ブラッドリー『仮象と実在』 49

      (全体における自己と非自己は固定したものではない。)

 

 実情は次のようなことだと思われる。ある瞬間に魂を満たす心的全体とは、その集合がただ感覚される限りにおいてのみ自己である。つまり、集合が一つの全体にまとまっており、快感や苦痛と特別に結びついた集合と分離不可能である限りにおいて、この全体は自己と感じられる。しかし、他方、内容の要素は、集合、つまり知覚の背景となるものと区別される。しかし、この非自己と自己との関係は古くからの全体的な自己を破壊しない。それはまだ、区別や関係を内部に含む全体的集合である。そして、この二つの意味の自己は、明らかに一致しないにもかかわらず、共存している。さらに、実際的な関係においては、新たな特徴が見て取れる。第一に、全体を感じ取れる条件としての自己がある。次に、自己に対立すると感じられる非自己がある。さらに、制限されながらも拡張しようともがく集合があり、それが緊張を生み出す。もちろん、これも特別に自己と感じられるものであり、その内部において新たな特徴が注目に値するものとなるのである。欲望や意志において、我々は存在する非自己に対してある観念を抱き、その観念はこの非自己の内部で変化するものである。この観念は非自己と対立する自己の一部と感じられるばかりでなく、その主要な特徴であり、目立った要素であるとも感じられるのである。かくして、我々はその自己の全体がある特殊な目的に集中しているような人間について語ることがある。このことは、心理学的に言えば、観念は非自己によって抑圧される内的な集合をもった全体であり、その緊張は観念の領域において集中的に感じられる、ということを意味している。観念は、かくして、自己の内容の目立った特徴となるのである。そして、その拡張や縮小に応じて、非自己の現実的な集合は私自身の拡大とも制限とも感じられるのである。ここで、読者が、存在する非自己とはある内的な状態であり、その変更が欲せられることを思い起こすなら--そして、再び、観念は理論的に見れば、非自己であることを思い返すなら--ある特殊な内容に付随し、それと切り離せないような資質など全くないことを悟るだろう。