一言一話 3

 

 

デカルトの蜜蝋

 もし蜜蝋が変化するなら、私も変化するのである。私は私の感覚といっしょに変化する。そしてこの感覚は、私がそれを思惟しているその瞬間には、私の全思考にほかならない。なぜなら、感覚するとは思惟すること、コギトのデカルト的な広い意味において思惟すること、だからである。しかしデカルトは、実体としての魂の実在性にひそかな信頼をよせている。コギトの一瞬の光に眩惑されて彼は、われ思うの主語であるわれの永続性を疑ってみることはしなかった。だが、かたい蜜蝋を感覚する存在とやわらかい蜜蝋を感覚する存在とが、なぜ同一の存在であるのか?一方では、この二つの異なった経験において感覚される蜜蝋が、同一の蜜蝋ではないとされているのに。もし仮に、コギトが受身の形に言いかえられて、私によって思惟されてあるcogitatur ergo estとなっていたとしたら、能動的主語は印象の不確かさや曖昧さといっしょに霧散してしまったであろうか?

 蜜蝋は映画やドラマで身分の高い人間が手紙に封をするものを思えばいいだろう

もっとも両者が厳密に同じものなのかどうかはわからない

蜜蝋で蜜蝋でカタツムリをつくる夢をみたら

タツムリの這いずった跡だけがのこった

ブラッドリー『仮象と実在』 95

   ... (誤りの問題。それはジレンマを含む。)

 

 誤りは疑問の余地なく危険な主題であり、その主たる難点は次のようなものである。我々は一方において非存在と実在とのあいだにあるものを受け入れることはできず、他方においては、誤りは頑なにそのどちらであることをも拒むのである。しつこく第三の立場、どこにも存在しないように見えながら、どこかに場所をしめるという立場に止まろうとする。誤った現象には、実在ではないなにかが実在に帰されている。しかし、もし現象が実在でないなら、それは無であり、誤った現象ではない。他方において、もしそれが間違っているなら、何ものかではあるのだから、真の実在でなければならない。このジレンマは一見したところ解決不可能であるかに思える。或は、別の言葉で言えば、存在する現象はどこかに落ち着かなければならない。しかし、誤りは、虚偽であるので、絶対に属すことはできない。また、有限な主体に属すこともできず、というのも主体のすべての内容は絶対の外に出ることはできないからである。もしそれができたとしても、それは無でしかないだろう。かくして、誤りは住みかがなく、存在する場所がない。にもかかわらず、存在する。こうした理由から多くの疑問と難点をもたらすのである。

一言一話 2

 

 

 ミサは立ちすくんだままおどろくひまさへなくわたしの腕の中に抱き緊められてしまつた。そのときミサはちよつと瞼をそよがせたやうに見えたが、それはわたしのふれえたかぎりでは諦めとか愁ひとかいふ身内の感情をあらはしたものではなく、ただ澄みわたつた秋の大気の中にゐて微風が眼に沁みたかのごとくであつた。 石川淳「佳人」

 

 

ミサは「わたし」が同居しているユラの姉で、石川淳には珍しいリリシズムが澄み渡った秋の大気のように現前している。

ブラッドリー『仮象と実在』 94

. 第十六章 誤り

 

      ... (よき反論は単に説明できないなにかではなく、矛盾する何ものかに基づいてなされねばならない)

 

 我々は我々が受け入れざるを得ない絶対の輪郭を描き、思考の一般的な道筋を指摘してきた。次には、一連の手強い反論に向かわねばならない。もし我々の絶対がそれ自体において可能なものだとしても、事物がそうであるように可能ではないと思われる。両立しがたく思われる否定することのできない事実があるからである。誤りと悪、空間、時間、偶然と可変性、「この」、「私の」といった唯一無比の個物――これらすべては個別的な経験からは外れるように思われる。それらを片づける、或は説明するには、どの道筋かを辿ることが必要だが、両方をいっぺんに辿ることは不可能に思われる。このことが明瞭に理解されるか私に不安に思われる点である。私はこのように提示されるジレンマを斥け、二つの道筋のどちらかを選ばねばならないということを否定する。私は諸事実があることを完全に認め、その起源についてこれっぽっちも説明しようなどとはせず、そうした説明の必要を断固として否定する。第一に、有限な存在が属する宇宙がどのように、そしてなぜ現在のようなものであるのか示すのはまったく不可能である。それは実際に扱える部分ではない全体の理解を含むこととなろう。それは絶対の観点から有限を見ることを意味し、それが達成された暁には、有限は変形され、破壊されるだろう。そして、第二に、こうした理解は完全に不必要なものである。我々はすべてについて考察するか、それができなければそれを絶対についての説の反駁として認めるか、この二つから選択する必要はない。こうした二者択一は論理的ではない。一般的な根拠に基づいた広範囲にわたる理論を反駁しようとするなら、それによって説明されない事実をもちだしてみても無駄なことである。説明が不可能であることは、単に個々の情報の不足を示すものかもしれず、理論の欠陥を認める必要はないからである。事実は、それがなんらかの部分と両立不可能であるときに、反論となる。それが外面的なものに止まる場合、細部における不完全さを示しはするが、原理の間違いを示しはしない。我々が理解できないということによって一般的原理は破壊されない。我々が実際にそれを理解し、理論によって採用されたものが不整合で矛盾すると示すことができたときにのみ破壊されるのである。

 

 そして、これがここでの実際の問題である。誤りと悪とは、我々が細部において見て取ることができない部分があるという限りにおいては、我々の絶対的な経験に対する反証ではない。その本質が絶対と衝突すると理解されたときに初めて反証となる。問題はその理解が正しいかどうかである。ここで、私はようやく自信をもってこの問題に加わることになる。この問題において、知識による誤った説得が行なわれているなら、それは反論する者の側にあると私は主張する。私は、我々が一般的な根拠として受け入れている絶対と両立不可能であることを示せるような有限のかたちについてなんら知ることはないと主張する。この点についての否定は、実際には無知でしかないところに知識を仮定することによってなされるのである。もしいるとするなら、全能を主張しているのは反論者の方である。どちらについても知悉しており、その両立不可能性を断言することで、無限と有限の両方を理解していると主張しているのである。私には彼が人間の力を過大評価しすぎていると思える。有限が絶対と衝突しているかどうか我々には知ることはできない。もしそれが不可能で、我々の理解する限り、両者は一つであり調和しているなら――我々の結論は十分に証明されたことになる。というのも、我々には実在はある種の性質をもつという一般的な確信があり、また一方では、その確信に反しては、無知以外のなにも提示できないからである。そして、それに反対してはなにも提示できない確信は受け入れねばならないものである。第一に誤りから始めよう。

一言一話 1

 

 

たぶん完全な幸福というものは、われわれ人類の存続など許さない怪物かもしれませんね。

バルザック『田舎医者』新庄嘉章・平岡篤頼

 

ここで「幸福」といわれているのは、魂と魂とが結合するような完全なパートナーに巡り会うこと。

ブラッドリー『仮象と実在』 93

    ... (我々の言う絶対は物自体ではない。)

 

 こうした絶対が物自体なのではないかという反論については、反論者が自分でなにを言っているのか理解しているのかどうか疑わざるを得ない。すべてを抱握する全体がその名に値するものであるかどうか、私の推測を越えている。また、差異がこの全体のなかで失われるのだとしても、いまだ差異はそこに<存在し>、それを外に出さねばならないと主張されるのだとしたら――この非難には、思慮のない混乱だと非難し返さなくてはならない。というのも、差異は失われるのではなく、全体のなかにすべて含まれるからである。そうした幾つかの別々の差異<以上のものが>そこに含まれるという事実は、そうした差異がそこにまったく存在しないということを証明するものではない。ある要素が経験の全体のなかで他の要素と一緒になったとき、その全体において、またその全体にとって、その要素の特殊性は存在する必要がないのである。しかし、にもかかわらず、各要素はその部分的な経験において、特殊性を有していることができる。「よろしい、だがそうした部分的な経験は」と反論されるかもしれない、「結局のところ全体からこぼれ落ちることになるだろう」と。そうした結果にはならないことは確かである。部分の自己意識、それが全体とは対立する自己意識であったとしても――それらはすべて一つの経験のなかに吸収され含まれるだろう。すべての自己意識は、自己意識としては変質し、抑圧されるが、調和のうちに抱握されることとなろう。我々はそうした経験を自分でつくりだすことができないことは私も認める。それが細部にいたるまでどのように満たされるのか想像することもできない。しかし、それが実在だと言い、一つの分割されない理解という生きた体系のなかである種の一般的な性質が結びついていると言うことは我々の力の範囲にある。この絶対の実在を主張することが続く部分で正当化されればと希望している。これで(私に失敗がなければ)、少なくとも思考の観点から見れば、自己矛盾から解放されたことを示すことができたであろう。他者を思考することの正当性は、物自体を説明し、葬り去ることの助けとなるだろう。

ブラッドリー『仮象と実在』 92

      ... (我々の言う絶対は物自体ではない。)

 

 こうした絶対が物自体なのではないかという反論については、反論者が自分でなにを言っているのか理解しているのかどうか疑わざるを得ない。すべてを抱握する全体がその名に値するものであるかどうか、私の推測を越えている。また、差異がこの全体のなかで失われるのだとしても、いまだ差異はそこに<存在し>、それを外に出さねばならないと主張されるのだとしたら――この非難には、思慮のない混乱だと非難し返さなくてはならない。というのも、差異は失われるのではなく、全体のなかにすべて含まれるからである。そうした幾つかの別々の差異<以上のものが>そこに含まれるという事実は、そうした差異がそこにまったく存在しないということを証明するものではない。ある要素が経験の全体のなかで他の要素と一緒になったとき、その全体において、またその全体にとって、その要素の特殊性は存在する必要がないのである。しかし、にもかかわらず、各要素はその部分的な経験において、特殊性を有していることができる。「よろしい、だがそうした部分的な経験は」と反論されるかもしれない、「結局のところ全体からこぼれ落ちることになるだろう」と。そうした結果にはならないことは確かである。部分の自己意識、それが全体とは対立する自己意識であったとしても――それらはすべて一つの経験のなかに吸収され含まれるだろう。すべての自己意識は、自己意識としては変質し、抑圧されるが、調和のうちに抱握されることとなろう。我々はそうした経験を自分でつくりだすことができないことは私も認める。それが細部にいたるまでどのように満たされるのか想像することもできない。しかし、それが実在だと言い、一つの分割されない理解という生きた体系のなかである種の一般的な性質が結びついていると言うことは我々の力の範囲にある。この絶対の実在を主張することが続く部分で正当化されればと希望している。これで(私に失敗がなければ)、少なくとも思考の観点から見れば、自己矛盾から解放されたことを示すことができたであろう。他者を思考することの正当性は、物自体を説明し、葬り去ることの助けとなるだろう。