ブラッドリー『仮象と実在』 120

  ... [唯一無比で自己意志としてのこれ。]

 

 そしてもし「これ」が「唯一無比」である故にその他すべてを排すると主張されるなら、この点の議論はこれ以上我々をひきとめはしないだろう。「これ-私のもの」以外の何ものも実在ではなく、この場合の問題は第二十一章まで先送りされる。また、「唯一無比」がただ一度感じられ、二度と再び感じられないものだとすると、そうした主張は大雑把に言って正しくないと思われる。というのも、同じ性格を持つ感じが事実繰り返されないものだとしても、少なくとも、そうした繰りかえしが可能であることは否定できないだろう。「これ」はある系列の一員である限りにおいて、その系列が他の系列と区別される限りにおいて唯一無比である。(1)そして、この意味においてのみ、我々はその繰りかえしが不可能であると言える。しかし、ここで唯一無比と我々は再び否定的関係をもち、こうした関係は包括的な統一を含んでいる。この意味における唯一無比は絶対による同化に抵抗するものではない。他方において、それは排他的な単一性と両立不可能である。

 

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 自己意志の本性についてはいまのところ立ち入るつもりはない。それは限定された主体によって企てられた全体に対する対立である。そうした不調和や否定は統一を掻き乱すと同時に、宇宙の完成に向けて寄与すると言えるだろう。それは中心と、それが産みだす自己という盛んに論じられる要素との関係である。中心と周縁とが一つになる調和においてこの衝突は解決される。この問題については別の場所でまた論じるとしよう(第二十五章)。

*1:(1)この点については『論理学原理』第二章と比較のこと。