幸田露伴を展開する 11

 

芭蕉七部集 (岩波文庫 黄 206-4)

芭蕉七部集 (岩波文庫 黄 206-4)

 

 

 芭蕉と杜国と白芥子との因縁はこれだけではない。貞享四年十月二十五日から翌年、五年四月中旬までの旅を記した『笈の小文』では既に保美に蟄居していた杜国を訪ね、旅を共にすることになったが、そのときの須磨での芭蕉の句は「(上略)上野とおほしき所は麦のほなみあからみあひて漁人の軒近きけしの花たえだえに見渡さる」という前書きのもとに

  海士の顔まづ見らるゝやけしの花

というものであり、同行した杜国の、後に『猿蓑』に収録された句は「翁に供せられて須磨明石にわたりて」の前書きとともに、

  似合はしきけしの一重や須磨の風

というもので、師弟であった短い期間の間に、これだけ芥子の花があらわれるのにはなにか理由があるのではないか、と露伴はいぶかっている。

 

 そもそも「しらけしにはねもぐ蝶の形見かな」の句が杜国に贈られたのは杜国がどのような状態にあったときなのだろうか。『芭蕉七部集』の巻頭をなす貞享元年に催された『冬の日』の歌仙では、杜国は荷兮らとともに、席に連なり、いまだ罪を問われることもなかっただろう。貞享四年には杜国はすでに罪が決まり、死を許されて三河の保美にいたことは芭蕉の『笈の小文』によって明らかである。だとすると、杜国が罪に問われたのは、貞享二年か、最大限に早くとも、貞享元年の暮れよりは後のことで、貞享四年の冬よりは前のことになる。

 

 ところで、『七部集』の第二部に当たる『春の日』は貞享二年に催されたが、歌仙の部分に杜国の句はなく、同席していなかったことが推察される。ただ『春の日』には歌仙のほかに、わずかに発句も載せられていて、「芭蕉翁をおくりて帰る時」と題して、

  この頃の氷ふみわる名残かな

という杜国の句がはいっている。この句は芭蕉が名古屋を出て、林桐葉を熱田に訪ねる貞享元年十二月十九日の作であろう。この日に芭蕉は桐葉のところで

  海暮れて鴨の声ほのかに白し

という句をつくり、桐葉がそれに

  串に鯨を炙るさかづき

と脇を付けたことから始まる歌仙があるからである。とすれば、十二月十九日にはまだ杜国は無事だったと言える。『春の日』に越人が「餞別」と題して、

  藤の花たゞうつふいてわかれ哉

の句が杜国に対してのものだったことは充分考えられる。役人もいるなかで、個人的に言葉もかけられない状況を考えると、万感の思いのこもったものであろう。越人は約100キロ離れた保美へ杜国を訪ねていった友誼に厚い人物でもあった。

 

 結局、杜国が歌仙に参加したのは『冬の日』だけだということになるが、佳句が多い。

 

  小三太に盃とらせひとつ諷ひ 芭蕉

  月は遅かれ牡丹ぬす人    杜国

 

  江を近く独楽庵と世を捨てゝ 重五

  我が月いでよ身はおぼろなる 杜国

 

  北の方泣く泣く簾おし遣りて 羽笠

  寝られぬ夢を責むるむら雨  杜国

 

これらほど人目につくことはなくとも、

 

  やうやく晴れて富士みゆる寺 荷兮

  寂として椿の花の落つる音  杜国

 

  縣(あがた)ふる花見次郎と仰かれて 重五

  げんげすみれのはたけ六反      杜国

 

  ひとの粧(よそひ)を鏡磨ぐ寒 荷兮

  花うばら馬骨の霜に咲きかへり 杜国

 

  霧に舟牽く人はちんば歟   野水

  たそがれを横に眺むる月細し 杜国

 

  真昼の馬のねぶた顔なり  野水

  岡崎や矢矧の橋の長きかな 杜国

 

  道すがら美濃で打ちける碁を忘る 芭蕉

  ねざめねざめのさても七十    杜国

 

などいずれも軽妙とも老巧ともいえるものであって、凡手には及ぶところではない。

 

幸田露伴を展開する 10

 

芭蕉七部集 (岩波文庫 黄 206-4)

芭蕉七部集 (岩波文庫 黄 206-4)

 

 

 

完本 風狂始末―芭蕉連句評釈 (ちくま学芸文庫)

完本 風狂始末―芭蕉連句評釈 (ちくま学芸文庫)

 

 

 白芥子の句がつくられたのは、春末夏初のころのことで、もちろん、熱田にある芭蕉の目にちょうど白芥子の花が入ったことは季節的に考えてもおかしいことはない。だが、芭蕉と杜国にある白芥子の縁はそれだけではない。

 

 前年の冬、芭蕉が名古屋にいたときに、荷兮、野水、重五、羽笠、正平などと五つの歌仙を巻いたとき、杜国が発句を請け負った巻で、重五の

 あだ人と樽を棺に飲みほさん

という句に、杜国が

 けしの一重に名をこぼす禅

と受けた。あるいはこの句のことが芭蕉の印象に残っていて、白芥子の句がでてきたとも考えられないことではない。その人の句をもって、その人柄を偲ぶことも珍しいことではない。

 

 たとえば、白芥子の一句前にある、「円覚寺大顛和尚今年睦月のはじめ遷化し給ふ由まことや夢の心地せらるゝに先ず道より其角が方へ申遣はしける」と前書きをつけられた一句に

  梅恋ひて卯の花拝むなみだ哉

とあるが、この句に「梅恋ひて」とあるのは、大顛の一句に、「礼者門を敲く歯朶暗く花明らかなり」とあり、ここでの花は梅であるので、それにちなんでつくられたことは間違いない。大顛は本来円覚寺の禅僧であるが、幻吁という号で、其角の『虚栗』の巻頭にもその句があげられており、同じく其角の『新山家』にも、「愚集みなし栗に幻吁と留めたる御句を慕へば涙いくはくぞや」という前書きで

  三日月の命あやなし闇の梅

という句をつくっているが、これもまた芭蕉と同じく、「礼者」の一句にちなんでいることは明らかである。

 

 こういうことがあるとすれば、歌仙における杜国の句「けしの一重に名をこぼす禅」が芭蕉の印象に残り、一座の称賛を得たようなことがあったならば、ちょうど芥子の花の季節が重なったことでもあり、その句を発想のもとにしたこともあり得る。

 

 ちなみに、歌仙での杜国の芥子の句は『冬の日』の「しぐれの巻」にあるものだが、わかりやすいとは言えない。ひとまず、前句である重五の

  あた人と樽を棺に飲乾さん

について、潁原退蔵・山崎喜好の評釈をあげておくと、

 

あた人はうき人といふに同じく、自分に物思はせる恋人の意である。前句(芭蕉の「襟に高雄課片袖を解く」引用者注)にすでに名妓の名が出たのであるから、こゝに恋句の捌を見せたのはさもあるべきである。襟に片袖を解くと言へば、いかにも物に拘はらぬ簡放闊達のさまがある。そこで「そなたと共にこの樽を呑み干して、そして死んだらまゝよ。そのまゝ樽を棺にして埋めてくれ」と、美妓に対し痛飲しつゝ笑嗷する酒客を描き出したのである。「樽を棺に」といふには、劉伯倫の故事もおのづから連想されるが、一句の情趣は塵車に乗じ、鋤を荷ふ一僕を随へたさまとはもとより異なる。

 

 

劉伯倫の故事というのは、露伴の『評釈冬の日』によれば、『晋書』巻四十九、劉伶伝に、一壺の酒を携え、家来に鋤をもたせ、死んだらこの壺に入れて埋めよと命じたとある。露伴の評釈ともっとも対照的な安東次男は、前句の芭蕉の句「襟に高雄が片袖をとく」が自らしたこととも、他者にされたことともとれることを見とがめ、この句の手柄はここで自他をはっきりさせたことにあるとしている。「前二句が同一人なら他・他・自、別人なら他・自他。自となるはこびである。」(『完本風狂始末』)そうしたことがはっきりしないと、連句はすぐに朦朧としたものになってしまうのである。

 

 そして、杜国の句「けしの一重に名をこぼす禅」にもまた、潁原退蔵・山崎喜好の評釈をあげておくと、

 

 『大鏡』に引く説に、「一休禅師のいまだ成道ならざる時、艶書によそへ芥子一輪を添て、本来の面目坊が立すがた一目見しより恋となりけりなどの俤にも似たり」とある。この狂歌は『一休咄』等にも見えるが、罌粟の花を添へたことは何に出る事か知らない。もとより一休に関する話は多く仮託に出で、出典を詮議するにも及ばない事ではあるが、前句の色即是空と悟りすましたやうな趣は、まことに一休禅師などの俤と見るにふさはしい。芥子の一重は恋と無常との象徴である。恋から釈教に転ずるのに、この花を案じ出した杜国の才もまた凡ではない。名をこぼすは名を零すで、浮名を流すのである。しかしその浮名によつて、大悟の禅僧の面目は更に躍如として現はれて来る。

 

 

 

 安東次男は前句を適当に取りなしてつけた「執成付」であることをまず指摘する。

 

婀娜びとを「芥子のひとへ」とはうまい。連れて、浮名ー流すを「こぼす」と遣ったのも成行とはいえうまい俳だ。

 

 

 

 露伴は、『評釈冬の日』で、一休の逸話などをいくつかあげたあとで、「前句豪宕狂逸の態なれば、一休如き不羈の禅僧のおもかげを仮りてこゝに点出したるなりと解せんことおだやかなるべし。」と締めくくっている。しかし、潁原退蔵・山崎喜好の評釈と同じく、一休に関する話は作りごとが多く、いまの自分の蔵書では芥子の花がどこから由来するのか確かめることができないと言っている。

音楽の時間 1 アンソニー・ブラクストン

 

イン・ザ・トラディション
In The Tradition

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Bossa Antigua

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Two Not One

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ジャイアント・ステップス<SHM-CD>

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ジャズ来るべきもの<SHM-CD>

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 私の世代はレコードからCDへの変化を経験している。CDが普及したのは1980年代後半から、90年代にかけてで、それゆえ、かろうじて私は中古レコード店を巡る楽しみを経験している。歌謡曲はテレビやラジオで満足していて、なぜ買ったのかまったくおぼえていないが、マイルス・デイヴィスの『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』かチャールス・ミンガスの『直立猿人』が最初に買ったレコードだったような気がする。ところが、マイルスのほうは、次に『ライブ・アット・フィルモア』を買ってしまい、そのときは電化マイルスを受けつけなかったもので、その他ピンク・フロイドとか、ノイズとかでレコードの記憶はぷっつりと途切れ、すでにCDの時代を迎えており、CDを買い始めた最初のころにアンソニー・ブラクストンを買ったように思う。

 

 大学のときには、フリー以降のジャズと現代音楽と民族音楽をでたらめに聴いていたので、アンソニー・ブラクストンの音楽になんの拒否反応もなかったが、夢中になって聞いていたというほどでもなく、夢中だったのはむしろスティーブ・レイシーやセシル・テイラーだったろうか。それでも、ブラクストンのことは何か常に引っかかっており、もやもやしたものを抱き続けてきた。

 

 グラハム・ロックの『フォーセズ・イン・モーション』は、1985年にイギリスをツアーで回っていたブラクストンのカルテット、(ブラクストンがサキソフォン、ピアノがマリリン・クリスペル、ベースがマーク・ドレッサー、パーカッションがゲリー・ヘミングウェイ)に同行した道中記に、ブラクストンを中心としたメンバーへのインタビューからなっている本で、その本のなかで、ブラクストンは、私がもっとも影響を受け、私のすべての音楽にその刻印が押されていると言えるのは、ポール・デズモンド、ジョン・コルトレーン、ウォーン・マーシュだけだと答えているのを読んで、ちょっともやもやが晴れたような気がした。

 

 ポール・デズモンドはデイブ・ブルーベックのカルテットのメンバーであり、ウォーン・マーシュはリー・コニッツとの共演があるいはもっとも有名なのだろうか、いわゆるウェスト・コーストの白人が中心になったクール・ジャズと呼ばれるものに属している人であり、マイルス・デイヴィスの『クールの誕生』は満遍なくジャズ界を牽引するマイルスの足跡として例外視されているものの、クール・ジャズというものは、ブルース衝動に欠けているものとして批評家やファンに軽視されがちなのである。

 

 私は特にクール・ジャズを好んで聴くことはなかったが、というよりは、モダン・ジャズ最盛期の50年代、正当派的な流れをほとんど追っていなくて、どちらかというとヨーロッパを中心にしたピーター・ブロッツマンとか、エヴァン・パーカーだとかを好んで聞いていて、特にアメリカともブルースとも関連づけて考える習慣がなかったもので、三人の名前を聞いてはっとしたのだが、このように三人をあげると、かえって正統的なジャズの歴史では格段に重要視されるコルトレーンが異質なのだが、そしてコルトレーンとブラクストンの音楽的な照応関係がまだ私にははっきりとしないのだが、とにかく、本人とは数回言葉を交わしたことがある程度らしいが、コルトレーンが死んだという知らせを聞いたときには父親を失ったように感じ、それから10年から15年の間、コルトレーンの音楽を聴くことができなくなってしまったそうだ。

 

 ウォーン・マーシュとはパリで行き違い言葉を交わしたらしいが、アメリカでは黒人に対する人種差別の歴史が長かったせいもあって、人種的な観点から音楽に評価を下すものも多く、ジャズこそが黒人の音楽であるという主張が枷になり、黒人にあるブルース衝動に欠けている、あるいは白人のジャズ・メンは黒人の音楽を搾取するものだとする白人に対する逆差別、その他歴史的な問題も複雑に絡み合っていて、つまりは正当に評価されていないことをブラクストンは大いに憤っている。また、黒人に内発的なものであるはずのジャズが知的に構成されているといって、ブラクストン自身が非難されてきたことも憤っている。

 

 ポール・デズモンドについては、彼は渡り綱を歩いて足を踏み外すことがなかった、彼は遅い演奏をしているように見えるが、実際には各瞬間に素早い決断がなされているのだ、といっている。

 

 オーネット・コールマンを最初に聞いたときのエピソードも面白い。

 

 グラマー・スクールにいたころ、私(ブラクストン)はデズモンドに熱中していた。音楽好きの友人が、このレコードを聞いてみろよ、音楽の行き着く先さ、といってかしてくれたのが、コールマンの『ジャズ来たるべきもの』だった。家に帰って聞いてみたよ、なんだこのサキソフォンは、デズモンドのような響きじゃないし、音じゃない、こんなものは音楽が進む道じゃない、なにかの間違いに違いない。レコードを返して、言ったよ、しっかりしろよ、いままで聞いたなかでも最低のクソだってね。それから数週間が過ぎた、変なレコードだったな、そこでもう一回かりてかけてみた、これは音楽じゃない、音楽のはずがない、って思って返した。そして次の週またかりにいったよ、そんな繰り返しが6ヶ月続いた。

幸田露伴を展開する 9

 

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

 

 

 ここからこの句に対する露伴の本論がはじまる。先に挙げた加藤楸邨の評釈に明らかなように、「白芥子」の句は、次の句、「牡丹蘂深くわけ出る蜂の名残哉」と同じ構造をもっていると思われる。旅の道中に面倒を見てくれた桐葉のところを牡丹とし、蜂を自分に例えたように、杜国のことを芥子に、自分を蝶に例えたのだろう。蝶が自ら羽をもぐなどということは、実際にはあり得ないことだが、詩歌の道は理を超え、霊的なものに入っていくことも珍しいことではないので、それは認めることにしよう。とすると、白けしの美しくあわれであるので、蝶が羽をもぐのだと解してもいいわけだが、それにしても、「形見かな」の五文字が「落着も無く見苦しく残りては、作家の所為とも覚え難」い。

 

 そもそもはじめの五文字を「に」で終え、「哉」で締める句では、中の七文字の最後の母音が「う」で終わるものが多い。芭蕉の句でも

 

 

 木枯に岩吹とがる杉間哉 

 夏山に足駄を拝む門出哉

 傘に押分け見たる柳かな

 吹度に蝶の居直る柳哉 

 梅が香にのつと日の出る山路哉 

 蒟蒻に今日は売勝つ若菜かな

 一年に一度摘まるゝ薺かな

 黄鳥に感ある竹の林哉

 

 

と「尖る」「拝む」「見たる」「居直る」「出る」「勝つ」「摘まるゝ」「感ある」といったように「う」の母音で終わっている。同じように、「しらけしにはねもぐ蝶の形見かな」は、俳句に習熟したものほど、「白けしに羽もぐ」で一息つけ、「蝶の形見かな」と読んで解釈するものが多いのも自然な勢いとして理解できる、と露伴はいっているが、私はこうした切り方を意識したことがなかった。こうした読み方から、「蝶の形見かな」が「落着も無く見苦しく残」るという感想が生じることになる。

 

 かくして、「白けしに」、「羽もぐ蝶の」、「形見かな」と区切られる句の評釈がはじまる。すると、最初に句から浮き上がってみえた「形見」という語を等閑にふしていたことに気づかざるを得ない。

 

 「形見」は、いまは記念、遺物の意味としてとられているが、もとは「かた」、つまり「形、象、像」という語と、「み」、つまり「見、想」という語が連結してできている。もののかたちは「形」、手に握ることはできないが心にのぼるもののかたちは「象」、物の形を写しのは「像」であり、目で見るのは「見」、心で観るのは「想」である。本来は語のままに、「かた」を「みる」ことであったが、一転して遺物の意味になった。

 

 それゆえ『古今和歌集』には

  

梅か香を袖にうつしてとゞめては春は過ぐともかたみならまし

 

とあり、『大和物語』では

かく帝もおはしまさず、むつましく思召しゝ人をかたみと思ふべきに

 

とある。

 

 これらは梅が香を春のかたみ、むつましく思った人を亡き人のかたみだといっているので、紅葉を秋のかたみ、残礎を古都のかたみとする歌なども、遺物や記念品とのみ解釈するのではなく、皆そのかたを見るべきもの、形を見られるものと詠じられているものとして味わう必要がある。そこに遺品であり、記念物としての意味が混じっていることはいうまでもない。

 

 『伊勢物語』には

  

いとまだき過ぎぬる秋のかたみには枝に紅葉ぞ散りかゝりける

 

とあり、源仲正の歌に

  

すみれさく奈良の都の跡とへば石ずゑのみぞかたみなりける

 

とある。これを逆に、散りかかる紅葉を秋のかたみといい、いしずえに奈良の都をしのぶともいえる。かたみは名詞として分類されているが、名詞に動詞が伴って成立した名詞なので、上手に使われるとそこに微妙な動きが生じるのである。

 

 これらのことを考え合わせると、「白芥子」の句は、「白芥子に」の「に」の字に無限の面白さを秘めていることがわかる。「白芥子は」とすると、単に、白芥子を、羽もぐ蝶の形見という形状に例えただけのことになってしまう。「白芥子に」とすると、清らかなもろく美しい花が、落ちてはいても落ちきってはおらず、そこに羽をもいだ蝶の生動を見て、ああその形見よと、嘆じている。

 

 人に贈る句が必ずこうした比喩や例えを用いているわけではない。芭蕉にはその前書きから、明らかに人に贈られた句が二句ある。「贈杜国」とされた別の一句、

  

笠の緒に柳わがゆる旅出かな

 

があり、「去年の侘寝を思ひ出て越人に贈る」とある

  

二人見し雪は今年も降りけるか

 

があるが、柳の句は送別か留別の情を述べたものだろうし、雪の句は二人で一夜を明かしたときの思い出に寄せたものである。

 

 つまり、白芥子の句は、加藤楸邨や潁原退蔵の評釈とはまったく異なり、白芥子を杜国に、蝶を芭蕉に例えた句ではなく、花を散らす白芥子に羽をもがれる蝶を見る句であり、白芥子も蝶もどちらも杜国を示しているのである。芭蕉がこの句を贈ったとき、杜国は既に罪を問われて自由を失っていたのではないかと露伴は推察している。

 

 おそらくは、大正以前においてもごく一般的な評釈だったと思われる白芥子を杜国、蝶を芭蕉に見立てる解釈を覆したこの文章は、しかし、まだこの評釈の序盤に過ぎないのである。

 

残影の庭

 私は観覧車に乗っていた。壁には砂漠の薔薇が描かれている。

 

 私は電車に乗った。車窓のなかを巨大な鉄塔が通り過ぎていった。むきだしの骨組みをあらわにした燈籠が、放射した鉄の先に吊されている。燈籠にあいた窓以外の場所には蔦が絡まり、幾本も寄りあわされた蔦が、観覧車を上空に引き上げているようだ。

 

 私は蔦を這い上がる蟻にまたがった。触覚が指が廻りきらないほど太く、油が塗られたようにぬるぬるしていて、振り落とされないためには一番細い体節の部分を太股でぎゅっと締め、後ろに手をまわして、ぷっくりと膨らんだ腹の部分に手をついて、身体を支えねばならなかった。

 

 私は船に乗っていた。岸辺伝いに進む定期船に過ぎなかったが、船に乗るやいなや、波が漣となって脚を伝わり、船に乗るといつでも、船酔いとはまるで異なる土から突き放されたかのような実存的な酔いに襲われるのを思いだして、うっかり乗り込んだことを後悔することになる。マストには酸漿の旗が翻り、潮に濡れた酸漿は皮が破れて実をのぞかせている。肉を伝わる漣が筋肉をほぐし、視野と聴覚を細かく揺らし、存在の揺らぎにいたる。高架線が波に上下し、放射状に広がった巨大な糸巻きが重力を巻き取っている。

 

 私はカモメに乗った。風の層で褶曲した風の坂をのぼり、カモメは雛のときの記憶を呼び起こすように羽毛を逆立てた。ついばんだ酸漿の穴がくちばしの奧に空ろな眼を開ける。

 

 私は飛行機に乗るであろう。青い空と雲を斜めに横切る翼が見える。身体が風をはらみ、垂直翼から伸びる糸が調律師の手によって強く張られる。

 

 私は駱駝に乗ったであろう。砂漠はセロフィンに染まり、その向こう側には燈籠のなかで女が糸を吐きだし繭づくりに専念している。

 

 私は卵形の世界に降り積もる雪になった。





幸田露伴を展開する 8

 

芭蕉語彙 (1984年)

芭蕉語彙 (1984年)

 

 

 

幸田成友著作集〈第1巻〉近世経済史篇 (1972年)

幸田成友著作集〈第1巻〉近世経済史篇 (1972年)

 

 

       8

 

 『白芥子句考』は、この句が何年に、どこでつくられたものかということから始まる。何年であるかは、『野ざらし紀行』の本文に明らかであり、貞享二年の初夏であることは疑いない。尾張の熱田でつくられたことも間違いなかろう。というのも、この句の前の句、「梅恋ひて卯の花拝む涙かな」は四月五日の日付のついた其角宛ての書簡にも書かれており、そこには、「草枕月をかさねて。露命恙もなく今ほど帰庵に趣き、尾張熱田に足を休むる時」とあって、江戸に帰る途上であること、また「白芥子」の次の句、「牡丹蘂ふかくわけ出づる蜂の名残かな」の前書きには熱田の俳人である桐葉のもとにあることが記されているからである。

 

 ここまでは考証の基本的な部分だと言えるだろうが、前書きの「贈杜国」を取り上げて、「贈」と「送」との相違を指摘するところにくると、微かに肌が粟立ってくる。つまり、贈るというのは物を贈ることであり、この句を贈ったのである。送るというのは人を送る場合をいうのであって、人を送って別れに臨んだときに、俳句などがあるときにはそれは送別の句である。逆に、人に送られて別れに臨んだときの俳句は留別の句となる。桐葉が『熱田三歌仙』で、「翁美濃路へ打越えんと聞えければ」と題して「檜笠雪をいのちのやとり哉」と吟じたのは送別の句であり、先に挙げた「牡丹蘂ふかくわけ出づる蜂の名残かな」と芭蕉が吟じたのは、贈られた者の留別の句だということになる。

 

 杜国の生涯についてはあまりわかっていない。ほぼ千五百ページに及ぶ宇田零雨の広範な事典『芭蕉語彙』においても、次のような簡単な記述があるだけである。

 

南杜国。蕉門の俳人。名古屋の富商坪井庄兵衛。通称彦右衛門。別号野仁。一説に藩の米切手を濫用して罪に触れ、赦されて後三河渥美半島の畑村に隠棲すといふ。元禄三年歿。

 

 

 露伴は、各書で南彦右衛門、飾屋平兵衛、壺屋平兵衛などと杜国が称されていることから、何らかの職人、あるいはもともと先祖がそうした職人であったことからついた屋号を受け継いだ者と見ている。いずれにしろ、芭蕉が名古屋に来たときには饗応し、芭蕉を師匠として迎えることができたくらいであるから、貧しい境遇の者ではなかったであろうと推察している。

 

 なにによって罪を得たのかは露伴も分からなかったらしいが、次のようなエピソードを紹介している。杜国は、いったんは死罪の宣告を受けたが、尾張徳川光友がその名前に記憶があり、「蓬莱の句をつくったものか」と家臣に尋ねた。たしかに、「蓬莱や御国の飾檜山」と年頭において、尾張を言祝ぐ句をつくっている。近臣は「そうです」と答えた。尾張候はすぐに死一等を赦し、渥美半島の先端である保美へ所払いとした。

 

 米切手というのは、蔵々の蔵米の保管証書のようなもので、本来は米と代金を直接にやりとりすることから来る不便さを軽減するものであったが、米が経済の大きな基本であったことから、証券として売買されることになり、また、年によって豊作のときもあれば不作のときもあり、財政赤字の藩によっては来年以降の米切手を売るものもあった。

 

 幸田露伴の弟で、大阪の近世経済史や日欧交渉史などに足跡を残した幸田成友は、「米切手」のなかでこう結論づけている。

 

 要するに、幕府は空米切手の弊害を知り、これを排斥せんがために種々の手段を採りたるが、文化の末年に至るまで遂に一たびも成功せざりしといふべく、その後は別に何等の手段を講ずることもなくして明治維新に至れり。

 

 

 同情してみれば、杜国は危ない投機に巻き込まれたのかもしれない。芭蕉は杜国を門弟のなかでも、特別に愛していたらしく、『笈の小文』では杜国が流された保美を訪れているし、杜国が死んだ元禄三年の翌年、元禄四年、陰暦四月の卯月のことを記した『嵯峨日記』の廿八日には、「夢に杜国が事をいひ出して、涕泣して覚ム。」と記している。『芭蕉語彙』によれば、「涕泣」という激しい悲嘆をあらわしたこの言葉は、ここでしか用いられていないようである。「白芥子」の句を「贈った」ことにも芭蕉の愛情の深さがあらわれている。

幸田露伴を展開する 7

 

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

芭蕉紀行文集―付嵯峨日記 (岩波文庫 黄 206-1)

 

 

 

芭蕉俳句新講〈下巻〉 (1951年)

芭蕉俳句新講〈下巻〉 (1951年)

 
芭蕉俳句新講〈上巻〉 (1951年)

芭蕉俳句新講〈上巻〉 (1951年)

 

 

        7

 

 貞享元年八月、芭蕉が四十一歳のとき、深川の芭蕉庵から出発し、故郷の伊賀上野(現在の三重県伊賀市)に帰り、西行法師の草庵の跡、大和を経て、名古屋で『七部集』の第一巻となる『冬の日』を同地の俳人たちと仕上げ、約三ヶ月滞在した後に、再び旅立ち、伊賀、奈良、京都、大津、熱田、鳴海をまわって、貞享二年四月に江戸に帰り着くまでの紀行が、芭蕉の最初の紀行文『野ざらし紀行』である。

 

 千里に旅立て路糧を包ず。三更月無何入といひけん、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月、江上の破屋を立出るほど風の声そゞろさぶげなり。

  野ざらしこゝろに風のしむ身かな

 

 

が冒頭の部分であり、最初の「野ざらし」の句から『野ざらし紀行』と呼ばれる。また、貞享甲子に出発したことから『甲子吟行』とも呼ばれている。約八ヶ月の紀行であるが、十ページほどの短いものであり、大半を前書きを伴った句が占めているので、内容的にいえば、「吟行」といった方が正しいかもしれない。

 

 この『野ざらし紀行』の最後の部分、最後から四句目に「贈杜国子」と前書きをつけた次の句がある。

  

しらけしにはねもぐ蝶の形見かな

 

 前書きを含めて、どの版本に基づくかによって、「しらけし」が「白罌粟」になっていたり、「はね」が「羽」、「かな」が「哉」になるなど表記が様々に異なるが、ここでは上の表記に従う。

 

 一般的な評釈をあげておこう。まずは加藤楸邨の評釈。

 

別離の句であつて対詠的であるが、全句比喩の上に立つてゐる。実際としては、羽をもいだりすることはないのであるが、白罌粟が蝶のとび離れるときひらりと散るさまを、蝶が羽もぐ様に見立てたもので、実際そんな景を見て作つたものであるかもしれない。談林時代に比喩が多かつたが、これなど、姿をかへて美化されたもので、その脈は曳いてゐる。比喩的でありながら、哀切な別離の情が出てゐるのは、真情がこもつてゐたからであらう。然し、何といつても、この比喩を通つてゐるためにそれだけ感銘を弱めてゐることは間違ないところである。私には次の、桐葉に別れる、牡丹蘂ふかくわけ出づ蜂の名残かな、と共に、技巧が過ぎてゐて従へぬ句である。(『芭蕉講座 発句篇(上)』

 

 

と否定的である。

 潁原退蔵は前半で杜国と芭蕉の関わりを述べた上で

 

紀行によれば名古屋から熱田に去る時、杜国の許に残した留別の吟らしい。今まで白罌粟の花に遊んで居た蝶が飛び去らうとして別離の情にたへず、せめての形見として羽をもいで残しておくといふのである。「羽もぐ」といふのに悲痛の情が籠つて居る。言ふまでもなく白罌粟を杜国に、蝶を芭蕉自身に喩へたのである。『師走囊』に上五を「日くらし」の誤りであらうとして解し、『句選年考』にあげた一説に、「白芥子は」とすべきであると言つて居る如きは、固より一顧の価値もない僻説にすぎない。(『芭蕉俳句新講 下巻』)

 

 

と評している。

 

 ところで、この句について、幸田露伴に『白芥子句考』(大正十年)という考証がある。