一言一話 137

 

旧刊の全集で読んでいるので、この本に載っているかどうか。

弁明――正宗白鳥氏へ

 正宗白鳥 散文的な

 かういふロマネスクな題材をあつかひ、ロマネスクな結果を得まいとするに際して作家が見つける最も平凡な方法は、この題材をリアリスティックに判断する方法である。つまりこれを嘲笑してみたり、皮肉つてみたり、さては微苦笑してみたり等々の類をいふ。正宗氏のやり方は、まるで違ふ。第一、氏はこの題材を冷然と観察している処か、この題材のうちに溺れてすらゐるのである。溺れて率直に人生無常を詠嘆してゐるのだ。この作の各処に洩らされてゐる詠嘆的感慨はこの作の題材に等しく通俗陳腐なのである。

 では何がこの作品を救つたか、言ふまでもなく氏の荒々しい筆致だ。氏がその詠嘆的感慨を飽くまで手放しでずばずばと書き捨ててゐる有様が無類なのである。が、かういふ私の実感はこの作を丁寧に読まなかつた人々に伝へる事は殆ど不可能に近い。氏の文体は一体に目の粗いものであるが、この作の如きは目が益々粗いといふより一種荒々しい。この作中の教会堂を書いた処なぞは、最も立派だが、あそこの文章なぞは、名所案内の手もない翻訳に、靖献遺言の文句をぶち込んだ様なあんばいの悪文で、こゝもやつぱり私は非凡な味ひだと思ひつゝ読んだ。散文的な余りに散文的な表現から来る奇妙に純粋な味ひなのである。

散文というのは日本にもっとも根付かなかったものかもしれない。