ケネス・バーク『歴史への姿勢』 28

 ネロのような人物に向けられた道徳的非難の多くは、こうした争いから生じたものだと思われる。ローマの建築学的発展に関する帝国の政策は、不動産への投機家の理想と完全に一致するものではなかった。この怒りに満ちた階級に雇われ、その文体を駆使した文学者の声は、いつも通りに道徳的な憤りの声を上げることで支払いを受けていたのである。(この状況は、現在起こっている政府の住宅政策に対する事業者からの反対を思い起こすことで理解することができる。そこには道徳的憤りについての記録も欠けてはいないのである。)ついでながら、スエトニウスのような異教徒でさえ、道徳的な形象を扱うときには、新興のキリスト教の道徳的パターンをおおむね正確に反映しているのは興味深いことである。こうした密接な関係があるために、キリスト教の価値観が勝利を収めたときに、帝国の「永続性」は当然のこととされたのだった。勃興するキリスト教道徳によって「手早く色づけ」がなされていたのである。

 

 公的建築は皇帝の建築物なので、皇帝の「個人的な」浪費は必然的に、帝国を通じて建設された巨大浴場や円形劇場のように、集団的な特徴をもっていた。強力な官僚のピラミッド構造が固まる以前、大規模な個人的事業が存在しており、税金が規則正しいものだったときには、共同体はあるしっかりした見通しのもと計画を立てることができた。事態が緊迫してくるのは、初期のギリシャでのように、公的な出費の肩代わりが富裕な市民にまかされ、「栄誉」とひきかえに巨大な出費が要求されるようになったときである。皮肉なことに、財政状況が逼迫すると、公的栄誉は、富裕なキリスト教徒やユダヤ人に降りかかるある種の罰となるまでに、その意味合いを巧妙に逆転させるのである。*

 

 

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 ストア派のコスモポリタニスムは、ローマの経済を流通の面から最も関心をもって捉える人たちによって発展させられた。別の言葉でいえば、それは国家哲学だった。人文、人道など、社会における人間(自然における人間、未来における天上の市民としての人間ではなく)に主要な力点を置いていた。奴隷制の困苦を和らげ、決してそれを「正当化」はしなかったが、進歩に必要な条件とみなしていた。もちろん、最終的には、ストア派の受容の枠組みは、奴隷ではない自由階級の消費が増え、奴隷であった、あるいは有していた教育者でさえ、特権階級のしるしを得てそれと同一化するようになったので、渋々ながら奴隷を「認め」てしまった。完全な治療を行なうには、人間にはあまりに限界が多く、問題はあまりに大きいことがわかる。しかし、ストイシズムは本質的に人道主義と協同しているものなので、奴隷のない状態、その方向は見ていたのである。

 

 今日、我々はノスタルジーをもって感銘し、憂鬱にもなる。経済の全体はあまりの大きなものなので、商業の流通ネットワークに見合うだけの実際的なコミュニケーションの枠組みをつくることができない。異なった文化の寄せあつめを伴った主観主義に直面し(それらがすべて一つの経済的枠組みに一緒になっている)、不可知論か折衷主義によって混乱を否定的に吸収することしかできない。皇帝はローマ特有の神々のイメージをもたらすことで、征服した部族との関係を堅固なものにすることができた――しかし、そうした主要な宗教的シンボルの機械的な移し替えでは、地方に深く根ざす習俗は統合されない。

 

 かくして、ストア派によって発展させられたコミュニケーションの枠組みは、抽象的で表面的なものだった。それはシェイクスピアとその観客との親密な調和よりは、電話でのやり取りに働いているようなものだった。微妙な発音で意味が伝わる部族の言葉であるよりか、手旗信号による交信だった。それは広範囲にわたる行政上の目的のために計画された公的な哲学だった――教養ある支持者は支配階級の消費のために観念を管理し、調達するものでもあったのである。

 

 肉体的な労苦を伴う卑しい身分から解放されたり、それが「正当化」されることは、そうした労力から生まれる活力を失うことでもある。「労働」はものを持ち上げることではなく、ものが持ち上げられているのを監督することになる。坐り仕事ばかりで、余暇も坐って過ごされる今日、ある種のノスタルジアが生じているのは間違いないが、筋肉や器官といった身体的なものの表現が否定されることで、未熟な失敗に終わっている(身体的な組織では、能力があるのに表現がされないと「欲求不満」になる)。こうした負の要素が、国家の要求に対して役立つという抽象的な利点の前に屈服することで帳消しにされた。

 

 兵士、奴隷、教育のない者、激しやすい者にとっては(彼らは抽象の、空虚な、「疎外された」もののノスタルジアでは満足することができない)、その教義は十分ではない。そこで、そうした人間の間に、もう一つの普遍的な教義であるキリスト教が起こった。それは、文化的な相互作用の混乱は感じられているが、統合についてのローマ特有の姿勢では弱いと思っている、より小さな貿易の中継点において好意をもって受け入れられた。ストア派の絶対、国家の崇拝では、「親近感を与える」絶対、単一の個人的な神が呈示され、それとともにもっとも巧妙な、商業上の処理、甘言、言い争い、駆け引きを息抜きとしてすることができた。愛餐、アガペーのような儀式では、行政を協同で担当するストア哲学が無視した、より深い肯定的な魔術が発達した。一つの儀式で、様々なものが一緒になる。他の人間、そして超自然的な力との集団的な融合、罪の浄化、神を象徴的に食することで力を集中すること(あらゆる部族がなんらかの形で利用している儀式だが)などである。また、後期ローマの葬儀協会の多くは、原始的な形の保険組合で、死に際しての金銭的な用意をする結束の固い集団だったが、キリスト教福音主義と共通する部分も多く、入信者が多かった。

 

 我々の歴史的ドラマは次の二つの主題を強調しなければならない。ヘレニズム的なストイシズムの衰退と、キリスト教福音主義の勃興、そのそれぞれの世界観は、パークス・ロマーナによって発展したローマのコスモポリタン世界に合っていた。そして、ストア派の弁論のパターンは法に関するものを体系化したが、福音主義は、幾分曖昧なよりよき日への保証が、いま現在の実践にかかっているということを論じる際に、それを借用したのである。もし第一幕を力強い幕引きにしたいなら、神的なものと世界とが入り混じるというプルデンティウスの描いた図を再び述べ、蛮人によるローマの獲得という急変を持ちだすことができる。静かな幕引きにしたいなら、更に二つの出来事がつけ加えられる。

 

 一つは、コンスタンティウスによる「キリスト教という異教」の公的な認可である。もう一つは、身分と労働者の住居を固定するという皇帝の命令である。税の負担が重いために、定住しない者が増えていた。ある交易に携わる労働者に高い税金を課すると、交易場所を変えたり、どこか別の場所に移動するので、税金は難しい問題となっていた。法律上の命令によって、定住が決められる必要があった。しかし、そうした決定によって定住が官僚化されると、急激な経済的圧迫が移動への傾向を活発に刺激し、人々はどうにかして「引き締め」を行なわねばならない。異なった方法が必要とされる。そこに、多分に必要とされていた物質的な自由の欠乏を補償する「精神的自由」を提供するキリスト教がもたらされた。それによって、人は一個所に縛られていながら、遠くをさまようことができるようになったのである。

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*こうした慣例の意味合いの転換は、歴史の曲線を解釈する上で、常に非常に重要な手がかりを与えてくれる。人類学者によって注目された古典的な例は、結婚で男性に強要されるもてなしの意味の転換である。本来は、所有関係などにおける母系制の段階において、男性が結婚の契約の一部として、花嫁の家族に長年の間仕えることを誓うという習慣からきている。しかし、牧畜の勃興によって(性別の相違による原始的な分業では、本来男性は狩りをし、女性は主に農業に従事していたが、牧畜は男性によって行なわれる)、男性の系統が「金銭」を所有することでそうした奉仕の意味合いが変化した。

 「牛」は標準的な交換の単位となった――最初の「インフレーション」は、現実の牛が象徴的な牛に取って代わられ、貨幣が牛の名目上の価値を持ったときに起こったと言える。ここでグレシャム法則が最初に働いたのであって、それによれば、二種類の貨幣が存在するときには、「悪い方」が「よい方」を駆逐するのである。こうして、交換の単位として象徴的な牛が現実の牛に取って代わり、金銭による商業行為が確立した(ラテン語pecusは畜牛のことである)。この発達、狩りが牧畜に「官僚化」されることによって「金銭の所有権」は男系に移った。しかし、社会体制はいまだ、牧畜による財産形態以前の、母系制に基づいていた。この母系制においては、男性は妻の家族の奴隷となることによって、花嫁を「獲得する」。男性が金銭をもつ新たな体制においては、奴隷となる誰かを雇うことができる。そのうち、この行為は単に男性が女性に「お金を支払う」ことを意味するだけになった。かくして、男性の奴隷という意味で始まったこの習慣は、男性が女性を買うという男性の優位性を意味するものとなったのである。この過程はブリフォールの『母権』に描かれている――彼は原始社会の至る所に過剰に母権性の証拠を見過ぎるという意見はあるが、彼の挙げる証拠が多くの事例に当てはまることは誰も否定できないだろう。

 我々は歴史の曲線があらわになることろでは、至る所で「自由」と「奴隷」の意味が転換するのを見る。その一つの変種として、十九世紀後半においてさえ、「奴隷」というのはポーランドの農民にとっては、主人の地所から薪をとる「権利」を意味していたという事実がある。概念にある両義性のために、彼のこの権利を否定することは、彼が「奴隷」であることを否定することになるのである。多分、こうした微妙な転換というのが歴史分析にとって最も重要なことであろう。

 現在の混乱に最も密接な関係のある転換は、ある奉仕を売る「権利」が売られている奉仕を手に入れる必要になったことにある。このアイロニカルな結果は、ブルジョア自由主義の始まりにおいて、農奴を土地への拘束から「解放」することがそれまでの慣例であった土地を使用する権利から遠ざけるものであることに既に含まれていた。結局、我々が手にするのはアナトール・フランスの寓話、橋の下で家もなく寝ている男は巨万の富をもつ男と同じくらい「自由」だという話である。これは、賃金によって獲得された「自由」は「賃金の奴隷」となる、というマルクスの解釈にある喜劇的な両義性の基礎である。

 こうした両義性は、現在の、集団的安全を個人の隷属によって得る軍事行動をもとにした自由主義擁護論(アメリカ自由連盟のような)では曖昧になっている。自由主義の思想家は、その最上の人でさえ、通常両義性の問題に驚くほど鈍感であることからこうした事実が生じ得る。彼らは熱心に「権利」について語るが、それにつきものの義務についてはさして関心を払わない。