白銀の図書館 9 プラトン的荒野〜河上徹太郎について Ⅰ

 

 河上徹太郎は日本では他に類をみないプラトン的な批評家である。随伴したと思われている小林秀雄が、常に名人や達人、あるいは名品や本物といった個物を求めていたのとは対照的である。

 

 プラトンは「第七書簡」のなかで、イデアへの階梯を示している。イデアに到達するには、次の四つ、つまり、第一に「示し言葉」、第二に「定義」、第三に「模造」、第四に「知識」を乗り越えることが必要である。例えば円を例に取ってみよう。そのものを指すのに我々は「えん」と発音する、それが示し言葉である。中心から末端までの距離がどの方向においても等しい、というのが定義になる。図に描かれたり、紙を丸めてつくられるのが模造である。示し言葉、定義、模造が精神のなかに入り、知識となる。知識と最も近しいところにあるのが「円そのもの」、つまり、円のイデアである。知識は、知覚された円と同様不完全なものでありうるし、科学や文学、あるいは想像力において、円は様々に変換され、本来の姿が見失われることがある。だがそうした、知覚の不注意や精神の激しい変換の背後には必ず「円そのもの」イデアがあってそれを見失うべきではない。その上、河上徹太郎は、プラトンのように哲学者ではなく、認識論や存在論を志したわけではないので、「イデアについて」という副題をもち、いまだ若いソクラテスが、大先輩であるパルメニデスとゼノンと対話をする『パルメニデス』において、曖昧なまま放りだされていた問題、「毛髪、泥、汚物その他およそ値うちのないつまらぬもの」にもイデアは存在するかといった問題にも関わりあう必要はなかった。

 

 河上徹太郎の関心は、いかに理念、型を摘出するかにあったので、晩年に向かって歴史へと関心を向けていったにしろ、歴史家のマルク・ブロックが述べたように「修道僧マルチンの経験したような、魂の危機が含んでいた永遠なものを、決して否定するわけではないが、歴史家はその中心人物であった人(ルター)の運命と同時に、その環境をなす文明の運命の曲線上の時期を明確に定めてはじめて、それの正しい報告をなしえたと考えるだろう。」(讃井鉄男訳)と考えたわけではなく、文明と個人との交叉点を捉えようとするものではなかった。例えば、『有愁日記』の冒頭二章は「歴史について」と題され、第一次世界大戦のことから書き起こされているにもかかわらず、個別具体的な事件にはなにも触れず、ヴァレリー論に移り、歴史否定に落ち着く。

 

 如何にもヴァレリーの見通しは独創的で、精妙かつ巨視的である。然し彼の歴史不信はもつと本質的なところにある。それを私が今までいつたことから要約すれば、(文学)作品は完璧であり得るから、作者(人間)の原因となり得る。然し歴史は完璧ではないから、人間を創れないのである。

 この結論は次のやうにもいへる。完璧でないとはどういふことかといふと、美しくないといふことである。この美しいといふことは、ヴァレリーが、躍り子の不安定な動作、競馬馬の優雅な肢体、くらげの泳ぐ姿、貝殻の形などにしばしば認めてゐるそれである。それが文学にはあるけど、歴史にはないのである。

 

 

 河上徹太郎唯一のモノグラフである『吉田松陰』にしても「武と儒による人間像」と副題にあるように、ある人間の型を抜きだすことが主眼であり、松蔭の行状を年代順に追っているにしても、長州における維新史、維新という歴史の転換と、それに吉田松陰という個人がどう交叉したかはさしたる関心が払われることはない。

 

では武士の職分は何かといへば、主人に仕へることである。どうして仕へるかといへば、今の場合主人を諫めることである。全く松陰の書いたものを読むと、臣といへば君を諫めるだけが忠のやうな気がする。では何を諫めるかといへば、主人の、ひいては自分たち代々の臣の、六百年の罪を償ふことである。(中略)次に、自分が幽囚の身で死ねば必ず一人のわが志を継ぐ士を残しておくといふこと、これも松陰の活きた覚悟である。これは獄死する者のただの腹いせではない。教育者松陰といふ最も大切な性格がここから割り出されて来る。松下村塾の学習が決して教壇からの講義ではなく、いはばソクラテス流の学習が決して教壇からの講義ではなく、いはばソクラテス流の「産婆術」であつたことは余りにも有名である。松蔭は「一粒の麦」となつて、誰かの中によみがへりたいのだ。その方が自分の思想がより勁くこの世に生きることを信じた。彼が弟子を愛したことはこれ又有名だが、それもよく相手の個性を見抜き、その成熟を楽しむといふ形で行はれたのは、相手が生きなければ自分は空しく死ぬことになるといふ強烈な自我の発露である。

 

 

 

 冒頭近くに書かれたこのモチーフが、様々に変奏されるのが『吉田松陰』という本である。