シネマの手触り 10 キッスで殺せ!ーージョセフ・フォン・スタンバーク『上海特急』(1936年)

 

上海特急《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

上海特急《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

  • 発売日: 2012/07/27
  • メディア: DVD
 

 

原作:ハリー・ハーヴェイ

脚本:ジュールス・ファースマン

撮影:リー・ガームス

音楽:W・フランク・ハーリング

出演:マレーネ・ディートリッヒ

アンナ・メイ・ウォング

クライヴ・ブルック

ワーナー・オーランド

 

 田中小実昌のようにバスに乗るのがそれほど好きというわけでもなく、九十九折の峠などを上下すると酔ってしまうほどなのだが、バスの映画は大好きで、清水宏の『有りがたうさん』(1936年)もルイス・ブニュエルの『昇天峠』(1951年)も絶品だったし、鈴木清順が本名の鈴木清太郎でクレジットされていた初期の頃の『8時間の恐怖』(1957年)も楽しいものだった。同じく、列車のほうも、写真など撮ったこともなく、在来線や私鉄に乗るために地方へ出向くこともなく、いかなる意味でも鉄道に趣味があるとはいえないのだが、列車が舞台となった映画はやはり好きで、アラン・ロブ=グリエの『ヨーロッパ横断特急』(1966年)、ロバート・アルドリッチ北国の帝王』(1973年)、佐藤純弥新幹線大爆破』(1975年)、ジョルジ・パン・コスマトスカサンドラ・クロス』(1976年)、とまだまだあるだろうが、この『上海特急』もそのうちの一編で、ほとんど舞台が汽車を離れないだけにますます気に入らないわけにはいかない。

 

 北京から上海への汽車のなかで、いまは上海リリーと呼ばれて隆盛を極めているディートリッヒがかつての恋人ドナルド(クライブ・ブロック)と再会する。どんな事情があって別れたのかはよくわからないが、ディートリッヒの思いはいまだ彼のことを忘れられずにいる。ドナルドにしてもその気持ちに変わりはないのだが、スクリューボール・コメディーのように、珍事件が起こって協力したり反発したりを繰り返しながら、お互いの気持ちを確かめあっていくのとは異なり、ディートリッヒは言葉数少なく、西欧人ばかりが乗り合わせた汽車のなかで、何者ともしれない神秘的なたたずまいで、侮蔑と敬遠を引き受けている唯一の中国人女性(アンナ・メイ・ウォング)と言葉にはしないながらも同士的な関係を結ぶ。中国は清が滅ぼうとする革命の時期であって、汽車は革命軍に遮られ、ドナルドは軍人であるために殺されそうになる。ディートリッヒは自分の身と引き換えに、彼の命を助けるが、ドナルドは裏切られたと早とちりする。乗客たちの証言によって、ディートリッヒの行動が、自分を助けるためだとわかったドナルドは彼女を無事救いだし、汽車は上海に到着する。

 

 ディートリッヒは私がはじめて好きになった女優だと書いたことがあるが、女優ということでためらわずにおれないのは、いっかな彼女に性的魅力を感じたことがないからである。正直、美人と言えるかどうかもわからない。『モロッコ』の男装して舞台に立つ姿は両性具有的であるし、この映画においても、他の乗客たちがごく普通の旅行姿であるのに対し、羽飾りを身にまとい、ドレスアップされた姿は、明らかに異形のものであり、性を超越している。そんな彼女がこの映画では映画史上でも最も美しいキス・シーンを演じており、ヒッチコックでは最も洗練された官能表現であるものが、ここではなにか未知の領域に踏み込む崇高な行為になっている。正確にいうと、最後の場面、もう一度キスが交わされるのだが、立錐の余地もないほど雑踏に満ちた上海駅で、「どこかに行こうよ、君にキスがしたい」というドナルドに対し、「私たちしかいないじゃない、それに、駅というものはキスするためにあるものよ」と返すコケトリーもまた完璧であって、ぐうの音もないところをせめてもの強がりでグゥと言ってみる。