白銀の図書館 11 プラトン的荒野〜河上徹太郎について Ⅲ

 

流れる (新潮文庫)

流れる (新潮文庫)

  • 作者:文, 幸田
  • 発売日: 1957/12/27
  • メディア: 文庫
 

 女主人は「演芸会」のために毎日清元の練習をしている。その会とは「みんなが力を協せて、わが土地のためによそ土地に負けない名舞台・名演技をしようといふのではなくて、たがひに意地の張りあひひぞりあひをして、たとへ対手を殺しても自分だけはのしあがりたいといつた、凄まじい競りあひのやうな感じをもたされる」ものである。女中である梨花も当然主人の稽古を毎日のように聞き、その出来不出来に気持ちを奪われるようになっていくが、主人の声の「我慢ならないいやな調子」はなかなか消え去ることはない。

 

 総浚へにあと幾日もないといふ朝だつた。けふだめなら所詮もうだめなやうな気がして聴いてゐた。味噌汁の大根を刻みながら、聴くと云ふよりもむしろ堪へてゐた。もつともいやなそこへ来かゝる。節はこちらももう諳んじてゐる。いやな声、へたを期待してゐるへんな感じだつた。それがさらつと何事もなく流れて行つた。できた!と思つた。そしたら、ぐいと手応へがあつた。包丁が左の人差指と中指の第二関節の皮膚を削つてゐた。白い大根が紅く少し汚れてゐて、右手が左手を一しよう懸命きつく掴んでゐ、痛さだかなんだか涙腺はゆるんで生温かい。手錠をかけられたやうな、左右くつついた手を挙げ、割烹着の上膊で顔のはうを動かして眼をこすつた。日向で見る絹糸よりつやゝかに繊細に、清元の節廻しは梨花の腑に落ちて行つた。これは湧く音楽ではない、浸み入る音である。大木の強さではなく、藤蔓の力をもつ声なのだ。人の心を撃つて一ツにする大きい溶けあひはなくて、疎通はあつても一人一人に立籠らせる節なのだ。すぐそこの茶の間で大柄にぽつたりしたひとが唄つてゐるとわかつてゐても、痩せぎすな人が遠いところで唄つてゐるやうにおもはれて不思議である。肌にぺと/\して来るいやらしさが脱けて、遠く清々しい。梨花の耳が通じたのではなくて、主人の技が吹つ切れたとおもふ。一ツこゝで吹つ切れたのだから、このひとの運は二ツ目三ツ目とよくならないものだらうか、そんな望みが湧いてくる嬉しさである。

 

 「すぐそこの茶の間で大柄にぽつたりしたひとが唄つてゐるとわかつてゐても、痩せぎすな人が遠いところで唄つてゐるやうにおもはれ」たというのが面白い言い方で、生な生理に密着した表現が芸という形式を見いだしたと言い換えることができよう。だが、同じ人間が同じ声を出しているというのに、昨日と今日、「我慢ならないいやな調子」と「遠く清々しい」声はどこにその違いがあるのだろうか。