ブラッドリー『仮象と実在』 45

      (Ⅵ.非自己と対立するものとしての自己。)

 

 (6)我々は自己を理解する最も重要な方法に自然に行きついた。現在に至るまで我々は主体と対象との区別を無視してきた。我々は心的な個人から出発し、そこに、あるいはそれに関連した自己を見いだそうと試みてきた。しかし、この個人は対象と主体を、非自己と自己の双方を含んでいる。少なくとも、自己となにものかの関係があり、ある対象があらわれる限り、非自己がそのなかになければならないのは明らかである。読者は違う表現を好むかもしれないが、この事実には同意しなければならないと私は思う。もし最も広い意味で人間の精神を考えると、そこには主体と対象とその関係が見いだされるだろう。いずれにせよ、それは知覚にも思考にも、また、欲望にも意志にもあてはまる。そして、非自己と対立するこの自己は、もしそれが個別的なもの、あるいは本質において個的なものと捉えられるなら、断固として自己とは一致しない。この問題について嘆かわしい混乱があまりに広範囲に行き渡っているので、読者に特別注意を促さずにはおれない。

 

 魂が主体と対象として心的に分断されていることは、よく知られているように、二つの形がある。自己と非自己との関係は理論的であり実際的である。第一に、我々は一般的に知覚や知性をもっている。第二に、欲望と意志をもっている。ここではそれぞれの異なった本性を指摘するのは不可能である。いわんや、それが一つの根から生じたものなのかどうか言うことはできない。私に確かだと思われるのは、どちらの関係の形式も二次的な産物だということである。あらゆる魂はある段階に存在するか、あるいは存在してきて、そこではいかなる意味においても、自己や非自己は存在せず、自我や対象も存在しない。しかし、思考や意志がどのようにしてそこから--関係を欠いた感覚から--生じるのかここで議論することはできない。(1)ここでの重要な問題の理解のために議論が必要なわけでもないのである。問題となっているのは自己と非自己の内容である。我々はそれを起源とは切り離して考えることにする。

 

*1

*1:(1)この点、またそれに関連した点については『マインド』の47,48号を 参照。また後述を見よ(第十九、二十六、二十七章)。

ブラッドリー『仮象と実在』 44

      (Ⅴ.関心を抱くものとしての自己。)

 

 (5)自己とは私が個人的関心として受け取るものなのだと思われるかもしれない。私のものだと感じられる要素が自己と見なされ、それがつまりは存在する自己のすべてなのかもしれない。そして、関心とは、全部ではないが、主に苦痛と快感に存している。それ故、自己とは多いときも少ないときもあるが、常に存在する感情の集まりであり、常に快感や苦痛がついて回る。そして、時に応じてこの集まりに結びつくのが個人的な出来事であり、自己の一部となる。こうした一般的見解は自己を新鮮な方法で捉える。しかし、明らかに形而上学にもたらされるものはほとんどない。というのも、自己の内容は時によって最も変化の多いものであり、たいていは争いあっている。そして、それは多くの異なった源から引かれるものである。事実、もし自己が我々が個人的に関心をもつものを意味するだけなのだとしたら、それはいつでも広くなりすぎる傾向をもつか、または狭すぎるものであろう。時間によってまったく異なったものになるようなのである。

ブラッドリー『仮象と実在』 43

      (Ⅳ.モナドとしての自己。)

 

 我々はここまで、自己がなんら明確な意味をもたないことを見てきた。それは個人の内容のある部分とは言えない。また、日常性に還元されるような、平均的と捉えられるような部分でさえない。自己は本質的な部分や働きであるようなのだが、その本質がなんであるのか誰も本当にわかっているようには思えない。我々が見いだすことができるのは互いに不整合な様々な意見だけであり、そのどれ一つをとっても、その意味を明らかにするように強いられると誰も保持することができなようなものだろう。

 

 (4)個人の内容からある部分を選択する、あるいはその全体を受け入れることでは、我々は自己を見いだすことに失敗した。そこで、ある種のモナド、あるいはなんらかの単一な存在に位置づける気になるかもしれない。これに従えば、多様性と同一性のやっかいや問題が正々堂々と後回しにすることができる。単一体は単一体として存在し、ある領域において偶然と変化から守られると思われる。ここではまず、そうした存在の可能性に反対する我々の結論を思い起こそう(第三章、第五章)。次に、その本性の曖昧な点について少々指摘しよう。それが自己だというなら、いかなる広がりでどのような意味でそうなのだろうか。

 

 もしこの単位が人間の生涯と平行に動くもの、あるいは、動かずに、継起する多様なものとの関係のうちに文字通りに立っているものならば、それは大して我々の助けとなるものとはならないだろう。それは人間の自己に対して、(もし彼がもっているなら)星のような関わりしかもたず、上から見下ろし、もし彼が滅んでしまうにしても関心をもたないものである。この単位が人々の生に引きづりおろされ、ある意味彼の財産を傷つけるとしても、それがそうした単位のままだというのはどういう意味においてであろうか。問題となっているところだけをみると、我々はこうした結論を余儀なくされる。もし我々が自己がなにを意味するかをすでに知っており、その存在を指摘できるなら、我々のモナドは自己を考慮に入れた理論として提示されていたことになる。それは擁護しがたい理論ではあるが、少なくとも、なにかを説明しようとしている点で尊敬できる。しかし、自己の存在の現実的な事実にある諸制限についてなんの明瞭な考えももっていないなら、我々のモナドは古くからの混乱と曖昧さを残すことになる。さらに、それは我々が無知な諸事実に関わりのある問題へと我々を導くのである。私が言っているのは、単純な次のようなことである。自己が記憶から成り立っているという見解を受け入れ、ひとつのモナドでも、二つでも三つでも、記憶の原因となる事実が要求するだけの数を提示してみるとしよう。私はその理論を価値がないと考えるが、ある程度尊重する、というのは少なくとも幾ばくかの事実を取り上げ、それを説明しようとしているからである。しかし、もし曖昧な集合と、それに沿って存在する単位があり、第二のものが第一のものの自己だというなら、それがなにかを言っているとは私には思えない。私が見て取るのは、あなたがジレンマに向っているということだけである。モナドが多様性や多様性のある部分を有しており、そこに我々が個的なものを見いだし、あなたが自己の同一性を見いだすにしても、それとモナドの単一性とを調和させる必要がある。しかし、モナドがどんな性格もなく、個別的な性格から離れて存在するならすばらしいものだが、それを人間の自己と名づけるのは単なるごまかしである。これで十分だろうから、次の点に移ろう。

 

 

ブラッドリー『仮象と実在』 42

      (人格の同一性。)

 

 我々は個人の同一性の問題に行きついたわけで、自己というときその意味を知っていると思っている者は誰でもよいのでこの問題を解決してみてほしい。私には解決不可能に思われるが、それは、問いかけられた問題が本質的に答えることのできないような問題だからではない。この失敗の真の原因はここにある--つまり、なにを意味しているか知らないような問題、その意味が恐らく間違ったことを仮定しているような問題を問いかけることに固執しているのである。第三章で見たように、同一性の探求にはあなたがどういう観点から尋ねているかが確かに最も重要なのである。ある事物は、見方によって同一でも異なってもいる。それ故、人格の同一性については、主要な点は人格の意味を確定することにある。その点についての我々の観念が混乱しているからであり、そのままではそれ以上の結論に行きつくことはできないからである。

 

 一般的な見解では、人間の同一性は主にその身体にあるとされている。(1)十分な考察を加える前に、重大な点がある。身体は同一だろうか。それは連続的に存在しているのだろうか。このことについて疑いがないなら、なにが侵入し感染するにしろ、人間は同一であり、個人の同一性を保持すると仮定されるだろう。しかし、もちろん、既に見たように、身体の同一性はそれ自体疑問の多い問題である(p.73)。そのことを離れても、単なる有機体の単一性が個人の同一性を確定するとは非常に未熟な考え方に違いない。自己が身体であると主張する者さえほとんどいないのである。

 

*1

 

 では、心的な連続性を必要条件のうちに加えれば、更に先にまで進むことになるのだろうか。明らかに、心的な流れに裂け目がないのかどうかは、知られていないし、決めることができないように思われる。表面的に考えれば、睡眠などの間には少なくともそうした中断が可能ではある。もしそうなら、疑わしかった連続性は、同一性の証明に使用することはできない。更に言えば、我々の心的な内容が多かれ少なかれ変化しうるものなら、中断が単にないからといって同一性を保証するに十分だとは考えることができないのである。私が判断する限り、通常、個人の同一性には、連続性と性質の同じであることの双方が必要とされる。しかし、それぞれどれほどの度合いで必要とされているのか、二つはそれぞれどのような関係にあるのか--その点について私は混乱以外にはほとんど見いだすことができない。このことをより詳しく調べてみよう。

 

 我々は多分、一つの自己を一つの経験と理解している。それは、外側にいる観察者にとって一つであるのか、問題の自己の意識にとって一つであるのかを意味し、後者の単一性は観察者につけ加えられるものなのかそれとは別のものとしてある。自己はその限界内において性質が同一でなければ単一ではない。しかし、既に見たように、個人が外側から見られるとき、変化が生じないような、それでいて真の自己をを包むのに十分な限界を見いだすことは不可能である。それ故、外側からの観察者にとってしか同一性が検証されないのならば、ときに、人間の生涯はいくつかの自己の系列であるのは明らかであるように思われる。しかし、継起が行われる場所で差異の点がどこにあるのか、どういう原則でそうなるのかは定義できないように思われる。この問題は非常に重要だが、結論はもしあるにしてもまったく任意であるように見られる。しかし、外側の観察者の観点から見ることをやめれば、なんらかの原則を発見できるかもしれない。試してみよう。

 

 判断基準として記憶をとろう。自身を記憶する自己はその限りでは単一である。そこに個人の同一性がある。記憶はそれ自身である意味完全であり、いわば何ごとでもできるものと見なすことで我々は自分の説を強化したいと思うかもしれない。しかし、もちろんそれは全くの間違いである。記憶はある特殊な複写の応用で、通常の心理学に例外的な不思議をあらわすものでもなく、他の働きに見られる以上の大きな難点をもつものでもない。私がここで強調したいと思っているのはその限界と欠点についてである。広がりをとっても長さをとっても、あなたは、それが単一性というには大きく欠けたところがあるのを見いだすことになる。我々が語っている一つの記憶は、我々の多様な生活にある多くの側面に対応するには弱すぎるし、他の側面については不釣り合いに強い。それ故、むしろ隣り合った記憶の束があり、ある部分ではそれは結びついていないように思われる。ある時間について我々の思い起こすことのできるのが断片的であることは確かである。我々の生にはまったく失われてしまったこともあるし、弱々しくしか呼び起こせないものもある。記憶が最上の状態にあってもこうである。そうでなければ、どれほどの欠損があるかわからない。束になった何本かの糸が欠けていたり弱かったりするだけではなく、束そのものが失われることさえあるのである。眠っているとき、薬の影響があるとき、なんらかの病気のときの我々の生の断片は表象されない。それにもかかわらず、疑いもなく、流れは連続的なものとしてあらわれる。事態が更に進み、病のせいで想起が部分的で歪んだものになったとしてもそうである。いやむしろ、ある一人の人間に、二つの分離した記憶の周期的な交代があるときにも、その本性を保持し、同一性を主張するような働きがあるのである。心理学はそれがどのようになされるか説明している。記憶は現在という基盤の複写から成り立っている--その基盤は自己-感情からなると言われている。それ故、この基盤が生涯を通じて同一である限り、一般的に言えば、一度でもそれに結びついたものは何でも思い起こすことができる。そして、この基盤が変わったとき、我々はその過去の出来事とのつながりが、豊かさや強さにおいていかに曖昧に変わるものであるかを理解する。同じ理由によって、自己-感情が一般的に容認される限界を超えて変化すると、過去の複写に必要とされる基盤が取り去られる。そして、異なった基盤が交互にあらわれるような場合、我々の過去の生は一つの自己としてではなく、多様な自己としてあらわれる。もちろん、こうした「再生された」自己は、相当部分において決して過去には存在しなかったものである。(1)

 

*2

 

 ここで、その同一性が、様々な事実に直面した際の単なる記憶だけで成り立っているような人間を呼び出し、彼がそれをどのように理解しているのか示してもらうことにしよう。彼が個人の同一性には様々な程度があることを認めないにしても、生涯において我々が一つの自己以上のものをもつことができることは少なくとも否定できないことは明らかである。更に言えば、彼が過去との自己-同一性を捉えることができるとしても時々のことであり、それは他人にはまったく捉えられないものである。こうした状況において、自己がどうなるかを見て取るのは容易なことではない。しかしながら、更に進んでみよう。怪我で手術をしたときに無意識の状態が続き、心的な生活が怪我した時点から再び始まるというのはよく知られたことである。さて、自己がいまにあるという条件で思い出すというなら、同じ性質をもち、現在において回想される同じ過去をもつもう一つの自己をつくることが可能なのではないだろうか。一つつくることができるなら、二つや三つなぜつくれないことがあろう。それは現在においてはばらばらで、外的な諸関係に従って性質が異なっているかもしれないが、それぞれが同じ過去を記憶し、それ故、ほとんど同じものである。どうしてこうした仮定が理論的に不可能なのか私にはわからない。以前に明らかにしたように、自己は単なる記憶だけでは同一とは考えられず、記憶が誤りでないと考えられる限りにおいて同一なのだと認めるのが助けとなるかもしれない。しかし、このことは、同一性というのは最終的には過去の存在に依存しなければならないもので、単に現在の思考だけでは維持できないと認めることになる。そして、一般的な見解によれば、ある程度の、あるはっきりしない意味での連続性が個人の同一性には必要なのである。瀕死の状態から蘇った者は確かに同一だろうが、彼の曖昧模糊とした食、半存在といった状態について我々は意味のあることをなにも言うことができない。同じような人間が時間の途切れの後に新たに創造されたとしたら、二人の人格を認めるには不十分かもしれないが、一人であるには多すぎると我々は感じることだろう。かくして、明らかなのは、個人の同一性にはある連続性が必要だが、どれだけ必要なのかは誰にもわからないようだということである。実際、もし我々が曖昧な文章や意味のない一般化に満足できないなら、最良の方法は問題を問いかけないことだとすぐわかる。しかし、問いに固執するなら、こうした結論が残されているだけのようなのである。個人の同一性とは主として程度の問題である。自己のある点に制限すれば問題は意味をもつだろうが、ここでも、限定は観点の任意の選択によってなされるだけなのである。どの場合においても、最終的にどこに制限をおくのか、はっきりした原則はない。そして、ある自己の全体的な同一性というのは意味がないゆえに解決することができない。繰り返すが、この問題は、自己というのがなにを意味しているのか明確な観念を得るまではまったく無意味である。ある人間がこの点、あるいはあの点において、そして、ある目的において同一かどうかをもしあなたが尋ねるにしても、そのとき我々が互いに理解し合っていないなら、我々がいるのはまだ理解の途上だと言える。私の見解では、理解が得られたときでさえ、多かれ少なかれ協議や調整によって始めて目的に達するだろう。尋ねられた問題の一般的で十分な答えを探すのはキマイラを追いかけるようなものである。

*1:(1)『隔週レビュー』の228号、820ページで、私はこの問題について更 に論じた。

*2:(1)催眠術によって示唆される自己と再び比較せよ。

ブラッドリー『仮象と実在』 41

      (Ⅲ.本質的自己。)

 

 3.それでは、以前のように、人間の心をとり、その調度と内容とを調べてみよう。我々はその一部には自己があり、それが一つのものであることを見いださなければならない。我々が知る限りでは、ここで一般的な観念の助けを求めることはできない。しかしながら、感情の内的な核、体感と呼ばれるもののあるところが自己の土台となっているように思われる。(1)

 

*1

 

 しかし、第一に、この内的な核はどんな線を引くことによっても、人間の標準的な自己から切り離すことはできない。第二に、その要素は多様な源からきている。あるものは、他の部分と切り離せるわけではないが、ある種の自己でないものとの関係を含んでいるだろう。個人というものが、周囲の状況からくる変化によって完全に不安定になってしまうものなら、その変化は病気や死さえも引き起こすような厳しい自己疎外の感情を産み出すだろうし、我々は自己が壁によって守られていないことを認めなければならなくなる。そして、本質的な自己が終わるところから偶然的な自己が始まる、というのでは答えのないなぞなぞのようなものである。

 

 問いに答えようとすることは致命的なジレンマに悩まされることでもある。変化することのできる本質をとれば、それは本質でもなんでもない。より狭いなにかに立脚すると、自己は消え去ってしまう。決して変わることのない自己の本質とはなんだろうか。幼児期と老年、病気や狂気はそれぞれ新たな特徴をもたらすが、他のものは持ち去られてしまう。実際、自己の変わりやすさに制限を設けることは困難である。疑いなく、ある自己では滅びてしまうような変化を耐えられるような自己もある。しかし、その一方では、ある人間がもはや彼自身ではないと我々が認めざるを得ないような点がある。幻影に我を失い、記憶を喪失し、雰囲気は変わり、病んだ感情に支配されてしまったような場合、その自己は我々の知っていた自己だとまだ言えるのだろうか。そうだとしてみても、あなたが示すことができないのは、決して何ものにも侵されるようなことのない地帯、触れられない点である。その地点を明らかにするよう求めようとは思わないのは、それが不可能であることを私が確信しているからである。しかし、このジレンマの反対の面にあなたの注意を向けるようにしてみよう。この狭く変わることのない感情や観念、「空からの影響に盲従する」ことのないしっかりとした本質、この惨めな小片、貧弱な原子、些細なあまりに危険にさらされているもの--あなたはこのむき出しの断片が本当に自己だと言おうとしているのだろうか。この仮定はまったくばかげたものであり、問いかけは答えを必要としていない。自己が変化することのない点にまで狭められると、この点は真の自己以下のものである。しかし、より広くなると、それは「なじみのない結果へと転換する」ようなある「様相」をもち、それ故一つの自己ではあり得ないのである。謎は我々が解くには難解すぎる。

*1:(1)より詳しいことは『マインド』12号p.368以降にある。私は、観念 が内的な自己の部分をなすのではないと言おうとしているわけではない。ここで、 催眠術に示唆されるような奇妙な自己を考える者も当然いるだろう。

ブラッドリー『仮象と実在』 40

      (Ⅱ.経験の平均的な内容物としての自己。)

 

 2.ある瞬間における人間の内部にある集合体では、自己とはなにかという問題に対する回答として満足のいくものではない。自己は、少なくとも、現在時を越えた何ものかでなければならないし、相矛盾する変化の系列を有することはできない。そこで、我々の答えを変え、ある一瞬における集合体ではなく、恒常的で平均的な集合を自己の意味だとしてみよう。以前のように、人間に関する部分だけを完璧に切り分け、心的な内容のすべてをあらわにしてみよう。そして、別の時間におけるその部分を保持し、それ以外の部分は取り除いてしまおう。残っているのが彼の経験を満たす標準的で通常のもので、それが個人の自己である。この自己には、以前と同じように、知覚された環境--端的に言えば、自己に対面する非自己--が含まれているが、今度の場合、一般的で標準的な非自己しか含まれないだろう。そして、それは個人の習慣と彼の性格を決める諸法則--それがどんなことを意味しようとも--を含んでいなければならない。自己とは、彼がある振る舞いをする限りにおいては、振る舞うときの普段通りのやり方、普段通りの事柄に対する振る舞いであろう。

 

 我々は、ここで本質的な自己と偶然的な自己とを区別しようとしているが、まだその地点にまでは到達していない。しかしながら、我々はある瞬間、あるいは継起する瞬間における個別的なものすべてを自己として残し、そこに個人の通常の構成要素を見いだそうとしている。人間を通常の自己たらしめるものはなんだろうか。それは習慣的な性癖や内容であり、日ごと、時間ごとの変化ではない、と我々は答えた。それらの内容とは、単に人間の内的な感情でも、自己としての内省でもない。それは、人間をいまあるようにしているのが関係である限り、本質的に外的な環境のなかで成り立っている。というのも、もし我々が人間をある場所と人々から切り離そうとするなら、彼の生涯を変え、彼は通常の自己をもたないことになるからである。更に、この習慣的な非自己--という表現を使うとすれば--は人間の生活の個人的な部分にまで入り込んでいる。恐らく、妻や子供やある種の環境は、もし破壊されたとしても、もし人間の自己が根本的に変えることができないものなら、なにか他のもので埋め合わせることはできないだろう。それ故、こうしたものは個人的に必要な構成要素だということができる。つまり、その曖昧で幅広い性格のためではなく、このあるいはあの個別の事物の特殊性のために必要なのである。しかし、通常の自己の他の部分は一般的に必要なものだけで満たされている。彼の通常の生活はそうした性格、つまり、ある制限のなかで変化する数多くの細部で成り立っている。彼の習慣や環境の主要な輪郭は同じままなのだが、その内部のある特別な部分だけが大きく変わるのである。人間の生活のこの部分はその標準的な自己のために必要なのだが、もし一般的な型が保持されると、特殊な細部は偶然的なものとなる。

 

 恐らく、これは人間の通常の自己についての公平な考えではあるが、理論的な難点にはなんの解決にもなっていないことは明らかである。我々が辿ってきたことによると、人間の真の自己は、絶えず変化するものとの関係に依存することはできない。絶えざる変化とは単なる言葉ではない。人間の生涯には、取り戻すことのできない変化が存在するからである。喪失や死や愛や流浪が生の流れを変えたとき、文字通り、彼は以前の彼ではないのではなかろうか。そして、我々が諸事実を見やり、ゆりかごから墓場までの人間の自己を辿ってみると、標準的な自己など見いだすことができないのである。ある時期に通常の自己は別の時期では通常ではなく、矛盾する心的な内容を一つの集合に結びつけることなど不可能である。そこで、我々は人間の自己を単なる歴史として受け取るのか、しかしもしそうなら、どうしてそれを一つのものだと言えよう。あるいは、ある時期に探求を制限し、もはや単一の自己など存在しないとするのか。あるいは、最後的に、自己を人間の通常の心的構成要素から区別しなければならないようになるか、である。我々は本質的な自己を見いだすことによって、個的な自己に到達するよう努めなければならなくなる。

ブラッドリー『仮象と実在』 39

      (他を排除した身体としての自己。)

 

 身体と同一視される自己についてだけ言及することにしよう。我々の身体の知覚には、もちろん、いくつかの心理学的な誤りがある。そしてそれは、なんらかの直接的な提示によって、自己の真のあらわれとは有機体の存在なのだということを正当化しようとするときに形而上学的な形をとることになる。しかし、これらのことはみなそのままにしておこう。というのも、我々の到達した点には、おなじみの難点からの出口はないように思われる。

 

      (Ⅰ.ある瞬間の経験の全内容としての自己。)

 

 1.それでは、外にある物体を除いた上で、自己の意味を調べてみよう。最初に出てくるのはかなり明らかである。このあるいはあの個別の人間の自己とはなにかと問うことによって、私は彼の経験の現在の内容を調べることになる。ある瞬間における人間の切断面を取り上げてみよう。感情、思考、感覚のかたまりがあって、それは事物や他の人間や自分自身からきたものである。もちろん、それにはすべてのものに関する彼の観点や望みも含まれている。自己と非自己のどちらにも分けることのできないあらゆるもの、端的に言えば、このあるいはあの瞬間における人間の魂の総体的な中身、それがあるときにおける個人とはなにかと問うときに理解されるものである。原則的にここに難点はないが、当然のことながら、詳細を(詳細として)扱うことはできないだろう。我々の現在の目的には、こうした意味では見込みのないことが明らかである。