ブラッドリー『論理学』 13
[判断の始まりに必要とされる条件。21-22]
§21.観念が知識の対象となり、真と偽が判断に入り込んでいく過程を段階をおって詳細に述べることは困難であろう。この困難さの他に、常に生じる事実に関わる問題がある。ある発達の段階があるとき、判断は既に存在しているかどうかである。真と偽との区別は一般的に言語の習得と結びつけるのが正しいのだろうが、どこで言語が始まるのか述べることは困難である。そして、言語以前の段階においても、結果的に確かに感覚と観念との区別を示唆するような心的現象が存在する。
来るべき変化に対する予期を常に厳密な拠り所として用いることはできない。多くの場合において、現在に対立する未来の知識を誤って仮定することがあるのは明らかなようである。少なくとも、感情を伴った、あるいは感情によって変化したあらわれが、結果的にもっとも明確な観念と同じくらい実際的であるのは確かである。しかし、ある種の動物ではより強い徴候が存在する。獲物の捕獲に目に見えないような仕掛けが使われるとき(32)、異なった状況、いま実際にあるものと予期されるものとが心になければならないことは確かである。そして、欲望が満足されない場合には、対象に向かい合ったときのように単なる感情が魂中に行き渡るわけではない。現在の知覚とは相容れない欲望されたもののイメージがつきまとい、注意をひき、苦痛感は両者の違いが認められるまでは対照をより激しいものにするに違いないと思われる。我々がここで述べることができるのは、恐らく変化の外面的なしるしということになろう。動物を飼っているものならば、彼らが常にそしてますます用いることになるのが命令法だということを観察し損うことはあるまい。彼らは、少なくとも、なにを欲しているか知り、助けを予期し、それが応じられないときは驚いているように<思える>。観念が欠如し、感情が切迫しているために正常な状態が損われているために、こうした解釈はときに現象をねじ曲げることにもなろう。
しかし、もしそうだとすると、判断とは言語以前に発生しなければならず、人間に特徴的なものだとされなくなるのは明らかである。そして、言語が発達した後であっても、我々はしばしば判断なしで済ますのである。我々の思考の最も低次のものであっても、そしておそらくは最も高次のものであっても、言葉なしで行なわれることはあり、とすると、言葉が発達する前に、判断の<本質的特質>は既に存在していることになる。
我々はこのことから生じる議論には関わらない。判断ということで我々がなにを意味しているのかを知りさえすれば、それがどこに最初にあらわれ、どの動物が最初にそれを得たのかは我々の目的にとってはほとんど関わりのないことである。この問題は容易に解決することのできないものであるが、ついでにある考え方を示唆しておこう。ある動物の心のなかに、感覚にあらわれているものと同時にイメージが存在し、そのイメージは部分的には感覚と同一であるが、それと齟齬もし、あらわれとの関わりにおいて行動へ導くものであることを示しただけでは十分ではない。こうしたことが全てあったとしても、まだ<本質的特質>が欠けているからである。イメージは単なるあらわれとは見られず、まったく実在ではないか、感覚より実在性のないものだと見られるかもしれない。というのも、もしイメージが知覚との関わりにおいて捉えられると、両者は一つの連続した事実として理解されるかもしれないからである。獲物は追跡されかつ捕えられたものと<見られ>、実際の対象は欲望されたものに変わるよう思える。失敗がそれを不可能にしたときに、結局の所欠けているのはイメージと対象との知的同一化である。こうした論理的過程を離れても、我々は二つの現実が心のなかで衝突し、その戦いが感じられることがある。それに異議を唱え、放逐することはあるかもしれない。しかし、頭のなかにしかないあらわれに事実を従属させたり降格したりすることはない。この場合、判断が生じることはないだろう。
§22.こうした心理学の難問を詳細に議論することは興味深いことであるが、より確かなことに進んだ方が報いは大きいだろう。第一に、誤った観念の<保持>は現実との比較を促し、あらわれ、真、偽の知識へと導く。第二に、言語はそうした真偽の源ではないが、少なくともその対照を確実にし先鋭化する。集団をなす動物が観念を言葉にできたら、ある意味その言葉は思考よりも永続的なものであり、それが表現しようとした事実に対して自律したものとなろう。異なった個人の言葉にされた考えはときに衝突するものである。それらは互いに異なっており、単純な事実についても同じではない。嘘や欺瞞の濫用はどんな頭の鈍い者にも言葉や観念は可能だし真でもあり得るが、幻影で事実との関わりの全くない非実在的なものともなり得ることを理解させる。この点において、言葉と思考は他のものとは異なることが見て取れる。それらは存在するだけではなくなにかを意味するのであり、その意味だけが間違っていたり正しかったりする。それらはシンボルであり、こうした洞察が厳密な意味において判断を形づくる。
もう一度繰り返すが、初期の段階においては、イメージはシンボルでも観念でもない。それ自体が事実であるか、事実がそれを放逐する。知覚においてあらわれる実在は観念を自身に結びつけるか、単にそれを実在の世界から追い払う。しかし、判断は、観念があらわれだと認めてはいるが、にもかかわらずそれを性質づけようとする。それは観念を実在に配し、それが真であることを肯定するか、それが単なる観念であること、事実がその意味するところを排除することを告げる。事実でもある観念内容、現実にはなにも意味しない観念内容がそれぞれ判断においてあらわれる真と偽である。