幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈13

あるしは貧にたえしから家     杜國

 

 「たえし」は絶えしであり、「たへし」は堪へしである。貞亨元禄のころは仮名遣いも厳格ではなかったので、たえしでもたへしでも、文字に堪とも絶ともないなら、堪とも絶とも決めがたい。だから、絶えしの意味にとるものと、堪えしの意味にとるものと旧来の解釈は二つに分かれて、各々に理屈があり、後の人も自分の心が赴くところに従って取捨している。絶えしとする方は、『大和物語』の芦刈の面影をみる。煩わしいが、全文をあげないと意味が通じにくいのであげておこう。物語がいうには、津の国の難波のわたりに住んでいたものがあった。知り合って長い男女は地位の低いものではなかったが、生活が苦しくなって、家も壊れ、使う人もより豊かな方へいってしまって、二人だけで住んでいたが、さすがに自分たちの身分もあるので、雇われも使われもしないで、貧しいままに歎いて、このように貧しくてはどうにもならないと二人で言い合った。男は、このようなことではどうにもならないからどこへでも行ったらよい、といい、女も、男を捨ててどこへ行くところがありましょうと答えたが、男は、自分はどうにでもして生きていけるが、女の身では若いのに可哀想だから、京に上って宮仕えをしなさい、うまい具合にいったら自分を訪ねてくれればいいし、自分もきっと尋ねていくからと泣きながら約束して、人をたどって女は京に行った。さしあたりどこへ行く当てもないので、そのままそこにいて、優しく思いやっていた。前に萩すすきが多いところがあった。風が吹いたときなど、津の国のことを思って、どうしているだろうと悲しく次のように歌を詠んだ。

 

  「ひとりしていかにせましとわびつればそよとは前の萩ぞこたふる」、とひとりつぶやいた。女は方々を歩いて、ある高貴な方に宮仕えすることになり、服装を整えて、面倒なこともなく、顔かたちも非常に清らかになった。 しかし、津の国のことを片時も忘れず、しみじみとおもいやった。人に手紙を預けてみたが、そういう人は聞かないと頼りのないことしか言わない。仲のいい人もいなかったので、手がかりを得る手段もなく、心配ではあるがどうしたものだろうと思いやっていた。そうこうしているうちに宮仕えしているところの北の方が亡くなり、いろいろな人の召使いをしているうちに、ある人を思うようになった。思い立って妻となった。不満もなくめでたく暮していたが、人知れず思いつづけていることがあった。どのようにしているのだろう、悪いことでもあったのだろうか、うまくいっているのだろうか、自分がいるところも知らないだろう、人をやって尋ねさせてみたいが、夫が聞けば不快でもあるだろうと、念じつつあるときに、なお気がかりに思っていたので、夫には、津の国の趣のあるところなので、難波でお祓いしてきたいというと、それはいいことだ、自分も一緒に行こうという。それには及びません、自分一人で行きましょうと、旅だった。難波でお祓いをして帰ろうとするときに、このあたりで見たいものがあるからと、左へ右へと車をやらせて、家があったあたりを見てみると、言えもなく、人もなく、どこに行ってしまったのだろうと悲しく思った。こうしてわざわざきてみたが、言うことを聞いてくれる従者もなく、尋ねさせる方法もないと、悲しくなって車をたてて眺めると、供の人たちはもう日が暮れますから早くしましょうと促すが、もうちょっとと言っていると、蘆をにない、乞食のような男が車の前を横切った。その顔を見ると夫に似ている。本人とはいいきれないほどのみすぼらしい様子だが、夫に似ている。よく見てみたいと思って、あの蘆をもった男を呼びなさい、蘆を買おうと従者に言わせた。無駄なものを買うものだと思ったが、主の言うことなので、呼びよせて買わせた。車の近くまで来させなさい、見てみましょう、などと言ってその男をよく見てみると、やはりそうであった。気の毒に、そんなものを商って生活しているとは、といって泣いたが、供の者は多分よのなかに数あることを気の毒がっているのだと思っていた。そして、この男に何か食べさせなさい、蘆の値を十分とらせなさいと言うので、なんの縁もないものになんでそんなに与えるのか、と言われたので、強制してまでも言いにくくて、どのように助ければいいだろうと思う間に、車の簾の隙間が空き、男が見ると妻に似ている。奇妙なことだと気を鎮めてみると顔も声も妻のものである。そう思うと、自分の姿のみすぼらしいのを感じ、恥ずかしくなって蘆も捨てて逃げていった。しばらく、と言わせたが、人の家に逃げ入って、竈の陰にかがんでいた。車ではあの男を捜してくるよう言われたので、供の者たちが手分けをして探し求めた。ある人が、そこの家にいると言ったので、その男にこのように言いつけられているので、なにも隠れることはない、ものを下さろうというのだと言われて、硯を頼んで文を書いた。それに、

  「君無くてあしかりけりと思ふにもいとゞ難波の浦ぞ住みうき」、と書いて封をし、これを車の方に差しあげて下さいというので、怪訝に思って持って帰って差しあげた。開いてみると、愛しいものであるはずなのに、よよと泣いた。さてなんと返事をしたものか。車で着ていた衣を脱ぎ、包んで手紙などと一緒に渡させた。それから帰り、後のことはどうなったかわからない。

  「あしからじとてこそ人の別れけめなにか難波の浦はすみうき」

 

 この句を芦刈の面影を借りたものとすると、物語に貧しい男の家の様子などがあるはずだが、物語の文には、なにかれと言いつくろいながら車を走らせ、家のあったあたりを見ると、家もなく、人もなく、どこに行ったものかと悲しく思った、とあり、家だけが残って人は既にいないとはなっていない。一句の評釈は本文に書いてあることと異なる。ただし、俳諧であれば、必ずしも本文と合致する必要なはなく、桂馬筋に故事を引用することも少なくないので、とりあえず可能だとしても、どうしても前句と付くところがないのをどうしたらいいだろうか。「影法の暁寒く火を焚きて」というのは「あしからじ」の歌を詠んだ女であろうか、それともその従者か、どうにも付くところがなくて、前句にもこの句にも芦刈の古い物語との関係が非常に薄く、強いて『大和物語』を引いて解釈しようとすると、却って困難で支障があるとわかる。「絶えし」が本当だとしても、『大和物語』を引くまでもない。

 

 また、「堪へし」とする方の解釈は、浮世を軽く見て、貧乏がどうしたというのか、というように恬淡で物事を気にしない人物、例えばみすぼらしい家に薬罐をかけて楽しんだ粟田口の善輔、また貧乏が人を苦しめるのではなく、人が貧乏に苦しむのだと詠じた髙遊外のような人の、ただ四方に壁が建つだけの家にいるのを、妙な人だと道行く人の噂し通りすぎるのだという。この解釈は一応よく思える。前句との係も、ものがない家のすべてがあらわで、がらんとしたなかで暁に火を焚くさまが、明瞭で、境涯につけたものとしてよく思える。だが、「貧に堪へし」という言葉遣いは、悪いところはないが、この頃には希な使い方である。また、四つの壁がたっただけの家を「から家」と言って言えないことはないが、一般的にはから家というのも希な言葉である。普通の言葉遣いからすると、から家は空家になった家、つまり住む者のない家である。貧にたえしは使われることが多いが、貧に堪へしあまり使われることのない言葉である。まして、たえしとあり、から家とあることを考えると、絶えと堪への仮名遣いの論はあるが、主人は貧に絶えしから家、と見たほうが素直な見方だろう。仮名遣いはそのまま規矩とはみなし難く、時代によって大きな差異がある。今日用いられている正しい仮名遣いは、正しいことに疑いはないが、実際には復古仮名遣いというべきで、古学が発達して後に世に用いられるようになったもので、貞享元禄の頃は、まだ定家仮名遣いが用いられていた。であるから、たへでも、たえでも仮名の一字から句意を論じようとするなら、まず当時どんな仮名遣いが用いられていたか、復古仮名遣いか、定家仮名遣いか、あるいは何の注意も特に払われていない仮名遣いか、それらのことを察してある程度の結論を出してからでなければ意味がない。貞享の頃は復古仮名遣いはまだ広く用いられておらず、和歌などではなお鎌倉以来の誤りの多い仮名遣いを用いていた。まして俳諧では、貞享よりおよそ百年ほど後の安永の頃でも、牛家が『小かヾみ」に載せた仮名遣いを見てみると、薫るはかほる、尾はお、桶はおけ、小桶は小をけ、男はおとこ、小男は小をとことなっている不思議な規則を疑わないで用いていたほどなので、「冬の日」の初版にたへしとあっても、たえしとあっても、それだけで堪へ絶えのどちらかを厳密に論じることはできない。であるから、堪へしとしての解釈はひとまず面白いものだが、むしろ言葉遣いの普通に使われる方に従って、「あるじは貧に絶えしから家」と解するのが穏当だろう。

 

 とはいえ、『大和物語』を引いて解釈するのは行き過ぎで、それでは解釈も成り立たないといったほうが近い。『伊勢物語』ほどは人気のない『大和物語』よりは、より手近にある謡曲の『蘆刈』を引いて解釈すべきである。謡曲の『蘆刈』は『大和物語』からできたことは明らかだが、謡曲と物語ではいささか異なる。謡曲では、日下左衛門というものが難波にいて、その妻は郡の人に仕えて乳母となっていたが、旧里に帰って夫を家に訪ねてみると、貧しさの結果いまはないという、蘆を売るものを見て、左衛門であったので、妻は喜び、夫は恥じ入ったが、昔の愛情が復活して相伴って都へ上ることになる。物語より謡曲の方が当時の耳目に親しいものであって、特に句の情趣によくあっているので、『蘆刈』の面影をもって解釈すべきである。主人は貧に絶えしから家は、謡曲中の、「もとはここにいらしたが、貧しさ(御無力)のあまりいまはここにはいないなってしまった」とあるのにあたる。御無力は貧しいということ。なまじ物語を引いたために食い違うところもでてくるが、謡曲によれば大変素直に解釈される。さて一句の解釈はこれでいうことない。前句との係りはどうかというと、これも『蘆刈』のうちにあるから、どうということはない。曲中、夫婦がむかい合って、妻の言葉「かくは思へどもしは又、人の心はしら露のおきわかれにしきぬ/”\の、つまや重ねしなには人」と言ったのに対し、夫の言葉「蘆火たく屋は煤垂れておのがつまぎぬそれならで、又誰にかは馴衣」とあるこの曲の眼目、感情の最高潮に達するところがある。前句、「影法の暁寒く」が、「髪はやす」より「偽りの」「消えぬ卒塔婆」と段々に盛りあがって、陰惨悽愴の極にいたるここに及んで、句の言葉の表面はなお哀しいが、意味の底ではやや和らいだ境涯へ転じて、『蘆刈』の面影を付けたのは非常にいい。『大和物語』には前句に係ることは特にないので、曲齋は絶えしではなく堪へしとして、物語の面影はないと断じたが、それはたまたま謡曲の『蘆刈』に気づかないことからくる失策である。謡曲が貞亨元禄のころの人に親しいものだったのは、明治大正に長唄が人々に親しかった以上のことであり、なんで耳に遠く心に疎いことがあろうか。「蘆火たく屋は煤垂れて」という曲中の語が耳に遠くもなく、心に疎くもないなら、「影法の暁寒く」の前句に「あるじは貧に絶えしから家」の句をつけた情、一聞一吟すれば明らかで、疑うところも迷うこともない。「蘆火たく屋」という言葉は、『萬葉集』巻十一、「難波人あし火焚く屋のすし垂れどおのが妻こそとこめづらしき」に基づき、『拾遺集』に「あし火焚く屋は煤垂れど」と少し改められた方に依ったもので、謡曲の夫婦再会のときに引用したのはもっとも巧妙なところだといえる。さて、この句及び前句との係りはこれで明白である。つまり、前句を『蘆刈』の面影としてつけたのである。芭蕉は、「『草庵にしばらく居ては打破り』、『命うれしき撰集の沙汰』おもかげの句はこのように、前句を西行能因の境涯とみて付け、直接西行と付けるのは不器用であり、ただおもかげで付けるべきである。」と。おもかげの付けを知り、謡曲と当時の人の親しさを知っていれば、この句を解釈するのになんの疑いがあろうか。