ある感じ--プルターク『英雄伝』

 

プルターク英雄伝(全12冊セット) (岩波文庫)

プルターク英雄伝(全12冊セット) (岩波文庫)

 

 

 ニキアスは、一時代を築いたペリクレスの次世代に当たるアテネの政治家にして軍人である。時に協調もしたが、多くの政策において反目しあった同時代の軍人政治家には、プラトンの『饗宴』にも登場するアルキビアデスがいる。

 

 ぼくにとっては、この男への恋は容易ならんことになってしまった、それというのも、ぼくが彼を恋するようになったあの時以来、ぼくはもう誰一人美しい者には目をやることも話し合うこともできないのだ、そんなことをしようものなら、この男はぼくをそねみねたんで呆れかえるような振舞いに出、悪態をつき、手を出さずにいるのもやっとという有様だ、とまでソクラテスに言わしめ、法廷からの出廷命令を逃れてわたったスパルタでは王妃に愛される、その後身を投じたペルシア地方総督のもとでは第一側近にまで上りつめる、さらに再びアテネの艦隊を率いての勝利、敗北、追放、フリュギアでの暗殺と華々しいアルキビアデスの経歴に較べればいかにもニキアスには地味な印象しかない。

 

 それは、アルキビアデスのように領土の拡張や戦いによる栄誉を欲するよりは、むしろ平和と安定を目指した、軍人としてよりも政治家としての能力が高かった人物だからであろう。実際、もっとも大きな仕事は、スパルタと和平条約を結び、いわゆるニキアスの平和をもたらしたことにあって、それ以前のスパルタとの戦いでは政敵のクレオンに手柄を独り占めにされ、和平後アルキビアデスの主導で駆り出されたシチリアへの遠征では、結局降伏することになる。

 

 降伏とき、ニキアスは、勝利を得たあなた方は憐みを持って下さい、私は、あれ程幸運な目に合って名も誉も得たのだから構わない、しかし他のアテネの人々を憐んで下さい、戦争の運不運は誰の身にも降掛かるもので、アテネの人々はうまく行った時にあなた方に対してその幸運を程よく且つ温和に使ったということを思い出して下さい、と言った。

 

 その顔や言葉から相手のギュリッポスはある感じを受けた、とプルタークは書いている。この感じは、多分、自分の全存在を投げだした賭であり、坂口安吾ならイノチガケと呼んだものがもたらしたものだろう。

 

 しかし、この感じは、互いに死力を尽くしあう戦場では気づかれにくい。戦場にあるのは身を投げだしあった者同士のぶつかり合いとそれを支配する規則であり、感じが受け容れるような隙間がないからである。

 

 この感じは、一方が全存在を投げだす必要も用意のないとき、二人の人間の落差のなかで生れるように思われる。しかし、戦時下においては、この落差は空虚なものとなり、人物の柄の大きさをかえって目立たせてしまう。つまり、ここで選択されているのはは軍人として行動ではなく、命をかけたものではあるにしても政治的発言であり、そのためであろうか、プルタルコスは素っ気なく次のように書く。

 

ニキアスは恥ずべき不名誉な救いを期待して敵に屈伏し、一層恥ずべき死に方をした。

 

1985年前後の芝居

 

唐十郎 特別講義:演劇・芸術・文学クロストーク

唐十郎 特別講義:演劇・芸術・文学クロストーク

 

 

 

赤い帽子の女・水のないプール―プロセスノート・初稿シナリオ (1982年)
 

 

 

維新派・松本雄吉 1946~1970~2016

維新派・松本雄吉 1946~1970~2016

 

  私は日記を書いたり書かなかったりするが、書いている時期が圧倒的に少ないのは、特に事件もなければ、忘れずにおくべきか、というような怨念もないので、書くことがないからなのだが、見た映画や読んだ本のことは日付だけでもはっきりさせておくといざというとき便利なので、思いだしたように書いたりもする。


 そんななか、たまたま1980年代後半に書いた日記が出てきて、例によって途中でやめてしまっているのだが、1988年にこれまでに見た芝居のベスト10を書いている。私が芝居を熱心に見たのは、1980年代中盤の多く見積もって4~5年ほどで、1988年の後半から1989年の中盤まで、つまり昭和から平成への改元をはさんで半年以上入院しており、退院してからは散発的に見ていたにしろ、以前のように週2~3回も通うことはなくなってしまった。

 

 もともと閉じ込められることが苦手で、いったんかつての熱気が失われてしまうと、かつての熱が取り戻せなくなってしまった。それに、いわゆる小劇場のブームが起きて、夢の遊眠社第三舞台などがどんどん人気を博するにつれ興味を失ってしまった。


 私があげているのは次のような10本である。


 1.状況劇場『新・二都物語
 2.第三エロチカ『新宿八犬伝
 3.究竟頂『空飛ぶ鍛冶屋』
 4.銀幕少年王『ハッピージャンク・シティー
 5.鳥獣戯画『桜姫恋袖絵』
 6.燐光群『デッド・ゾーン』
 7.東京乾電池「まことむすびの事件』
 8.第七病棟『ビニールの城』
 9.転移・21『水の柩』
 10.毎日ジャイアンツ『冬の星座』


 当時の芝居を思い起こさせるような表現は、現在でも時折目にすることがある。たとえば、園子温の『TOKYO TRIBE』は上記の10本のあとに見た維新派の芝居を思い起こさせるものだった。また、映像でEGO-WRAPPIN'の中納良恵が歌っているのを見ると、私が見てきた芝居のヒロインを髣髴させた。当時の劇団でヒロインを張るということは、場を支配する力が必要とされた。あるいは、同じ感じを椎名林檎が歌う姿から受けてもよかったかもしれない。だが、椎名林檎は(もっと先輩でいえば戸川純)たぶんにつくられたキャラクターで場を支配している。わたしが思い起こす「場の支配」とは、無理矢理にその場の空気をねじ伏せる力強さである。


 この力が発揮されるにあたっては、劇場の問題も大きかったと思う。私が観た芝居のほとんどは、座席番号などなかった。例外は下北沢の本多劇場と渋谷のパルコ劇場、それに新宿の紀伊國屋ホール(西口にある旧館の)くらいだったろうか。現在と違うのは、中劇場がいまあげたくらいしかなかったし、そうした場所で公演するのはよほど成功した劇団に限られていた。一劇団である劇団☆新感線がコマ劇場の舞台に立つといったことは二十数年前には考えられなかった。私がもっぱら通ったのは下北沢のザ・スズナリ、アートシアター・新宿、名前は忘れてしまったが高円寺、中野、吉祥寺などにある小さな小屋だった。


 二時間前に整理券をもらい、三十分前に並んで入るというのが一般的だった。それゆえ、場所の確保が芝居を見る前の重要な準備になる。前の方が好きなので、なるたけ若い番号をもらうようにしていた。定員などあってないようなもので、私は客を詰めこむ手際のよさを劇団の良否の一つの指針としていたほどだ。そんな小さな場所だからこそ力ずくでねじ伏せることが可能であったし、また必要とされたのである。


 母親の仕事の関係で、一年に数回大劇場のチケットが手に入り、帝国劇場、新橋演舞場などの芝居を見る機会もあった。藤山寛美が生きていたころの松竹新喜劇大地真央の『マイ・フェア・レディー』、先年亡くなった勘三郎がまだ中村勘九郎であったころ、柄本明藤山直美と競演した舞台、森繁久彌の『屋根の上のバイオリン弾き』くらいがいま思いだせるところだが、小さな劇場での役者たちの力業に魅了されていた私は、大きな空間での役者のあり方、マイク越しの彼らの声などになじめず、だいたいは必ずついているお弁当とビール、それに小さな小屋では考えられないふかふかの椅子にすっかり安らかな気持ちになって眠ってしまうのだった。


 いい意味でも悪い意味でも大劇場の芝居にはルーズさがあって、定番を見る安心感が役者と観客に共有されていたように思う。いまでも印象に残っているのは、森繁久彌の『赤ひげ』で、息子役は竹脇無我だった。息子は長崎で最新の医学を学んで帰ってくる。そして、旧弊なやり方を守っている父親である森繁久彌の赤ひげ先生とことあるごとに衝突する。しかし、いつしか息子は父親の仕事を認め信服するようになる。私はこの芝居を見ていて、眠るのも忘れて狐につままれたような気分になった。私にはこの息子が父親の仕事を認める理由がさっぱりわからなかったのだ。黒澤明の映画版(こちらでは父親が三船敏郎で、息子が加山雄三)がどうなっていたかよく覚えてないし、芝居の細部を覚えているわけでもないのだが、とにかく、転機となるようなさしたる出来事もないまま、さっきまで少しも父親を認めていなかった息子が次の瞬間には恐れ入っており、不条理劇でも観ているようだった。それでも観客の間から驚きの声があがることもなかったので、葛藤は解消されるべきだというルーズな原則が演出・俳優と観客との間に共有されていたと考えるよりない。


 私のなかで芝居を見るという選択肢が増えたきっかけははっきりしていて、状況劇場を観たことである。新宿の花園神社に設置された赤テントで1982年に『新・二都物語』を見た。楽日の前日に見たのだが、あまりに興奮したので、次の日の楽日にもう一度行った。この芝居のラストは、いかにも状況劇場らしく、饒舌な言葉と強烈な情念で凝縮され煮つまるだけ煮つまったものを一挙に解放するかのように屋台崩しによって舞台の背景が崩れ落ち、その向こうに夜の新宿が広がるのだった。

 

 楽日では、そのラスト・シーンで何らかの不手際があったらしく、屋台崩しがうまくいかなかった。舞台裏で飛びかう怒号を聞いて芝居というものの臨場感を感じそれもまた嬉しかったものである。後になって、根津甚八小林薫が出ていたころの状況劇場が見られなかったことに歯噛みをしたものだったが、この時期の状況劇場も、李礼仙はもちろん、不破万作六平直政、金守珍、佐野史郎などが揃っていたのだから豪勢なものだった(実は佐野史郎の印象はあまり残っていないのだが)。俳優としての唐十郎の魅力も大きなもので、ここはわたしなどより澁澤龍彦の言葉を引いておこう。

 

唐十郎の目は、さて何と言おうか、人間的感情の発散を塞きとめた、ガラスのような無機質の光を放った目なのである。思うに、「汚れちまった悲しみ」を見てしまった人間は、それ以後、こういうガラスの目で生きることを運命づけられるのであろう。唐作品に特有な、あの少年時代の冒険と悲劇の体験を再発見しようとする、身をよじりたくなるようなリリシズムとロマンティシズムの衝動は、こういう目の中で結晶するのであろう。

 
           「愛の南下運動を記念して・・・・」


 それ以前に見た芝居といっては安部公房スタジオ、山崎努主演のアラバールの戯曲、それに歌舞伎数回というところだったが、このときから数年にわたって、一週間に二、三本の芝居を観ることが続いた。整理券の番号順に並ぶと、色々な劇団の劇団員がチラシを配りはじめる。多いときは二十枚くらい貰った。ネットが存在していないから、シティロードという雑誌が必携だった。ぴあのような情報誌だが、どこでなにをやっているかという基本情報以外の特集や切り口が先鋭的で、そのことは映画欄の星取り表に松田政男中野翠宇田川幸洋秋本鉄次といった名前が並んでいたことからもうかがえよう。

 

 この雑誌は廃刊になったが、その雰囲気はいまも出ているテレビブロスに近い。それを頼りに、毎月どの劇団が何日から何日までどこで公演をするのかをチャートにしたノートをつくり、何曜日になにを見にいくか決めてせっせと通っていた。この間、状況劇場の芝居には欠かさず通った。若手公演では作家の島田雅彦がゲストで出演していて、海パン一丁で身体をくねくねさせながら台詞を妙な調子をつけながら発していた。


 ちなみに言えば、寺山修司主宰の天井桟敷は見ずに終わった。その昔寺山修司状況劇場の公演の際、冗談で贈った葬式用の花輪に怒った状況の劇団員が天井桟敷に殴り込みをかけたことなどもあり、ライバル・敵対関係にあるといった雰囲気がまだあった。寺山修司が死んだのが一九八三年の五月で、死の直前まで演出に携わっており、天井桟敷の最後の公演となった『レミング』のことはよくおぼえている。見もしなかったのにおぼえているというのも妙な話だが、紀伊國屋ホールで行なわれたこの芝居をその直前まで行こうかどうか迷っていたのだ。

 

 寺山のエッセイや対談は読んでいた。短歌は読んでおらず、いまでもほとんど知らない。三島由紀夫との対談で、寺山がブリジッド・バルドーがカントの『純粋理性批判』をもっていたらエロチックだと思いませんか、と問いかけたのに対し、三島がそういう感覚はわかるが認めたくない、と答えるくだりなどおかしくていまでもおぼえている。


 しかし、『上海異人娼館』や『さらば箱船』などの映画は面白くなかった。静的なイメージの連続で、映画としての躍動がほとんど感じ取れなかったのだ。したがって、彼の演劇についても、少なくともあまり私が好きそうなタイプではないな、と思っていたのである。後に、この公演を最後に天井桟敷が解散してしまったとき、やはり見ておけばよかったと後悔したが、更にその後、天井桟敷の劇団員のほとんどが移った万有引力の芝居を見て、もし天井桟敷の芝居がこういう感じであったなら、やはり見ないでもよかった、と思った。寺山の映画と同じく、審美的かつ静的なイメージの連続で、状況劇場にあった猥雑さがノスタルジーに、汚い町の路地が砂漠や波荒れ狂う大海に直結するようなダイナミズムに欠けていたのである。


 このように芝居を見始めたわたしが、数年後に行き会ったのが第三エロチカの『新宿八犬伝』で、ヒロインは深浦加奈子だった。公演場所は今ではなくなってしまった新宿コマ劇場の裏にあったアシベホールだった。確か『新・二都物語』を見て、まだ他にどんな劇団があるかもわからない私は、第三エロチカのチラシにあった唐十郎の推薦の言葉を読んで見にいったのではないかと思う。


 いずれにしろ、第三エロチカは、饒舌さ、妄想によって現実を変革しようとする大胆かつ無謀なところ、作・演出の川村毅が役者として出演もするところなど、明らかに状況劇場の多くの因子を受け継いでいる劇団だった。そして、深浦加奈子は場を力でねじ伏せることのできるヒロインであり、しかもなお格調の高い美しさを崩さなかった。頬骨の高い顔はディートリッヒにも通じるような古典的な美しさをもっていた。状況劇場は李礼仙の存在感にもかかわらず澁澤龍彦言うところの「少年時代の冒険と悲劇の体験を再発見しようとする」主題が通底することもあってか男芝居の印象が強いが、第三エロチカは川村毅有薗芳記といった個性的な男優によってますますヒロインが際だっていく芝居だった。


 かくして、第三エロチカの公演によって状況劇場以外の劇団への門が開かれたわけだが、第三エロチカは鍾愛する劇団にはならなかった。というのも、『新宿八犬伝』第一部第二部は文句なしに面白かったが、それ以降の『ニッポン・ウォーズ』や『ラスト・フランケンシュタイン』などはなにか歯車が噛み合わない感じで、結局その後を追いかけるのをやめてしまったからである。もっとも後で述べるように、深浦加奈子との縁がこれで切れたわけではなかった。ちなみに、第三エロチカでいえば、もう一人、香取早月が贔屓だった。狐のような顔をしたボーイッシュな女優で、迫力のある表情で言いたいことだけ言ってしまうと、舞台の脇で膝をかかえて座っているような役柄が多かったように思う。その姿には、なにか、衆人環視のなかでの寂寥感のようなものが漂っていた。


 この集中的に芝居に通った時期に心底熱狂した劇団は別にあった。一つは山川三太主宰の究境頂である。まったく知らなかったこの劇団を見にいったのは、チラシに山川三太と種村季弘との対談が載っていたからだった。本来、究境頂は状況劇場と同じくテント芝居だったが、わたしはテントでの公演は一度しか見ていない。というのも、この劇団はまもなく解散してしまったからである。結局わたしが見たのは、テント、高円寺のスタジオでの二回にとどまる。

 

 究境頂のヒロイン鳳九が、他の二つの劇団の女優と集まって行なった三人芝居を加えると三回になるが。テントで見たのは『空飛ぶ鍛冶屋』という芝居で、場所はよくおぼえていないが、なんでも駅から相当歩いたような気がする。周辺には何もないのっぱらのような場所に銀色のテントが立っていた。花園神社のような喧噪と隣り合わせの場所ではなかったから、朧気になった記憶で思い返してみると、夢のなかの出来事か、水木しげるの漫画にでも入り込んでいたかのような気分になる。芝居の内容もまた朧気だが、安部公房の『友達』のように、見知らぬ他人がずかずかと家庭のなかに入り込むところから始まったと思う。それがどういう具合にか、錬金術的な創世の神話に結びつくのだ。

 

 ヒロインの鳳九がまた魅力的で、イタリアの女優、ソフィア・ローレンクラウディア・カルディナーレを思い起こさせた。創世の神話といっても、決して堅苦しい難解な芝居ではなく、芝居を見てこのときほど笑ったことはなかった。このことは実は大変なことで、それというのも、この公演、観客が十人ほどしかいなかったからだ(やはり辺鄙な場所が障害となっていたのだろう――都内であったのは確かなのだが)。役者と観客が互いを意識せざるを得ないこのような状況で笑いが絶えないというのは、満員の劇場をわきかえらせるのより、より容易なことだとは言えまい。二回の公演しか見られなかったことが思い出を美化しているかもしれないが、とにかく究境頂は状況劇場以後始めてのぼせ上がった劇団だったのである。


 しかし、究境頂は、テント芝居であること、卑俗な現実が創世の神話と結びつく展開など、第三エロチカと同じく、多かれ少なかれ状況劇場からの流れにあった劇団だった。当時熱狂したもう一つの劇団こそ、状況劇場的な作劇を相対化する視点を私に与えてくれた。そして、これ以後、この劇団の与えてくれた方向にわたしの好みも移っていく。それが内田栄一が主宰する銀幕少年王である。

 

 内田栄一でもっともよく知られているのは、脚本家としての彼であろう。藤田敏八の『バージンブルース』『妹』『スローなブギにしてくれ』『海燕ジョーの奇跡』、若松孝二の『水のないプール』『スクラップストーリー ある愛の物語』、神代辰巳の『赤い帽子の女』、根岸吉太郎の『永遠の1/2』などが彼の脚本(及び共同脚本)である。もともとは「新日本文学」に入会し、小説家として出発したらしい。安部公房のもとにいたということをどこかで本人が書いていたのを読んだ記憶がある。わたしが読んだ小説は(題名は忘れてしまったが)、なんでも中年の男がナンパした少女と部屋のなかでごろごろしている、といった感じのものだった。藤田敏八の映画を思わせるもので、当時わたしが内田栄一についてもっていた印象は、軟派な硬派というものだった。とりわけ硬派の部分が突出しているのが劇団主宰者としての内田栄一だった。1967年の公演『ゴキブリの作り方』は花田清輝に激賞されたというが、コンスタントに演劇に関わっていたのかどうか私は知らない。


 銀幕少年王の芝居がどのようなものであったか伝えるのは難しい。まず、状況劇場のように、かけがえのない役者の存在を前提に成立するような芝居ではなかった。役者は公演ごとに代わっていった。池袋の文芸座ル・ピリエでの公演では田口トモロヲが出演していて、さしたる必然性もなしに服を脱いで、腰蓑の間から性器が見え隠れしていたのをおぼえているが、それは当時彼がボーカルをしていたパンクバンドばちかぶりを聞いていたから記憶に残っているのだろう。舞台装置も大げさなものはほとんどなかった。

 

 ある意味象徴的なことだと思うが、あれほど熱狂していたというのに私は一つも公演名が思い出せないのだ。基本的なパターンは決まっていて、短いスケッチ風の芝居と、さあなんと言ったらいいか、リズミックな音楽にのせてなされるごく単純な動作の持続が交互に繰り返されるのである。たとえばその場で駆け足をしながら、隊列をなして、その編成を変えていく、といった誰にでもできる動作で、ここにも役者の特異性をあてにしない姿勢が一貫している。

 

 後で触れることになるかと思うが、関西の劇団維新派の芝居に近いと言えるかもしれない。維新派の主催者である松本雄吉も経歴が長いから、あるいはどこかで擦れ違って影響を与えあったというようなことがあるかもしれないが、よくわからない。しかし、維新派は巨大な舞台装置を組み立てることが芝居の一環となっており、その点では両劇団は正反対である。内田栄一には『生理空間』という身体論であり、演劇論でもある著作があるが、まさしく彼の芝居は単純な動作の持続によって人間が無名の生理へと還元されていくのである。


 あり得る誤解を避けるために言っておけば、銀幕少年王の芝居は、モダン・アートに特有なコンセプチュアルなものではなかった。後に、絶対演劇宣言と題してまさにコンセプチュアルな欧米の演劇ばかりを集めた催しがあったが、箱を右から左へ移すような単純な行為の繰り返し自体は両者に共通するが、こうした演劇にはまったく劇的興奮をおぼえなかった。内田栄一の芝居が人間がなにか訳のわからぬものに変貌するさまを見せてくれるのに対し(キューブリックの『フルメタル・ジャケット』の前半部分、新兵に対するしごきの場面で、汚い言葉に乗せて繰り返されるランニングが若者を何ものかに変貌させるように)、それらの演劇ではどこまでいっても概念によって動かされる人間は概念によって動かされる人間のままなのだ。


 その他印象に残った劇団を思いつくままにあげてみよう。劇団鳥獣戯画は歌舞伎ミュージカルと称して『桜姫東文章』などをミュージカル仕立てにして公演していた。美空ひばりが主演する歌謡映画の雰囲気で、和製ミュージカルの変な臭みがなかった。歌舞伎にインスパイアーされた劇団としては花組芝居もあったが、わたしは鳥獣戯画の方が断然好きだった。坂手洋二燐光群は政治と性や変革と情念の、山崎哲の転位・21は日常から犯罪へと向かう回路を示してくれた。女性ばかりの劇団青い鳥がこの頃話題になっていて、数回見に行ったが、おしゃれではあったが劇的なるものはさほど感じなかった。どうも男性だけの劇団や女性だけの劇団には性的葛藤がない分、劇的緊張の水位が一段階低くなるように感じるのが常であった。


 土方巽は間に合わなかったが、多かれ少なかれ彼から発している舞踏も幾つか見た。誰であったか名前は失念したが、舞踏家が十メートルくらいの距離を一時間ほどかけて移動する舞台があって、こういうのは他人の行を見せられているようでそれほど感興がわかなかった。山海塾もわたしには禁欲的かつ審美的すぎた。もともと微細な動きを緊張感をもって見守り続けることがわたしはあまり好きではないらしい。

 

 その点、麿赤児大駱駝艦大駱駝艦から分かれた白虎社(山海塾大駱駝艦から派生したのだが)は楽しかった。特にこの両集団の場合、くだらないことをするときほど身体があるべき場所にぴったり収まるのが見事だった(かつて『タモリ倶楽部』で麿赤児が登場する体操のコーナーがあったが、ばかばかしい文句に乗せて動く身体の正確さには毎回驚かされた)。

 

 モダン・ダンスはさほど見ていないが、ロバート・ウィルソン(音楽フィリップ・グラス)の『浜辺のアインシュタイン』やフランクフルト・バレエ団を率いたウィリアム・フォーサイスの公演などを覚えている。ダンスやバレーと舞踏は対照的で、跳躍による上方への志向においてダンスやバレーが際立っているのに対し、舞踏は地を抉るかのような動きにおいて優れていた(勝新太郎演ずる座頭市の、独楽のように地を這いずる殺陣を思い返してもらってもいいだろう)。


 退院してから見たのは、維新派がある。先ほど述べたように、維新派は舞台装置を組み立てることが芝居の大きな要素であり、新橋の空き地に巨大なセットが建てられていた。1991年の『少年街』である。維新派は自分たちの芝居をジャンジャン☆オペラ(ジャンジャンというのは大阪新世界のジャンジャン横丁からきているらしい)と呼んでおり、銀幕少年王同様、芝居の部分と大阪弁で掛け詞や語呂合わせを大量に含んだ短い言葉の積み重ねを踊りながら歌う部分に分かれている。踊りも言葉と同じように、アクロバティックなものではなく、短く簡単な動作の積み重ねによって成り立っていた。舞台はノスタルジックな未来とでも言うべき空間で、そこで顔を白く塗った少年少女たちが壮大な仕掛けのなかを歌い踊る姿にわたしは圧倒された。すっかり興奮して、劇中音楽のカセットを買って帰ったのだが、肝心の歌が入っていないのにはがっかりした。それでも、数日間音楽とリズミックな歌の調子が取り憑いたように離れなかった。


 興奮した芝居、熱狂した芝居、楽しんだ芝居と芝居の経験も様々だが、わけがわからないということで群を抜いていたのは東京乾電池チェーホフ劇だった。面白かったかと言われると言葉に窮するが、それではつまらないかというとそうも言えない、ただただ困惑のなかに放置される体の芝居だったのだ。神西清の訳した脚本を、柄本明ベンガル綾田俊樹角替和枝といった乾電池の役者たちがまったく感情を交えないフラットな台詞回しで述べ立てる。アドリブなども一切なく、蛭子能収が人が真面目なことをしているとおかしくなってくる癖がでて、同意を求めるように周りの役者に笑いかけるのだが、誰一人として応じる者がないので、曖昧な表情のなかに笑いを紛らわすことが幾度か繰り返された。チェーホフに現代性を盛り込もうとするような特別な演出もなく(演出は柄本明)、早口の台詞だけが滔々と流れていくような芝居だった。とにかく不思議な時間だったと言うしかない。

 

 もっともこうした「実験」は一時的なものであったらしく、最近、劇団創立三十周年の「劇団東京乾電池祭り」の演目シェイクスピアの『夏の夜の夢』、小津安二郎の『長屋紳士録』をDVDで見る機会があったが、それなりに人情もあり、デフォルメによるおかしさもあり、こういってはなんだが、ごく普通に面白い芝居になっていた。


 平田オリザ青年団を最初に見たときも、心を奪われた。1991年の『S高原から』をこまばアゴラ劇場という小さな小屋で見た。確かサナトリウムが舞台で、特になんということもない話を交わす。役者と観客の間に想定される第四の壁の扱いにおいて特異で、あたかも役者は観客が存在しないかのように振る舞い(お尻を向け続けることもある)、台詞は順々に受け渡されるものではなく、重なり合う。ロバート・アルトマンの映画のように複数の会話が同時に進行することもある。「静かな演劇」などと形容されることもある青年団だが、見ていて実にスリリングだった。


 松本修を中心にしたMODEはこれまであげた劇団のなかでもっともソフィストケイトされた劇団だと言えるかもしれない。小道具などの舞台装置も、衣装も、音楽もシックでおしゃれだった。単に歩くことでさえ、この上なく楽しい演劇的行為になることを教えてくれたのがMODEだった。必ず演目のどこかで、役者たちが一列になって、そう、ちょうどスキップのようにアクセントをつけた歩き方で舞台を経めぐるのだが、それを見ただけでわたしは幸福感に満たされたものだった。この劇団に第三エロチカを退団して参加していたのが有薗芳記と深浦加奈子で、ここでの深浦加奈子は実にチャーミングでかつエレガントだった。大きく弧を描いて再び深浦加奈子に戻ったことでわたしの芝居の話も尽きてしまう。

残念な二人組――マックス・ブロート『フランツ・カフカ』

 

フランツ・カフカ (1972年)

フランツ・カフカ (1972年)

 

  マックス・ブロートのカフカ伝は評判が悪い。カフカの諸作品に神学的な解釈を施し、あたら面白いものをかえってつまらなくしている、というのが主たる理由だろうが、それだけではない。

 

 ブロートはカフカとの出会いを、ソクラテスに出会ったプラトンに例えているが、その対話篇にほとんど姿をあらわすことのないプラトンとは異なり、ブロートは自分をだすことにとくに躊躇を感じないらしい。そもそも、この伝記では、祖先と幼年時代を語った部分を除けば、友人となった大学時代からカフカの死に至るまで、ほとんどカフカはブロートとともにいるのである。

 

 自分の思い出のなかの、自分と同じ体験を共有したカフカだけが問題なのであって、しかもその友人としてのつきあいからは確固としたカフカ像が既に確立していたから、取材によって自分の知らない友人の側面を探ろうとする気もさほどなかったのではないかと思われる。

 

 一九五四年の第三版(初版は一九三七年)でつけ加えられた補遺では、グスタフ・ヤノーホの『カフカとの対話』が自分の書かなかった空白の時期を埋め、「再び私はカフカがしゃべっているのを聞き、彼のキラキラ光る生き生きしたまなざしが私に注がれるのを見、カフカの静かな、痛々しい微笑を感じ、彼の叡智から衝動や感激を受けるように思われたのである」と評価しながらも、ヤノーホは「カフカに、最初の詩を見せて批評を仰ぎ、議論し、おかげで他の考え、他の情熱に身も心も捧げていたカフカを徹底的に邪魔することになったのである」と意地の悪いことを言っている。

 

 自分のカフカ像を提示するに急なためか、二十年以上の交友記にしては印象的なエピソードが少ないのも残念な所だ。たとえば、カフカはよく時間に遅れてきたが、それはいかなる物、仕事、人間でも不当に扱ったり、見切りをつけることができなかったので、どんどん時間に追い詰められてしまうのだという観察や、カフカが「非逆説的、いやむしろ反逆説的」だという指摘などは意表を突くものなのだが、いかんせんそれを目が醒めるようなエピソードでは語ってくれないのである。

 

 それでも、それがあるだけでこの本の存在価値があると言えるエピソードがある。それは、『審判』の第一章を友人たちの前で朗読したとき、友人たちは腹をかかえて笑い、カフカ自身もあんまり笑いすぎて先を読み進めることができなかったというものだ。しかし、ブロートはその笑いが「ほんとに善良な、快い」ものではなかったとしながらも、それでもそこに「善良な笑いの一成分」「現世の喜び」が混入していたのだとつけ加えることであたら面白いエピソードを理に落ちたものにしている。

 

 西洋文学には、神話的な原型とも言えるような二人組が存在する。ドン・キホーテサンチョ・パンサファウストメフィストフェレスなどがそうで、彼らはある意味お互いをグロテスクに映しだすことによって強力なモーターとなって物語を突き動かす。ブロートはグロテスクなカフカを端正に映しだすことで、原型的な二人組になることに失敗している。

落語の咀嚼力――立川談志『お血脈』

 

談志百席「お血脈」「釜泥」

談志百席「お血脈」「釜泥」

 

  「噺のなかに出てくる泥棒なんてのは、あんまりたいした泥棒はでませんで、お芝居だの講談の方には偉い泥棒が出てきますな」と泥棒が出てくる噺の枕に桂文楽は言ったが、『お血脈』では、石川五右衛門というもっとも有名な泥棒のひとりがでてくる。そればかりでなく、長屋の連中もひとりもでてこない珍しい落語だが、好きな噺である。


 中国から日本に一寸八部の仏像が伝来した。排仏運動が盛んだったので、打ち壊そうとしたが、傷ひとつつかない。そこで阿弥陀が池に投げ捨ててしまった。ある晩本多善光という侍が、池の畔を歩いていると、善光、善光、と池のなかから呼ぶ声がする。拾い上げてみるとそれが一寸八部の仏像で、信州にまかり越したい(小さいから舌足らずで、ちんちゅうにまかりこちたい、と発音される)というので、背負っていき、建ったお寺が善光寺、つまりよしみつでらである。


 善光寺では血脈の印を額に押しつける儀式があった。血脈の印とは血脈相承のしるし、つまり仏からその血を受け継ぐので、どんな罪障も消えて、極楽にいけるとされた。それが大いにはやったものだから、困ったのは地獄で、来るものもおらずすることがなく、さびれるばかりである。

 

 そこで、閻魔は、地獄には悪人なら数多くいて人材に事欠かないから、泥棒を使わして血脈の印を盗ませることにした。ねずみ小僧や熊坂長範などの名もでたが、貫禄の点からいっても石川五右衛門が選ばれた。ところがこの五右衛門、盗みの腕は確かだが、ちょっと芝居づいている。派手な衣装を着込んで、六方を踏んで現世に出てくるや、善光寺に忍び込んで無事に血脈の印を見つけだした。ところが、芝居づいているものだから、これさえあれば大願成就、かたじけねえ、と見得を切って額に押し頂いたものだから、極楽にいってしまった。


 落語のなかには芝居噺が一ジャンルとしてあるが、大概は芝居に熱中するするあまり本業がおろそかになったものの滑稽さや、素人芝居での失敗談などが多い。この噺は芝居噺にははいらないが、芝居中の人物がそのまま登場している不調和が面白い。

 

 もともとこの噺には閻魔であるとか、鬼であるとか、でてくるのはみな、とりあえずは虚構の産物といっていい存在ばかりなので、少々現実から浮き上がっているのだが、巻き上がった埃を打ち水が鎮めるように、さらに何層も高く浮き上がった五右衛門がそれらをごく当たり前の登場人物としてしまう。

 

 もともと芝居には、ベケットから「静かな演劇」にいたるような系譜は例外として、ギアを入れ替えるような瞬間が必ずあり、歌舞伎ならば見得を切るまでの助走のはじまり、ミュージカルなら、台詞が歌に変わる、動きが踊りに変わるときなのだが、この噺では五右衛門が登場するときがその瞬間だといっていい。市井の人々の人情の機微などにはいっこう関係のない噺だが、芝居を飲み込むことができる落語の咀嚼力の強さを見事に発揮した噺には違いない。

新しい快楽ーーブリヤ=サヴァラン『味覚の生理学』

 

バルト、〈味覚の生理学〉を読む―付・ブリヤ=サヴァラン抄

バルト、〈味覚の生理学〉を読む―付・ブリヤ=サヴァラン抄

 

 

 ある日、夢を見た。夢というより、異様な快感である。自分の細胞のひとつひとつに蟻が這うようなむずがゆい感じがする。そこからぞくぞくするおののきが芳醇たるワインの香りのように一時に湧きだしてくる。全身の皮膚の表面から骨の髄までこの快感から逃れることはなかった。

 

 だが、この夢は二重の裏切りのように思われる。第一に、睡眠中の感覚は、覚醒時に較べてずっと弱い効果しかもたらさないはずだから。覚醒時は神経組織全体で対象を捉える。睡眠時に働いているのは神経組織の一部だけである。いわば、覚醒中は神経組織全体が共鳴するが、睡眠中は脳の一部で反響が生じるに過ぎないはずなのである。身体全身に及ぶこの強烈は快感は夢にはふさわしくないように思われる。あるいは諸感覚を統合する魂のようなものを考えなければならないのだろうか。それならば快感を受けとったのは魂なのだと言える。

 

 第二に、この快感はどう考えても食べる快楽とは結びつかない。食卓の快楽には年齢、境遇、出身地、時機の相違は関係ない。どんな快楽とでも結びつくし、ほかの快楽が消えうせても最後まで我々を慰めてくれる。この世界の空間と時間をおよそ隙間なく埋めつくしている快楽であったはず。しかし、夢での快感には、味覚の記憶も、食卓での素晴らしい食事と機知に富んだ会話が残してくれる濃厚な時間の感覚もなかった。

 

 そもそも人間に関する大部分のことは口、胃、腸、肛門という食物を通じてひとつながりとなる器官のなかで説明できてしまう。どんなものを食べているか言ってくれたまえ、君の人となりを言いあててみせよう、というわけである。上からではなくて下からでも。胃の働き具合を言ってくれたまえ、君の好みの文学を言いあててみせよう。便通の規則正しい人は喜劇を、しまり屋は悲劇を、ゆるみがちな人は哀歌や牧歌を好むはず。

 

 人の好き嫌いなど所詮消化作用の違いに帰することができる。口から肛門までの器官のつながりが全細胞を沸き立たせる快感のなかに埋没していることは、この快感がなにか非人間的なものなのだと思わせるに足りる。だがしかし、よく考えてみると、この快感は我々に身近なもののようでもあった。身近ではあるが我々が決して経験したことのない感覚、つまり、<食べられる>ことである。

 

ある一つの可食物質が口の中に入ると、その液体から気体までなにもかも没収されてしまってなにも残らない。
 まず唇がその逆行をさまたげる。歯が捕え噛み砕く。唾液がしみこむ。舌がひっくり返してこねまわす。吸飲運動がのどのほうに押していく。舌がすべりこませようと盛り上がる。途中で臭覚がちょいとそのにおいを嗅いだかと思うと、早くも胃の中におさまって次の変形を受け始める。これらの全過程をつうじて、この物質は一かけらも、一滴も、いや一原子といえどものがれられるものではない。人間の味覚能力にまるまるゆだねられるのである。(松島征訳)

 

ケネス・バーク『恒久性と変化』を読む2(安部公房『砂漠の思想』、パヴロフ『大脳半球の働きについて』)

 

砂漠の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

砂漠の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 

 

 

大脳半球の働きについて〈上〉―条件反射学 (岩波文庫)

大脳半球の働きについて〈上〉―条件反射学 (岩波文庫)

 

 

 

大脳半球の働きについて 下―条件反射学 (岩波文庫 青 927-2)

大脳半球の働きについて 下―条件反射学 (岩波文庫 青 927-2)

 

 

                                          第一部 解釈について

 

 

 

 

                  第一章 定位

 

あらゆる生物は批評家である

 

 すべての有機体は自らについての数多くのしるしを解釈しているという事実を認めることから我々は始められる。鱒は、針に引っかかることもあれば、顎が裂けて幸運にも逃れ去ることもあるが、その賢さを自分の批評的評価を修正することで示すことができる。彼の経験は新たな判断を下すことを促し、それは食物と疑似餌とのより賢明な区別と言葉にすることができよう。別種の疑似餌は、「顎を裂いた食物」として区別されるような外見がなければ、鱒の裏をかくことになるかもしれない。経験によって学んだ疑似餌にたまたま似たものであるために、数多くの本当の餌を見過ごしてしまっただろう。むっつりした魚がこうしたことすべてを考えているというのではない。針に引っかかってから長かれ短かれある期間は対応を変え、新たな意味合いをもつ変更された行動を取り、より学習されたやり方でしるしを読むと言いたいだけである。この批評的段階を意識的なものと想像しようが無意識的なものと想像しようが問題ではない――必要なのは、修正された判断が外面的にあらわれていることを認めることだけである。

 

 この垢抜けした鱒に対する我々の大きな利点は、我々が批評的過程の範囲を大幅に拡大できることにあると思われる。人間は疑似餌と餌との相違がなんであるかを決定するのに方法的であることができる。不運なことに、ソーンスタイン・ヴェブレンが指摘したように、発明は必要の母である。批評の力は、人間をして文化的構造を打ち立てることを可能にするが、それは非常に複雑なものであるので、文化的錯綜の下に隠れた食物処理と疑似餌処理とを区別するためには、より大きな批評的力が必要とされる。批評的能力は、解決の範囲だけでなく、問題の範囲に応じて増加する。定位は間違った方向に向くこともあり得る。例えば、抽象や一般化の力を通じて行われる征服のことを考えてみよう。次に、そうした抽象化が現実と食い違っているために生じる愚かな国家間の、或は人種間の戦争を考えてみよう。数千マイル離れたところにいる人間を最悪の敵として憎むのになんの批評的能力も必要とされない。批評が我々にとって大いに役立つときには、より優れた批評が必要とされる地点に我々はいるのかもしれない。あらゆる有機体が、自分に関わるしるしを解釈するという意味で批評家であるにしても、言葉によって利用可能になる実験的、思弁的な技術は人間に限られたもので、人間だけが経験の批評を越えて、批評の批評へと進む資質を持っている。我々は出来事の性格を解釈するだけではない(我々の反応にあらわれる恐れ、危惧、疑い、期待、確信という段階は、大雑把に言えば動物においては行動の形を取る)――自分の解釈を解釈することができるのである。

 

 パヴロフの犬はベルの音に唾液を出すよう条件づけられたときに、ある意味を獲得する。別の実験が示すところによれば、こうした意味はより正確なものにすることができる。ニワトリには特定の高さの音だけが食物のしるしだと教えることができ、他の音は無視される。しかし、人間においては、こうした解釈がどれ程浅薄なものであるか、どれ程心配してもしすぎることはない。次のベルが餌を与えるためのものではなく、集めて首をはねるためのものであっても、ベルが彼らにとってもつ性質に従いニワトリは忠実に走り寄ってくるだろう。それほど教育されていないニワトリの方がより賢明に行動することになろう。かくして、我々が正確な定位に達するときの工夫が不正確な定位にある工夫とまったく同じであることもあり得るだろう。我々に言えるのは、ある客観的な出来事は、似たような或は関連した過去の出来事の経験から意味を引きだすということだけである。ベルが鳴ること自体は、我々が呼吸する空気と同じように選ばれているわけでもなければ意味もない。我々がそれを経験する文脈に応じて性格、意味、意義(夕食のベルか玄関のベルか)が生じる。そうした性格の多くは言葉によって伝えられ、ある壜には「毒薬」とラベルが貼られ、マルクス主義者はある人間の失業を資本主義に特有の財政危機のせいにする。語それ自体もその意味を過去の文脈から引きだしてくるだろう。

 

 

 パヴロフの代表作である『大脳半球の働きについて』は1927年の刊行されており、すでに前世紀の遺物とみなされ、あまり言及されるのを見ることもないが、現代作家のなかで盛んに持ちだした人物に安部公房がいる。たとえば、「文体と顔」というエッセイでは、「パヴロフによれば、言語と認識は条件反射第ニ系という一つのものの異なった側面にすぎない。すなわち文体とは、性格が主に第一条件反射のタイプであるように、主に第ニ条件反射のタイプであり、認識のタイプである。この考え方には物質的基礎がある。」と書いてある。

 

 それはある意味、歌が中心であるオペラからダンスが中心であるミュージカルを「前庭器性空間知覚」(「ミュージカルス」)の働きによるものだと、独特の用語で特徴づけてみせる、SF好みで、現実をいわゆる日常に基礎づけることなく、砂丘や箱のなかに再構成してみせる作風にも通じている。

 

 また、いわゆる日本の伝統や五人組的な共同体のあり方に嫌悪感を抱いた安部公房が、あえて人間を生理的なものに還元することによって、個々の伝統に捕らわれない人間の共通の地盤を見いだそうとしたこともある。

 

 パヴロフの射程は存外に長いものであって、たとえば、ある利口そうな犬を条件付けの実験に使おうとし、その犬と研究員たちはすぐに仲良くなった。そこで、柔らかな縄で足をくくって、動きを制限した。ところが、犬はその後興奮状態に陥り、床をひっかいたり、柱にかみつくようになった。原因を確かめるために相当の時間を費やすことになったが、最後に犬には自由を求める反射があるのだという原因にたどり着いた。人間の崇高な理念のひとつとして数えられる自由についても、実は反射の一つに過ぎないことになる。

 

 さらに、皮肉で不気味なのは、パヴロフは科学者として、ごく平静に書いているに過ぎないのだが、毎日餌を十分に与え続けたところ、犬は最初はおそらくはストレスが強く、少ししか食べなかったが、次第に沢山食べるようになり、興奮状態に陥ることもなくなった。

 

 人間を動物へと還元し、様々な条件反射の束とみなしたパヴロフと同じく、バークも動物と人間を同一平面におくが、パヴロフがいわば動物の地の上に人間を置いたのに対し、バークは人間の地の上に動物を置くという反転を試みた。後にもつながる問題だが、名づけは認識論的布置を決定する行為である。

 

麒麟について――――シャルル・フーリエ『四運動の原理』

 

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

 

 

 

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

 

  フーリエは18世紀後半から19世紀にかけての思想家。マルクスによって空想的社会主義者と名指され、あたかも空論化のように見なされることもあるが、それはある種のアナクロニズムであり、いまだ時期の熟さぬときに、空想、つまり想像力によって社会主義の先駆者となったことを評価したのだった。

 

 神は何一つ無駄なものを創造しないとフーリエが言うとき、自然の無限の多様性に圧倒され、それを讃仰するのとはやや異なっていて、あらゆるものに神の意思があらわれており、もし人間が宇宙や社会の進化の正しい理解をするならば、その意思のあらわれを正しく読み取ることができることを意味している。

 

 たとえば、孔雀という生き物は、フーリエが人間の集団の基本的な様態と見なす組合のありようを示している。羽根を彩る眼状紋は、組合秩序の壮麗と不平等を象徴している。立派な羽根に較べて耳障りでしかない孔雀の声は、組合の調和を乱す虚偽に満ちた個人の活動をあらわしており、鳩や鷲に較べるとずっと醜いごつごつとした脚は、組合秩序を支える貧乏時代をあらわす。

 

 ところで、孔雀よりもずっと重要なものをあらわす動物があるとするなら、それは麒麟である。麒麟は真理を表現している。なぜなら、真理は誤謬を乗り越えるが、麒麟はどんな動物よりも高く頭を掲げているからだ。また、真実というものは人間の社会ではなかなか受け入れられず、無用のものと見なされることがほとんどである。同様に麒麟は牛や馬のように人間の労働の役に立つことはない。

 

 つまり、麒麟は真実と同じく、何ら行動していないときにもっとも美しく、歩いたり動きだしたりするや不格好なものとして嘲笑される。麒麟の短い角は、真理というものが社会にあらわれるやいなや刈り取られてしまうことを意味している。

 

 麒麟大自然や動物園の檻のなかのように、人間社会にとって完全に無益な場所にいるときにのみその美しさが賞翫されるという意味で、真実とまったくパラレルな存在なのだ。残念ながらこれが現状である。

 

 しかし、ユートピストとしてのフーリエの面目躍如たるのは一朝真理が社会に行き渡ったときには、〈当然のことながら〉それに応じた麒麟が姿を現すだろうと言っていることで、中国で大変革の前に目撃される龍のことなども思い合わせて想像すると胸躍るものがある。

 

われわれがいずれ組合秩序を通じて、現在はのけものにされている真理および美徳の実践に適するようになったとき、一つの新創造が行なわれ、〈反麒麟〉と称する偉大にして壮麗な奉仕者をもたらすであろう。(巖谷國士訳)