ブラッドリー『仮象と実在』 60

      (救済策としての現象主義。)

 

 「なぜ」、と言われるかもしれない、「なぜ我々は統一を探し求めて苦しまなければならないのだろうか。物事はあるがままで十分うまくいくのではないだろうか。我々は、実際には実体とか活動とか、それに類したものを欲しているわけではない。現象とその法則が科学が必要とするものである」と。そうした考え方は現象主義と言うことができる。それは最善の表面的な見方で、もちろん、様々な知性の程度で主張されている。そのもっとも首尾一貫した形では、現象を感情や感覚と捉えているように思われる。それらとその関係が要素である。そして、法則がそのどこかにどのようにしてか入り込んでいる。反対意見の者に対して現象主義者は主張するだろう、それ以外のなにが存在するというのか。「実在するというものを私に示して欲しい」と彼らは論じる、「私は現れているものをあなた方に示そう。それ以上のものは発見できないし、実際にはそれ以上のものは意味がない。事物や自己はいかなる意味でも統一体ではなく、こうしたあらわれている要素の集合や配列に過ぎない。実際には、あらわれているものはそれなりの仕方で集められている。もちろん、そこには法則が存在する。ある事物が与えられると、別のある事物も与えられる。あるいは、別のある出来事が生じる、または生じる可能性があることを我々は知っている。かくして、出来事、生じてきたあらわれ、それらのあらわれが生じる仕方以外のなにものも存在しない。科学の名の下にどうしてそれ以上のことを求められるだろうか。」