ブラッドリー『仮象と実在』 58

      (結論。)

 

 この結論をもって、私はこの章を終えようと思う。ここまで我々の議論につき合ってくれた読者であれば、もし望むなら、この問題の細部を辿ることができるだろうし、自己の実在に関する主張を批判することもできよう。しかし、我々が原則として知ることになった反対意見を痛感したのならば、到達する結論は既に決っているだろう。自己をどのようなものととろうと、それが仮象であることは証明されよう。それが限定されたものなら、外的な関係に対して自律することができない。というのも、そうした関係は本質にまで入り込み、独立性を破壊するからである。限定にまつわるこうした反論を離れても、どちらにしろ自己は不明瞭なものである。というのも、それを考慮する際、それ自体では満足するものではない感情を越えでることを余儀なくされるからである。そして、いかにすれば多数性が統一において把握されるのかを理解できるようにする擁護されうる思考や知的原理には達することができない。しかし、もし我々がこれを理解できず、自己について考えることがなんであれ矛盾に満ちているなら、必然的に生じる次のことを受け入れなければならない。自己は疑いなく我々の有するもっとも高次の経験の形式であるが、にもかかわらず真の形式ではない。それは実在にある諸事実を与えてはくれない。それが呈示するのは、仮象仮象と誤りである。

 

 こうした帰結がなぜ全面的に受け入れられないのかの一つの理由は、前の章で詳細に述べた自己の多大な曖昧さにあるように思われる。この言葉は明らかに異なった意味の間を揺れ動き、多様な対象に適用され、議論において十分に定義された形で用いられることが滅多にない。更に根本的に曖昧さを助長しているものがある。形而上学の目的は世界を理解し、矛盾に陥ることなく一般的な諸事実について考える方法を見いだすことにある。しかし、この極めて重大な問題に関して悩まないような作家はほとんどいないように思われる。自己からその理解のための原理をとろうとする者のうちでも、公正な吟味のための原理を得る者がいかに少ないことか。しかし、先の二者選択から論じ、自己を見失っている理論を反証し、世界の秘密として残っているもの--それが思考可能なものであろうが、理解を拒むような複雑なものだろうが--を呈示するのは簡単である。そして、自己のいない世界を描き、そこに空虚と幻影のみを見いだし、自己を心理学的怪物にお似合いの暗黒といかがわしい慰めのもとに送り返すのは容易なことである。しかし、もしある対象が理解されるなら、我々が考えなければならないことは一つしかない。その原理がどんな源から発したのかは問題ではない。それはなにかに対する反駁から生じたのかもしれない--それでも悪くはない。あるいは何らかの内的な託宣に対する反応として生じたのかもしれないが、それも悪くはない。しかし、形而上学においては、原理は、それが打ち立てられる以上、完全に自律したものでなければならない。諸事実を覆う程広く、内的に調和を欠くことなく考えることができなければならない。もう一度繰り返せば、それを軸にすべてが展開するのである。多数性と統一が明るみに出されねばならず、原理はそれらを把握するものでなければならない。それが諸関係の迷路に我々を運び、諸関係は幻影的な諸項へ導かれ、諸項が際限のない関係のなかに消え去るようであってはならないのである。しかし、自己はそうした原理を与えてくれるには程遠く、曖昧さのうちに身を隠しているというよりは、単なる矛盾の固まりである。我々の探求は、再び我々を実在ではなく単なる仮象へと導いたのである。