ブラッドリー『仮象と実在』 9

  第三章 関係と性質

 

 前章で議論された問題は、実際は、性質と関係の本性をめぐる問題だったことが明らかになったに違いない。読者は、我々が辿りつく結論を既に予測しているだろう。与えられた事実において諸関係や諸性質が配されるのは現実的には必然だが、理論的には理解できない。このように性格づけられた実在は真の実在ではなく、仮象である。

 

 そして、この性格がなんの理解も得られないと主張することはまずできない――それは実在のもつ唯一の存在の仕方であり、我々はそれを単に受け入れるしかない。それは、明らかに直接的なものではなくなる。識別され、相違が見て取れる諸点を含み、我々の見るところ、更に分離していく傾向にある。実在が真にそれらを調和のうちに結びつける方法をもつなら、その方法が一目で明らかになるものでないことは確かである。我々の立場にあっても、意識的になされる識別がある面で実在に関する真実を与えることは考えられる。しかし、それを正当化し理解できるものとすることに失敗する限り、単なる仮象と考えざるを得ないのである。

 

 この章の目的は、これらの考えの本質そのものが病み、矛盾していることを示すことにある。我々の結論は、簡単に言うと、次のようになるだろう。関係は性質をあらかじめ前提し、性質は関係を前提する、と。どちらも、他方と共にあるのでも別々にあるのでもないなにかである可能性がある。そして、それらが与る悪循環は実在についての真理ではない。



      (I.関係のない性質は理解しがたい。それを見いだすことはできない。)

 

 1.諸性質とは関係がなければなにものでもない。この言明の真理を明らかにするために、大量の証拠を持ちだすこともあるまい。心理学がもたらす証拠は、性質が関係の変化によっていかに変わりやすいものかを示そうとしている。我々が多くの場合に認める相違はそのようにしてもたらされるように思える。しかし、私はそうした議論に訴えようとは思わない、というのも、そのことは独自の自立した性質がまったく存在しないことを証明できはしないからである。そして、知覚にとって対比が必要なことから導き出されるこうした証明は、私の見解によれば、論理の限界を越えてしまう。したがって、これらの考察は疑いなく我々の問題に重要な関連をもつものであるが、ここではそれを無視することにしたい。私はそうした議論が必然的なものだとも思っていない。

 

 次のように結論に向かえばいいだろう。関係なしに諸性質を見いだすことは決してできないと我々は論じた。かく受けとられるものは、関係を含むある働きによってかくつくられており、そうあり続ける。その数多性は諸関係を通じて意味を我々にもたらす。実際、それ以外の仮定は、弁護しがたい。より注目すべき細部からこのことを説いてみよう。

 

 関係なしに性質を見いだすことは確かに不可能である。意識において、我々が同一性と差異の関係を抽象したときでさえ、それらは決して自律的なものではない。一なるものは少なくとももう一つのものと一緒にあるか、関係しており――実際には常に一以上のものである。一つの感情で多くの側面があるような、精神のより低い識別のない状態に訴えることも我々の助けにはならないだろう。私はどんな関係もないそうした状態の存在は認めるが、そこに諸性質が存在することはきっぱりと否定する。というのも、かく感じられる側面が単にそのことによって性質と呼ばれるのだとしても、それは、外部の観察者の観察に対してのみそうだからである。そして観察者にとって、それらは側面として、つまり諸関係と共にあるものとして与えられるのである。端的に、単なる切れ目のない感情に戻れば関係も性質もない。しかし、差異を認めると、同時に関係も認めることになる。