幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈6

朝鮮のほそり芒の匂無き       杜國

 

 ほそり芒は細い芒か。ほそ芒はいまもある。朝鮮すすきというすすきがあるらしいが、詳しくは知らない。わが国に産するもので、朝鮮何々というものには、朝鮮ぎぼうし、朝鮮アサガオ、朝鮮松、朝鮮たばこ、朝鮮芝、朝鮮ざくろ朝鮮あざみなどの名を聞くことはあるが、朝鮮すすきというのはこの句でしか知らず、ほかで聞いたことがない。浅学寡聞、古句の解釈などする資格がないことを恥じる。匂はにおいで、『遊仙窟』『萬葉集』などには艶の字をにほふと読んだ。『萬葉集』巻十、「妹が袖巻来の山の朝露ににほふ紅葉の散らまくもをし」、『源氏物語』夕霧巻、「あざやかに物きよげに若うさかりににほひちらしたまへり」などというのは、みな色艶、気品の意味である。この句の「匂無し」は、艶っぽい光がさほどなく、外に映え内にこもる美しさがないことをいっている。細い芒のさびしく物悲しげな感じを「匂無し」と切り取った。仙覚の『萬葉集』の抄に、「妙とは白きにつけて云ひ、にほひとは紅きにつけて云ふ詞なり」とあるのを引いて、赤馬にはにおいの移りがあって、たいへん感興深いと古註にあるのは行き過ぎた解釈である。「にほひ」というのは、馬の赤いのに縁を引いたわけではなく、ただ前句の頭の露をふるう赤馬を野飼いの荒馬とみて、秋気が満ちた広い牧場に、むらむらと芒の群生している様子を詠んだものである。馬はそのなかに立っている、思えばその景色は粛然とまた索漠とした秋のいい図である。つけ加えていう。匂という字、古来からにほひと用いてきた。匂という字はなかった。それは韻は同じである韵という字の略を間違ったものである。いまでは韵を省略して匂としても間違いとはされない。韵にはにほひの意味がある。声韵というときは、発せられた音がみな声で、それ以外の響きが韵である。など、色沢というときは、実際にある彩りは色で、それ以外の光は沢であるようなものである。沢はにほひなので、艶をにほひと読み、韵もにほひであるからその略字である匀をにほいと読む。匀の筆書きが誤って訳のわからぬ匂の字が生じた。匂はにほひと改めるか、匀とするべきである。