花盛りの部屋ーーデレク・ジャーマン『テンペスト』(1979年)
脚本:デレク・ジャーマン
原作:シェイクスピア
撮影:ピーター・ミドルトン
音楽:ウェイヴメイカー
デレク・ジャーマンがすごいと思うのは、劇場公開第一作目が『セバスチャン』(1976年)であり、ダヌンツィオが世紀末デカダンスのなかで描き、三島由紀夫がグイド・レーニの筆になる殉教図を愛した、古代ローマのキリスト教殉教者を主題にしたものであり、俳優にすべてラテン語をしゃべらせる徹底ぶりだが、古代ローマといえば連想されるスペクタクルの大作とは打って変わって、海の近くの砂原で、十人弱の登場人物だけで、ホモ・エロティックな雰囲気の濃厚な空間をつくりだした。
第二作の『ジュビリー』は、十六世紀のイギリスを支配したエリザベス女王が、魔法博士であるジョン・ディーを呼び出して、妖精エアリエルの力によって、時空を超えて、おそらくは世界秩序が失われたあとの、パンク的なファッションとメディア王が支配するイギリスを地獄巡りのように徘徊する。
つまり、どちらの映画も、どれだけ費用がかかるのか見当もつかないような内容であり、はじめて映画を撮ろうとする者、たとえば、フランスのヌーヴェル・バーグが、街中に出てゲリラ的にカメラを回したのとは対照的に、舞台を完全なものにしようとするなら、どれだけお金をかけることもできるものであり、つまり、どちらの作品においても脚本も手がけたデレク・ジャーマンにとって、自分の芸術を費用のために譲る気などこれっぽっちもないのである。実際、この二作では、良くも悪くもある種のキッチュ的な、キャンプ的な手作り感があふれている。しかも、二作とも、ミュージシャンのブライアン・イーノや、モダン・ダンスのリンゼイ・ケンプが参加・協力しているのだから、よほどジャーマンは人間的に魅力のある人物だったのだろう。
そして、三作目が、このシェイクスピアの『テンペスト』で、ハリウッドが映画化するなら、特殊技術の見本市になるだろうような題材において、あくまでジャーマンの芸術的意志は明確であり、すでに三作目にして、前二作に見られたある種の安っぽさはなくなっている。
『テンペスト』はナポリ王とミラノ大公の乗った舟が嵐によって、孤島に流れ着く。その島は、かつて王や大公によって地位を奪われ、流刑されたプロスペロー(ミラノ大公の兄である)とその娘ミランダが、ここでも登場する妖精エアリアルとともに、学問と魔術を研究していた島であり、嵐を引き起こし、王たちの船を難破させたのは、エアリアルの力によるものだった。王たちとは別の場所に漂着した王の息子がミランダと恋に落ちる。
シェイクスピアの戯曲にある一番の敵役であるミラノ大公が、ナポリ王を島にいる怪物を使って殺害しようとすること、プロスペローの復讐心、王を巡る諸人物たちと出来事はばっさりと切り捨てられ、プロスペロー(ヒースコート・ウィリアムズ)とミランダ(トーヤ・ウィルコックス)とエアリアル(カール・ジョンソン)、そして王の息子(デヴィッド・メイヤー)が主要な登場人物である。
奇妙な象徴的文様が描かれた薄暗い壁、ほのかな光に照らしだされたミランダ(トーヤ・ウィルコックス)が美しく、ランプの揺らぎや窓から差し込む日の光が、立体的なものとして迫ってくる。それを支えるのが、プロスペローのオカルト(隠されたもの)の哲学であり、それは知識欲もあることながら、復讐のために探求されていたものであり、娘の恋愛とともに寛容を選んだ結末に訪れのは、隠されたものがなくなり、光の充満したこの上なく美しい花にあふれた祭典なのである。