一話一言 24

 

 

啓示としての笑い

 

 〔ここで二十年ほど昔に話が飛ぶ。長いキリスト教信仰から脱出して、私はまずのっけから大笑いをし、私の生は陽春の不実さとともに笑いの中に溶けていった。この笑いについては、前の方で私は恍惚の「点」として記述しておいた。だが、第一日目からして、私はもはや疑うことができなかった。この笑いはひとつの啓示だったのだ。それは諸事物の底を開いてくれる笑いだった。この笑いを溢れ出させたひとつの偶然事について記しておこう。私はそのころロンドンにいて(一九二〇年だった)、ベルグソンと食事を共にせねばならぬことになった。ベルグソンのものを私はそのころ一冊も読んではいなかった(もっとも、他の哲学者についても大同小異だったけれども)。さて私はこの哲学者の著作を読もうという好奇心を湧かし、ちょうど大英博物館にいたものだから、『笑いの研究』を図書館から借り出してみた(ベルグソンの本の中では一番短いものだ)。読んでみて私はいらいらした。諸説は舌足らずに思われた(その上、ベルグソンの人柄に私は落胆したものだった、この小心な小男が哲学者とは!)、だが、笑いの問題、笑いの久しく隠蔽されたままだった意味は、そのとき以来、私にしてみれば要ともなる問題であった(幸福な笑い、深い内面の笑いにつながれた問題であった。そういう笑いに私が憑かれていたことは私には即座に分ったのである)。またそれは私としても是が非でも解かねばならぬ謎であった(この謎は、ひとたび解かれれば独力でいっさいの問題を解くはずのものであった)。長いこと私は混沌とした幸福感しか知らなかった。ようやく数年してからはじめて、私はこの混沌が————変幻する存在の支離滅裂さを忠実に映したこの混沌が————次第に息苦しいものになってゆくのを感じたのである。あまりに笑いすぎたせいで私は疲労にうちひしがれ、崩壊にさらされていた。心の萎えた私には自分がそんなふうに見えたのだった。私は不安定な、意味の欠落した、意志を欠いた一匹の化物、自分でぞっとするような化物だった。〕

ベルグソンの『笑い』はいかにも哲学書の体裁を取っているが、モリエールを中心とするフランス喜劇に関する文芸評論と考えた方がいい。