のようだが、猫のようなのは目ばかりではなく、幅十センチほどの板塀の上を歩いて耕三の下宿屋まで顔を見せる身の軽さももっている。

 

 板塀伝いに会いに来たり、話すきっかけをつくりたがるところなど、彼女は耕三に好意を抱いているらしい。実際、春先に満里亜は家出をするのだが、家出先から手紙を出すのは耕三に宛ててであり、様子をうかがいに温泉宿を訪ねた耕三に、自分の父親はイギリス人であり、「鬼畜米英」との混血児であるという家出の原因となった秘密を打ち明けもする。また、二人で灯籠流しに行った晩、暗い林のなかでシャツのボタンを外した満里亜が「あたしを好きなようにして。あなたにしてあげられるのは、それしかないかなら。」という決定的な場面まであるのだが、「さあ、いこう。遅くなるよ。」と耕三は言って歩きはじめるのである。

 

 しかしながら、一番性欲の旺盛な時期の中学生がこんな態度をとるのは不自然であるとか、過去を美化しすぎていると批判するのは当たらないだろう。というのは、耕三が生きているのは、単なる中学生の生きる空間ではないからである。満里亜に「下駄屋のお婿さんになりたい?」と聞かれた耕三は、思いもかけなかった質問に面食らう。満里亜に聞かれたことが意外なのではなく、婿になるということ自体考えてもいないことだったのだ。

 

 「婿さんになるような齢まで生きていられるなんて、夢みたいだよ。僕はそんな齢まで生きていられない。厭なんじゃなくて、夢なんだよ、婿さんなんて。」つまり、この小説の世界は、耕三という末期の目をもった人間によって生きられる世界であり、一般的な価値が無効になった夢幻の世界だとも言える。それゆえ、現実の戦況も、社会も、青年の悩みや葛藤も、性欲も、熱烈な恋愛も捨象された非常に特異な空間が形づくられる。

 

 私がもっとも印象深かったのは、家出先の温泉宿から一緒に帰ることになった二人が連れ立って歩いているときに、遠慮する満里亜を押し切って耕三が荷物を持つ場面である。

 

 案の定、満里亜の風呂敷包みはひどく軽いものだった。これがこの女学生の全財産か、と耕三は思ったが、それを嗤うことは彼にはできなかった。自分自身の全財産にしたって、風呂敷包みにすればせいぜいこんなものかもしれないのだ。

 

 

 

 この耕三の思いは、この小説に対して読者がもつ思いでもあって、もちろん嗤うことはできない、経験したこともないのに懐かしい思いがするが、羨望するなどといっては傲慢だ、かといって捨て去ってしまうと大事なものまですべてなくしてしまいそうだ、となんともいいようがないが、胸が締めつけられる思いを味わうのである。