キリスト教から笑いへの迂路――ボードレール『笑いの本質について』

 

ボードレール批評〈1〉美術批評(1) (ちくま学芸文庫)

ボードレール批評〈1〉美術批評(1) (ちくま学芸文庫)

 

 

 笑いが優越感に由来することはごく一般的な見解だと言える。すでにホッブスは「自分のあるとつぜんの行為によろこぶことによって、あるいは、他人のなかになにか不格好なものがあるのを知り、それとの比較でとつぜん自己を称讃することによってひきおこされる」(『リヴァイアサン』水田洋訳)のが笑いだと言っている。

 

 ベルグソン有機的なものに機械的なものが張りつくことによって笑いがひきおこされるという説にしても、有機的なものにより大きな価値が付与されているのであるから、優越感がもとになっているのは間違いない。従ってボードレールが「笑いの本質について」でそれを追認しているのを読むと、いささか拍子抜けがするのだが、ボードレールの場合、キリスト教が深く関わることによって相当込み入ったものとなっている。

 

 「新約聖書全巻のうちにはただ一つの諧謔もみあたらない、しかしこのことで一巻の書物は論駁されているのである」とニーチェは言ったが、このエッセイはニーチェの言葉に対する独特な返答となっている。

 

 そもそも笑いは楽園においてはまったく必要のないものだった。不足するところがまったくないならば、他人を笑う必要などない。そこにあるのは植物や動物が、他の動物たちには関わりなく自ずからあらわにする生存の悦びだけである。同じように、キリストやそれに準ずる聖人たちが笑いから遠いのも当然のことである。楽園に近いことはそれに反比例するかのように、笑いから縁遠いことを意味している。つまり、笑いは人間の原罪の証である。

 

 しかしながら、ここで鮮やかな逆転を見せるのだが、笑いは悪魔的な力を示す最大の武器ともなるのである。「人間との関連においてみれば無限に偉大だが、絶対の『真』および『正義』との関連においててみれば無限に卑小で低劣な、矛盾する二重の本性から、必然的に出てくる合力」(阿部良雄訳)であって、まさに偉大さと卑小さという矛盾を矛盾のまま併せ持つ悪魔を象徴する力となっている。

 

 したがって、真の笑いというのは、膨大な確固たる信仰が大きな落差のなかに注ぎ込まれるとき、はじめて電気のように生じるものである。ローマの喜劇などは信仰の力が圧倒的に少ないし、古代の奇怪な彫像はあくまで彼らにとっては崇拝の対象であり、それが滑稽なものとなるのはキリスト教徒のあいだでしかない。

 

 ところで、ここで二種類の滑稽が区別されることでさらにひねりが加えられる。優越感による笑いには、もっとも身近なものとして、劣った人間を模倣することによってもたらされるものがある。確かにそれは一般的ではあるが、人間にくらべて遙かに偉大である悪魔の力をあらわすものとしては取るに足りない。

 

 別の種類の滑稽、絶対的滑稽あるいはグロテスクと呼ばれるものがあり、それらはもはや人間の劣等性を笑いの対象にすることなく、自然あるいは世界を笑いのめす。楽園の住人たちは世界と調和し、それゆえ笑うこともなく充足した悦びをあらわすだけだった。だが、絶対的滑稽は、神が創造した世界を笑う。それはすなわち、神が定めた価値を否定することでもあって、ボードレールキリスト教を経由することによってニーチェ的、ツァラトゥストラ的哄笑にいたるという離れ業を演じている。