ケネス・バーク『歴史への姿勢』 86
言葉を欠いた自然に叙述をつけ加えることによって、じきに、超自然の物語、占星術の、天文学の、錬金術の、化学の、地質学の、生物学の、地理学の、歴史の、神話の、儀式の、イデオロギーの、日常業務等々の物語が生じ、ゴシップとニュースとが始まった(あらゆる動物、生命のない事物でさえ、純粋に物理的なコミュニケーションを行なっているが、人間という動物だけがゴシップを流し、互いに物語を語ることができる――ニーチェより遙か以前に、人間はいかに「自然に」、話していることが嘘になるか気づいていた)。
会話について言及するとき(絵画、彫刻、音楽のような人間として発達させてきた表現やコミュニケーションの媒体と比較して)――ちなみに、それは「『最も包括的に』、それ自体で、他のあらゆる媒体で、非象徴的な運動の領域で(地質学、生物学、考古学などの用語で)議論」される媒体である――我々はぐずぐずと同じ状態に止まり、せいぜい「我々を包み込む(我々を「含み」、我々に関わるすべてであるという意味でのcomprehend)言葉を欠いた広大な無限をわかろうと努める(「理解する」という意味でのcomprehend)という場合のように、状況は大がかりな冗談を許している」ということができるくらいだと私は考えた。そして、しばしば、感覚の直接的な経験(なにかを<熱く感じる>ときのような)と感覚について<語る>言葉を使うこと(「これは熱く感じられる」)の間にはなんと不思議な相違があるのかと思い返し、直接的に身体に訴えかける感覚は言葉を欠き、物語の領域にはないことから、次のような詩句で問題を両極化してみようとした。
定義され得ない<定義されるべき項>
無数の言説の
宇宙を伴った
言葉を欠いた無限の宇宙
物語がつくりだすことのできるもの・・・
進化の物語が語るところによれば、地球の地理的生物学的過程がまったく人間の物語なしで進んだ時期があったように、現在のところ人間という動物を「包含している」諸条件は、それらを「理解しようとする」物語をもった生物を絶滅させ、それゆえ再び物語なしに事態が進むこともあろう。
とにかく、我々の周囲にある言葉を欠いた側面を二重化しようと企図する物語を語る言葉は、取り得る<姿勢>の範囲を大きく広げ、それによって<我々の間で社会的にあふれている利害>の一致や不一致と折り合いながら互いに関係していく。そうした状況においていかに非個人的な要素の割合が高いものであろうと、煎じつめれば、我々のなかの古きアダムは代名詞の様々なあらわれであり、マルチン・ブーバーの「我-汝の関係」のような<個人的な>関係に従うのである。ここでふり返ってみると、私の「中枢用語」はすべて、代名詞のように個人的な姿勢を示すものだった。正確には殆どなんの主張もなく打ち壊すテロリストでさえ、なんらかの力に<個人的に>、つまりある姿勢をもって臨んでいる。
我々の環境にある言葉を欠いた部分を言葉によって二重化するという基本的な操作によって、個人的な評判と「はやり立つ野心」をもった道具の力という関係はするが同一ではないものの重なりあう部分を見いだす助けとなる。ここで、個人的姿勢という側面に関連して、私の詩の一節をあげると(「圧倒的な量に達した足について」)、「交通戦争・・・ドライバーはみなどこかへ向うが、なんであれどこにもない・・・我々のご自慢の機械・・・自己を容易く手っ取り早く誇張してくれるもの」といったマルクスが「商品フェティシズム」と呼んだものの一変種を経由して、「車は銃のように/慢性的に病んだ自我への治療薬であるから」、「巨大なテクノロジーの悪魔」である車と我々が同一化するにいたると、「<これは私のものだ>から/<ああ神よ、これこそ私だ!>/という無自覚な跳躍」で代名詞にひねりが加えられるのである――意志が存在するところには方向が存在し、我々は「力への意志」に関わっている。
ニーチェの「力への意志」と、ヘンリー・アダムスが「歴史に関する加速の法則」と呼んだものに見合った過去二世紀のテクノロジーの「進歩」の指数関数的な曲線とを直接的に結びつけることは大げさであるかもしれない。私としては、テクノロジーの革新の加速とそれに対応した対抗自然的な人工の領域と本質的に結びついた姿勢の先駆者をブレイクに見ることさえなんの困難も感じない。というのは、どちらの場合にも、私が大いに強調しているのは、近年「表面上は」変化をもたらしたテクノロジーの「コンピューター支配による」官僚化にはまったく関わりをもたない、テクノロジーの<道具としての>力に対応する人間個人としてのむら気を<補強>しさえするような複雑に絡み合った要因だからである。
現代の諸道具の力とその「プログラム」や操作に含まれる多くの細かな細部との大きな不釣り合いは、ニーチェがとったような英雄的な立場と情念に著しくかみ合わないある種の生理的なグロテスクさに匹敵している。しかし、諸姿勢についての次の証拠物件を危険にさらす前に、次のような考察をしておいた方がいいだろう。
(1)英雄的なものを認めるほかにも、(2)「ある姿勢による」観察から可能になった荘厳に形づくられたといっていい五行の詩によって、包括的な物語で言葉を欠いた宇宙を「理解する」二重化について警句を提示した後にも、私は(3)テクノロジー本来の力によって、車の所有者や運転者が自分が個人的に強くなったのだと感じさせる強力な装置として働くのはごく「自然な」誘因なのだと論じることにあいなった。それほど魅力的とは言えないが、私の詩には更に考えるべき一面について述べたものがあり、(4)一方に『ガリヴァー旅行記』のグロテスクさがあり、他方にスイフトによる図式的には不調和な遠近法があるのだとすると、この詩の場合はある種の「二重になったヴィジョン」がある。以下のようなものである。
美しい身体
導管、梁
濾過材、配水管、管
ガス室、下水、汚水だめが組み合わさり――
全体は
太古の泥で磨かれ
一般的には食用に適さないと考えられる
肉のような物質が詰め込まれ
微生物に充ち満ちた
暖かで
澱んだ
悪臭を放つ
沼・・・
事実、この怪物、遠近法の端に映ったグロテスクなしみは、結果的には、「より高次な秩序の洗練化」である。一次的な秩序の洗練化とは、例えば、どんな基準であるにせよ、我々が同意してあの人物よりもこの人物をミス・アメリカとして選ぶ際の、身体の寸法や動きの美しさを示すものかもしれない。二次的な秩序の洗練化とは少々そこからずれ、どの候補者を選べば金銭的な利益を上げることができるかに興味があるプロモーターの投資対象として考えられる。上述の詩句は、『イリアード』でテルシーテースがトロイ戦争の英雄だとされるのと同じくらい、『歴史への姿勢』での「受容」の「喜劇的な」枠組みを示している(ただ、遺憾なことに、この著者は、ホメロスがテルシーテースにしたように完全にこの怪物を否認し去ることはできなかった)。
この詩の題名は伝統的な用法であり、紋切り型で、<ヒューマニズム>の次元にある。題名はこの詩(或いはアンチ詩であろうか)の第一段階であり、冒頭の一行で眼や唇や髪の毛といった「詩的な」対象が語られるのではなく、<身体の>美を<解剖する>不調和による遠近法が突然に導入される。この目的のために選ばれた表現はグロテスクなひねりが加えられ、身体の美(ラテン語なら身体の幻影speciesと言ったであろうが、外見がいいこと同時に見かけ倒しなことも意味するいい言葉である)という外観(表面)の背後にある内部が消化組織という「ごく私的な」(内密な)ものに還元されている。そして、そうした<有機的で、生物学的な>過程が<テクノロジーの器具>として描かれることで、更なるひねりが加えられる(腐敗などが配管取りつけのような設備との関わりで言及される)。
こうした機能と結びついた細部が結局のところ「汚水だめ」に落ち着いたとき、五行目からの移行的な第三段階への条件は整う(以下に続く詩句のある種のサブタイトルとなっている漠然とした「全体」という語についてほのめかす)。事実、「配水管の先にあり、沈殿物や不必要な物質を集める貯水池」といった言葉は、廃棄物の処理に関して現代の衛生的な「設備」(対抗自然の人工的な拡大への顕著なテクノロジーの貢献)が発展し拡がる以前から普通に使用されていた。例えば、「細菌学」という語の意味合いには、まさしく<自然>の本質となるものが含まれている。人間の身体は、細胞が住まい、集団的に住まうことによって形づくられ、その結果、ある部分は一貫し、ある部分は相反する姿勢の唯一無比の組み合わせ、象徴性との関わりにおいて形づくられる「個人的な方程式」によってそれぞれに異なる個々の市民であり納税者である人間という借家人が生理学的に住まう場所となる以前から細胞としての生活様式を受け継いできた。
(私が「喜劇的」枠組みの提起者を自称する者だということを思い返してもらいたい。その私が、どうして締めくくりをつけるにあたり、我々の問題のアリストファネス的側面を無視して過ごせようか。)
しかし、なぜ私はこうした不必要な難問に敢えて飛び込むべきだったのだろうか。それには原理に関わる問題が含まれている。我々が扱ってきたのは「姿勢」に関する問題である。『恒久性と変化』の後記で、ベンサムの三種の名称(「中立的」、「非難的」、「称讃的」)に関して述べたとき、私はベンサムの功利主義的な「幸福の計算」に従うよりも自分自身と議論を重ねていくような姿勢のあり方を選択した。ニーチェがMenschheitをUbermenschに入れ替えたように、「人間の条件」について熟考するには「B★d★ B★★★t★f★l」へのグロテスクな急落が正しいことだった。そして、ニーチェがKrieg、Kraft、Starke、Machtを理想化したことは、その子供っぽさをあらわしたものとして、詳細な形象の分析をするまでもないことである。
例えば、たまたま開いた『力への意志』の一節を翻訳してみよう。「善良な若者[ein kleiner tuchtiger Buesch]が、もし『よき少年になりたいか』と尋ねられたら、皮肉な眼をして相手を見つめることだろう。しかし、『どうしたら君は他の少年たちより強くなれるか』と尋ねられたら、彼の目は大きく開かれることだろう。」
しかし、ここで一つ問題が生じる。先ほど告白したように、現代生物学に則った奇想はアリストファネス的喜劇へと傾斜したものだが、なぜだか正確にはわからないながら私が常に認めるのは、幼児期からの残存と思われる表現があることである。そのことは、自身を偉大なる「超人」と同一視した半ば狂気じみた天才にも当てはまることのように思える。私が引用した文章にも、男性的で好戦的なアフォリズムのスタイルが、幼児期からの動機づけの痕跡と秘かに一体化している。フロイトなら、コンプレックスの「前意識的な」認知として解釈したことだろう。
ちなみに、『恒久性と変化』でニーチェについて書いていたとき、ほぼ半世紀ぶりであったが、私は以前からもっていた『力への意志』(ドイツ語版)を読み返した。そして、私はそこに、十八章からなる私の小説(反小説か)の基調となっている「誇張された文体」をしばしば聞き取って驚いたものだったが、私の小説では、つむじ曲がりの主人公が第一章で、「私は嵐のとき言葉を迸らせる怪物のように語るだろう」と公言するが、徐々に全体的な崩壊へと進み、最後の章では断片の集まりでしかなくなり、最後にはこう終る。「反応しないだけでなく、もはや独白を繰り返すこともない――もし我々に語りかける相手がいないなら、重荷は我々のなかに積みかさねられていく。これからは、沈黙が、その奔流が完全な姿で聞き取られることだろう。」
鋭い読者のために言っておくと、なんで私の本にある「幼児期の痕跡」に秘かにアフォリズムの標識をつけないわけがあろう。まさにその通り。しかしながら、少なくとも次のように正当化する余地はある。崩壊の物語のもとに、<再生>があらわされていていけない理由があるだろうか。「新たな幼児期」にはどんな種類の親和性があるだろうか。最後の断片的な「メモ」にもその手がかりはある。例えば、「発見の剣は笑いの寝椅子の先を進む。人は歯をむき出して唸ることから冷笑をおぼえ、冷笑から笑うことをおぼえる。君は二度生きねばならず、二度目に笑うことになるのだ。」書き終わってから長い時間が経ったこの本を(回顧的に)ふり返ってみると、子供時代の「自閉」の痕跡から、青年期の両義的でむら気な試練を経て、(良かれ悪しかれ)この本が掘り下げた「喜劇的な受容の枠組み」を試みることへ著者の儀式的な変容が見て取れる。後に、「言語を習得する身体」として人間を考えた際には、叫びのように投げだされるスタイル(ニーチェが試み成功した)は<間投詞>の性質をもっており、それは我々人間としてはもっとも動物に近い発声であり、その点において直接にその姿勢を表現する子供に似ているのだと考えるようになった(もちろん、そうした表現の<言語的な>側面は、そうした初歩的な動機づけの次元にはまったく還元できないものであるが)。
幼児期という主題のより甘美な表現として、ワーズワースの「不死を告げ知らすものに関するオード」があるが、そこでは成人の文学的な自己と幼児期の痕跡とが称讃的に結びつけられ、「子供じみた」と「子供のような」という形容を区別することを拒むことで「再評価」の意図を含めつつ、原理的にプラトン主義的な<言葉のうちに>原初の<言葉を欠いた状態>を「想起する」という、正確には語の矛盾とさえ言えない敬虔な姿勢がとられるのである。
また(私の「根本的な下水への下降への信仰告白」にもかかわらず、私の言ったことに憤慨する読者に対して私は心から憤慨することはできない)、完全にテクノロジー的な「検知器」に関わる「メタ美学的な」領域で、新たな考案物によって観察の範囲と正確さとがより増してきている(現代のテクノロジーの「進歩」によって人工的な対抗自然の領域がかくも拡大するまでは、我々に対してなにをしているかさえ知らない馬鹿な目盛りが明確な識別を記録することなど、この地上における人間の、また人間以前の歴史では決してあり得なかった)。この種の革新は、身体の隠れた生理的働きをより詳細に明らかにし、究極的な定義することのできない<定義項>を遠くから、また無数の相互作用のうちに見て取ることを可能にする。それゆえ、理論的には、ある年のミス・アメリカの身体が我々の荘厳なる教化のために、実験室や診療所の装備によって驚異の複合物としてあらわにされるといった馬鹿げた物語の可能性さえ考え得る。
実際、自伝的な「ヘローネ・リデルについての麻酔による啓示」で※、私はこの種の「ポーズをとった」。それは「遠近法的」と名づけられる「手術後の症候」を扱ったものである(それに対応する「啓示」は、「薬による部分的な歪み」に対する患者の反応といった一般的な問題を私なりに変奏したものである)。しかし、その経験は「主として不慣れな化学物質に関わる」ものであるために、それを物語ることは臨床的な細部と(全くの<ダイジェスト>)瞑想とが結びついたものであり、ある種「定義することのできない<定義項>、宇宙」、「物語だけがつくりだすことのできる」「言説の無数の宇宙」についての私の詩句のような性質をもっている。辛抱強く読み進めていけば、その姿勢の根本には、いまでも最終的な形で明らかにされた戦略的な焦点が読み取れよう。
*1:※この作品は、その創設者であるジョン・クロウ・ランサムが編集者でもあった時期の『ケニヨン・レヴュー』(1957秋号)に掲載された。ランサムの詩が公然かつ魅力的な「きらびやかさ」をもっていたためにこの文章がものされたのだということは読者も理解されよう。主人公の名前は、「小さな英雄little hero」を皮肉にもじったものである。