ブラッドリー『仮象と実在』 50

      (活動の知覚、その一般的な性格。)

 

 「自己」に与えられたもう一つの意味に注目しよう。しかし、まず七章の主題にさらなる光をあてるよう試みなければならない。自己による自らの活動性の知覚は心理学の片隅にあって、暗闇に取り残されたままだと危険である。この危険は次の章で明らかにしょう。ここではいくつかの盲目的な先入観から切り崩していこうと思う。私の失敗は、もし失敗するとすれば、論理的にその存在を正当化できないことにあろう。疑いなくそれは口実ととして使用されるかもしれないが、結論をだすためにはそうした危険を冒すことを余儀なくされている。

 

 活動性の知覚は非自己に対抗する自己の拡張からきており、この拡張は自己から生じる。(1)そして、自己によって意味されているのは個人の全内容ではなく、上述した実際的関係の一つの項である。そこでは、いかに、ある観念が非自己に直面し、自己の集合と一体化されるかが見て取れる。そして、この観念によって自己は拡張される。拡張はそれ自体では(2)常に快楽の源泉である。もちろん、単なる拡張は活動性とは感じられず、その自己内部からの発生が本質的な事柄である。

 

 

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 しかし、この見方を理解するためにはいくつかの点を押さえておく必要がある。1.第一に、拡張は、個人全体の意味での自己の拡大を必然的に伴うわけではないことを読者は理解しなければならない。そのどんな意味においても、非自己に対立する自己が拡大するのでさえない。変化の観念と一致する限りにおける自己の拡張である。例えば、私が自己矛盾したものを生み出そうとするなら、それはまた拡大でもあり、というのも、ある領域の事実に制限されていた観念がその限界を超えることになるからである。かくして、自己破壊でさえも、活動性が続く限りは、拡張と連動している。一般的に言って、ここにある自己とは、その内部で、主要な関心事を感じているものである。というのも、それはもっとも内部にある存在と切り離すことができないものでありながら、そこで突出しているからである。この点を逃すなら、活動性が意味することを理解することはできない。

 

 2.このことはある難点に我々を導く。明らかに、私が活動的でありながら、そこに観念がなく、つけ加えるなら、制限を加えるような非自己がない場合がある。非自己を最初に取り上げよう。(a)議論のために、外に一切他のものがなく、空虚な状況だという意識もなく、自己が拡張を感じていると想像してみよう。どうして我々はそこで非自己を発見することができるだろうか。答えは単純である。自己はそれ自体の限界として存在しており、活動性によってそれを越える。活動のまえの自己をAとし、活動の間の自己をABとしよう。しかし、第三の特質、Aの内的な性質であり、ABから生じるものがある。すでに見たように、これが変化の観念であり、それをbと書くことにする。それ故、我々が始めに有しているのは単なるAではなく、bによって修正されたAである。そしてそれらは互いに対立している。修正されていないAはbと同一化したAの非自己である。AbとAとの緊張関係は、変化の内的な源泉であり、当然、bをBに拡張し、結果的に、その地点にまでAを拡張する。望むなら活動性を、事物をその現実的な限界から越えさせる事物の同一性と呼ぶこともできる。しかし、真に重要なのは、ある意味我々が変化の観念を仮定し、その観念に対して自己が関心をもち、自己の実際的な条件が非自己でない限り、活動性は意味がないことを認めることにある。(b)もちろん、このことは問題を引き起こす。自己が自身を活動的と捉えるとき、一見そこには観念がないように思われる。しかし、その問題はあからさまな観念とそうでない観念を区別することで解決される。後者は、その内容が存在を越えて用いられるという意味においてのみ観念である。(1)実際、活動性のことを記述するとき、その終端は常に観念のなかで始まりにまで運ばれる。それが真実なのは疑いがない。しかし、活動性が単に感じられるとき、そこには決してあからさまな観念は存在しないだろう。観念がないとき、なにが起こるのか説明してみることにしよう。最初に存在する自己をAcと呼ぶことにする。この自己はAcdになり、拡張する。しかし、もちろん、拡張それだけでは活動性ではなく、そう感じられることもない。AcからAcdの移行は単なる変化、同じAに付加されたものと感じられる。cとdの際が同一のAによって結びつけられると--変化を知覚するにはそれらは結びついていなければならない--その限りにおいて、生じているのは能動的な行動でも受動でもなく、単なる変化である。それでは活動性には十分ではなく、Acのなかにdの観念であるδが必要とされる。この観念はあからさまな形でもっているわけではない。しかし、こうすれば十分であると私は考える。Acは事実としてAcdとなり、連続した関係の知覚によってそう感じられるのだが、それはまたあらかじめAcδとして感じられていたものでもある。つまり、dへ実際の変化とは別に、その以前に、Aにおいて我々はAcをぐらつかせ、取っ組み合うAcδという素因を有していたのである。AcはAcδを示唆し、AcδはAcとともにあり、それ以外のものからもたらされることはない。しかし、この示唆では、Acδが生じるやいなや否定によって抑制され、Acだけがその場所にとどまることになる。それ故、AはAcδがAcに対して戦う場である。それぞれAにあると感じられ、そこに属し一つのものである。そしてこの不一致を解決するような関係は存在しない。それ故、AはAcdであり、かつそうではないという感情が生じる。しかし、系列の関係がこの矛盾を解決するように思われるにしても、そこから導き出される結果は単にAcに付加されるものとは感じられない。Acdという結果として感じられ、以前にはそれはより強いAcに引きとどめられていた。かくして、まったくあからさまな観念がなくとも、ある観念が実際に用いられることはある。というのも、そこには存在を越えてそして存在に対抗して用いられる内容があるからである。私が思うに、これが最も早い時期に活動性と感じられるものについての説明である。

 

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 この簡潔な考察には、当然異論もあるだろうが、単なる誤解によるもの以外については十分対応できたと信じている。この問題は心理学に属するものだが、ここではそこまで追求するのは止めておくべきだろう。読者は、変化の知覚において、私が終りと始まりとの必然的なつながりを仮定したのを見られたことだろう。これは同一であるAからの復元であり、まず、結果においてもとどまり続けている出発点についての後感覚に助けられているのだろう。ここで私が仮定せざるを得ないのもそのことである。さらに、Acdの実現は、たとえばEのようなAの外側になにかをつけるものであってはならない。それは、活動性を感じ取る仮象にとっては致命的なものとなろう。我々の感覚ではAはAcdでなければならない。そして、より支配的なAcによって抑制されねばならない。それ自体で確立することは不可能であり、争いを経なければならない、つまり、衝突と動揺がなければならない。それ故、動揺するAcδはその部分的な達成において喜びの源泉となるのだが、好むなら、否定とも欠如とも--これが後に奇妙でけしからぬ雑種、潜在的な存在となるのだが--言うことのできるAcから抵抗を受けている。そして、存在によって退けられる内容としてのδはその本筋においてあからさまな観念となる。この僅かな説明だけで、我々は心理学への寄り道から戻らなければならない。

 

*1:

(1)この点は『マインド』pp.319-320;47,pp.371-372;49,p.33を参照。私 はワ ード氏の批判(『マインド』48,pp.572-575)には詳細に答えること はなかったが、私の見解によればそれは単なる誤解であり、それを取り 除くことは私の関心 事ではない。

(2)この点についてのさらなる識別は『マインド』49号、6ページじ以 降を見よ。

*2:(1)『マインド』49号、23ページ。また、後の第十五章163 ページ。