一話一言 26

 

 

笑い

 私たち人間の配当物たるこの生のすみずみまで、安定性の欠如の意識が、すべての真の安定性の深い欠如の意識が、笑いの魅力を解き放つ。あたかも、突然この生が、空虚にして悲しげな連帯から、熱と光との幸福な伝染へ、水と空気とが相互に交感しあう自由な擾乱へと移っていったかのようだ。笑いの爆発としぶきの跳ねが、最初の開口にひきつづいて、微笑のオーロラの透過性にひきつづいて起るだろう。何かばかげたことを示す言葉、あるいは粗忽なしぐさを見聞きして一群の人々が笑うならば、その人々のうちに強烈な交感の流れが通過する。それぞれの孤立した存在態は、凍りついた隔絶状態の誤謬を明らかにするようなイメージのおかげで、自己から脱出する。それはある容易な爆発のごときものとなって自己自身から脱出する。同時にそれは、ひびきかわすひとつの波の伝染に身を開く。なぜなら、笑い手は全体として海の波のごときものとなるからだ。彼らのあいだにはもはや笑いのつづくかぎり障壁はない。彼らは二つの波と同じくもはや分離されていない、だがかれらの統一性もまた、水の擾乱の統一性と同じくらい不確定なのだ。

 笑いに関する説は数々あれど、最も納得のいくのがバタイユのものである。万人の万人による闘いを説いたホッブスは、笑いを優越感からくるものとしたが、つまらぬ説である。有機的な人間に機械的なものが張りついたときに笑いが生じるとしたベルグソン

の笑いも結局は優越感をもとにしていて、実りがない。