奇妙な雰囲気――一尾直樹『心中天使』(2010年)

 

 といってもそんな場面は4,5回しか出てこないのだが、この映画を見て屋上が好きだったことを思い出した。要するに世界の生の断片を切り取って、ゆったりと周遊するような映画である。なにも事件が起きないと文句を言うのは間違っている。実際には我々は日々の慌ただしさを生きているだけで、なにも起きない日常というのは十分異常なことだからである。

 

 その昔、奇妙な味と総称された短編がはやったことがあって、いまでも版を重ねているのかどうかは知らないが、早川書房からロアルト・ダールやスタンリー・エリンといったひとたちの作品を集めて、「奇妙な味」シリーズとして集められていたことがあった。簡単に言ってしまえば、軽妙な語り口としゃれた、ひねりのきいた落ちを身上とするものだったが、この映画を見ていて、なんとなくそれらの短編を思い出した。

 

 といっても、奇妙な味の短編に似たところは全くない。そもそも味というほど強いものがここにはなくて、あえていえば奇妙な雰囲気の映画、森田芳光の『家族ゲーム』のようにあざといものではなく、それこそ我々の日常の誰にでも薄く覆っている皮膜の触感を感じさせるというだけで、要するに奇妙という言葉だけ欲しかったわけである。

 

 不思議なことに、こんな自主制作の映画のような題材に、萬田久子麻生祐未尾野真千子内山理名といった市川崑よりも豪華な(私にとっては)女優陣が並び、ついでに國村隼風間トオルまでついてくるのだから、これも奇妙。

 

 それにしても、『心中天使』という題名は、近松もののように心中が起きるわけでもなければ、アニメの『プラチナエンド』のように天使が登場するわけでもないので、まさに羊頭をかかげて狗肉を売る典型のようで、もっと悪いことにダサい。「しんちゅうてんし」とよむそうなのだが、さらにダサい。いっそ、「しんじゅうてんのつかいめ」とでも読ませた方が意味がないだけにせいせいする。

 

 ついでにいえば、愛すべき佳作といえるこの映画、落ちらしきものもついているのだがまったく蛇足である。蛇足でも蛇が龍のように立派な姿になるのならつけたかいがあろうというものだが、ただの蛇足にしかなっていない。食パンがパン焼き器から飛び出るところで終わるべきだった、もっともその場合、もっとバネの強いパン焼き器にする必要はあるが。