ケネス・バーク『歴史への姿勢』 90

.. 部分的な撤回を伴った追加

 

 私の初期の著作『反対陳述』に収められたエッセイ「心理学と形式」の脚注を論じようと思うが、それは『恒久性と変化』及び『歴史への姿勢』の後記で芸術的個人的とテクノロジー的道具的との区別に関してとった私の姿勢を強く伝えているように思われるからである。

 

 科学的な真実の芸術への浸食を最も顕著にあらわす例の一つとして、「歪曲による真実」の説があり、その場合、対象のある側面は他の側面を強調することによってよりよく抑圧される。つまり、芸術によってなんらかの事実に関する知識を<示そう>と試みることは、芸術という比較的物言わぬ方法によって対象の言外の意味を明白に言いあらわそうとすることなのは明らかである(物言わぬというのは、科学がその発見を示す際の申し分のない気楽さと区別してのことである)。だが、既に科学はこうした「事実に関する真実」、「歪曲による真実」の領域でも発見を行なっており、それはこうした効果のみを狙う芸術家たちに恥ずかしい思いをさせることだろう。例えば、跳躍する男の動画を考えてみよう。その過程を高速度で撮影し、非常にゆっくりと映写すれば、スクリーン上には跳躍の理解に役立つ驚くべき事実に関する真実が映しだされる。お望みなら、四本の足、頭や臀がねじれた状態も観察することができよう。我々がスクリーン上に見るこのねじれたものは、跳躍という運動についての事実に関する真実が無限に存在することを示している。このことから、我々は運動の調節に身体が関わる際の驚くべきバランスの体系を見て取ることができる。だが、美的な真実に関する限り、スクリーン上にあるのは運動ではなくねじくれたものであり、行為にある爽快さを取り除き跳躍に関するあらゆる事実を明らかにする恐怖の対象でしかない。

 

 

 明らかに「歪曲による真実」についてのここでの注釈は、『恒久性と変化』(そして『歴史への姿勢』でもまた)で「不調和による遠近法」を物事を「再評価する」意味合いをもつものとして追求したときの展開につれて「実質的には修正された」<姿勢>を反映している。こうした転換は、抜け目のない語り手があらゆる歴史を手短かな物語にまとめようとする際に、いかなる遠近法でどんな局面をも物語ること(「再構成する」こと)に匹敵する。

 

 また(あたかも計画されたかのような)不調和によって、大きな国家的事業の多くが職業の全世界的輸出のための全米国際企業へと変わり、かつては自国で生産していたものを、「貿易の不都合な均衡」とそれに伴うインフレーションがあるために外国から買っているというこの不正を暴くためにも明らかな不調和による遠近法が必要であることは忘れるべきではない(このねじれにおいては、<我々自身の政府>がこうした国際的企業に仕え、法人として税金を削減してさえいて、一方我々に対しては、その親会社が最初は自国で作ったものを輸入するようにし、そうした仕組みを補強し、国の行政と軍事を整えるために税を使うということで、我々は二重に税金を取られているのである)。

 

 これは余談である。だが、多国籍企業によって自国の資源が「全世界的に」搾取される状況というのは真実であり、未来を「幻視的に」示している。というのも、テクノロジーがそれこそが理想とする一つの世界<である>と定めているからである。そして、そこでは、あらゆる<地域的>問題が<全世界的な>機会として見られ、労働者たちは必然的に、直接的な<地域>での関係において<全世界的な>問題に直面する。また、いかなる連合の代表も、政党が自らに対する忠誠を第一にもち、第二に構成員に対する忠誠をもっているように、「ごく自然に」分裂した忠節をもっており――投資すべき金銭が累積したところでは、連合の内部の人間は「ごく自然に」一般会員の意見などは聞かないし、連合の「団結」は「ごく自然に」こうした問題と並び立たないのである。だが、こう言ったからといって、真に共通な利害など存在しないと言っているわけではない。確かに、一般組合員たちは、責任がまわってきそうなときには「彼らの好きなようにやらせようじゃないか。私は彼らが自分が得るべきものを得させてくれるならそれでいい」というのが聞かれる。

 

 しかし、スローモーションの歪曲についての私の不満に関して言えば、個人的な感情をまったく感情のない機器によって読み取るというこの完全に分裂病的な二元性は、私の立場をより硬化させるのだが、驚くべきなのは、こうした対抗自然の領域からの貢献によって可能になった分析的な実例というのは、我々に新たな<美>の形として、<自然な>飛翔に伴う翼をあらわにしてみせる。そして、運動競技でのスローモーションでのリプレイは、分析的手腕の全くの濫用である。

 

 だが、またテクノロジーによって築かれたものをガーゴイルで埋め尽くされた巨大でグロテスクなカテドラルになぞらえてしまう陰鬱な姿勢の誘因となるものが数多く存在する。それらは雨水の噴出としてではなく、電気的科学的な汚染物質の絶え間のない豪雨として降り注ぎ、以前から指摘されているように(我々の独創的な発明というものが身につけては破る流行の変化であり、それは十中八九、人類がすべていなくなった後でさえ続くだろう)人類がその一つでも残しておく限り、未来への遺産として働き続けることになろう。

 

 しかしながら、テクノロジーにはある種の希望が埋め込まれており、それは資源やテクノロジーそのものがもつ力量によるのではなく、その使用と誤用とをどうにかしてうまく支配し、適切な運用を行なう全世界的な政治システムを希望してのことなのである。

 

                         ケネス・バーク

 

  1983年1月