白銀の図書館 15 プラトン的荒野〜河上徹太郎について Ⅶ

 

 「型」は、役者が伝統的に受け継いできたものだけを意味するのではない。例えば、コメディのチャップリンキートンマルクス兄弟、西部劇のジョン・ウェイン、ミュージカルのフレッド・アステア座頭市勝新太郎やくざ映画高倉健等々、いずれも独特な「型」を産みだしている。それらが「型」である所以は、一度でもその映画を見た者にとっては、例えば、座頭市勝新太郎といえばその立居振舞を思い描くことができ、上手い下手は別として真似できることにある。

 

 だとすると、「型」とは、もはや役柄にも限定されないものとなるだろう。つまり、勝新太郎が演じる盲目で凄腕の按摩、高倉健が演じる義理人情に篤いやくざと限定されることなく、俳優自体がどんな映画や演劇に出て、どんな役割を演じようと同じ存在の風味を発散させていることもある。例えば、ハンフリー・ボガードジェイムズ・スチュアートクリント・イーストウッド三船敏郎高倉健北野武などはどんな映画にどんな役で出ても彼ら独特の立居振舞を刻印している。

 

 役者や演技に限定することもなかろう。落語に出てくるような火消し、大工、隠居、与太郎、やくざ、遊び人などは多かれ少なかれ我々のなかに「型」として残っている。それゆえ、なにがしか彼らの生活を思い浮かべることができ、そうした「型」に従って生活を律する者もあるかもしれない。

 

 ここまできてようやく「自然人と純粋人」から、「型」について述べられたもう一箇所の部分を引用することができる。

 

 通行人が街頭で、警笛勇ましく火事場に向ふ消防隊を見るとき、思はず一種の美的な感動を感じる。この時消防夫は自然人の抽象であるが、見物人の頭の中では既に消防夫といふ概念は他の如何なる概念を以ても置換出来る物的材料となり、只消防夫の「型」が残る。しかもその型は消防夫一般が齎す美的概念ではなく、さつき見たあの消防夫の型の残した心象である。この時その心象は純粋現実となり、この見物人の憧れは自我の中にある純粋状態に対する憧れとなる。自然人はかくして純粋人に憧れる。

 

 消防夫は河上徹太郎の言葉で言う「自然人」で、自分のやるべきことをしているだけであり、「型」のことなど意識していない。「型」があらわれるのは「自然人」を認識する者の側だけなのである。それゆえ、先の例で言えば、実際の火消し、大工、隠居等々は「自然人」であり、彼らが「型」として姿をあらわすのはただ落語家の話術のなかだけである。また、俳優の独特の存在感なるものは、初めは天性の「自然人」としての発露であるかもしれないが、それを「型」として認識し、洗練させていくのでなければ、スターとして何年も君臨できるものではない。例えば、市川雷蔵とともに白面の美男子として売り出した勝新太郎は、当初から独特の存在感をもっていたかもしれないが、それを認識し、より効果的にその存在感を表現できるものを求めた結果、座頭市や『悪名』シリーズの愛嬌のある暴れ者という「型」を手に入れた。