ブラッドリー『仮象と実在』 52

  第十章 自己の実在

 

      (自己は疑いなく一つの事実であるが、そのあらわれは実在であり得るだろうか。)

 

 この章で我々は自己の実在について簡単に調べてみなければならない。当然のことだが、自己はある程度、ある意味において事実である。もちろん、このことは問題ない。問題なのは、どんな意味だろうと、自己が実在でありうるかどうかである。我々がこれまで見てきたところでは、事態は本質的に不整合であるように思われる。自己のある部分については、それ固有の存在を守り正当化するばかりでなく、加えて、それが被ってきた非難から救出するような主張が存在することがわかっている。しかし、この主張の後の部分については議論のないまま残されていた。我々は自己が致命的な反論から自らの実在を守る力がないことを見いだすだろう。

 

 多様性と一様性との関係は古くからの難問である。多様性が複雑なものとなり、一様性がより具体的になるにつれて、我々の難点は増大していく。自己に到達した途端突然の変化や幸福な解決が待っているとは正当な根拠がないことに思える。そして、ある地点で見いだした個的な自己を見ても、もつれた混乱状態を秩序づけ、まとめ上げるような調和はないように思える。少なくとも、一般的な観念はこの点については明らかに無効である。断面図によって示される現象の複雑さは存在すると認められねばならない。しかし、変化から離れ、それらがどうすれば一つのものたり得るのかは試みられたことのない問題である。自己が時間において変化するとき、明らかなものとしてあらわれる、あるいはむしろ目前に迫る不整合を正当化することができるだろうか。我々には事物の同一性については確言できないが、人格の同一性については確言できる方法があると言われるかもしれない。しかし、不運なことに、それはいまの問題とまったく関係がない。自己が存在し、ある意味同一であることは、疑う余地のないことである。疑問なのは、我々が理解するその同一性が本当に理解可能なものなのか、我々にあらわれるような性格で真たり得るのかということである。というのも、自己とその同一性がともかくも実在に属することが確かだとすると、この事実がともかくも本質的に誤解されていることも等しく確かだろうからである。我々の結論は、それ自体自己矛盾しているので、この事実はそれ自体としては非実在に違いないということである。最終的には、自己もまた仮象に過ぎないのである。

ブラッドリー『仮象と実在』 51

      (Ⅶ.単なる自己としての自己。)

 

 (7)我々が見過ごすことのできないもう一つの自己の意味が存在するが、いまはそれについて僅かに言及するだけで十分である。(1)私が言おうとしているのは、自己が「単なる自己」、「単純な主観」と同一視されるような場合についてである。この意味を一般的に確定するのは難しいことではない。個人の心的な内容で、ある種の働きには関わりをもたないある部分のすべてが単なる自己として働くものである。かくして、思考においては私の心にあるすべて--問題となっている思考に役立たないすべての感覚、感情、観念--は非本質的である。そして、それが自己なら、単なる自己である。道徳や美的感覚においては、そうした過程(ある過程をとるというなら)以外にあるものは、過程にある「対象」と関わらないならば、単なる「主観」である。心的な個人のどの部分でもありうる単なる自己は、いま問題になっていることからすると、否定的にしか受け取れない。少なくとも関連がなく、もっと悪い可能性もある。

 

*1

 

 一般的に言えば明らかな意味があるが、我々が直面している難点にはなんの助けにもならないだろう。留意すべき点は、一定した適用がされないことである。ある目的にとって「客観的」で本質的であることは、他の種類の目的にとっては関係がなく「主観的」であるかもしれない。このことは同じ種類の事例の間でもある。例えば、ある道徳的行為に本質的な特徴は別の行為では意味がないかもしれず、それ故に単なる私個人の見解であるかもしれない。端的に言って、我々が考慮するその時々の目的によって「客観的」と「主観的」が変化しないようなものは存在しない。ここで言われている自己は偶然的な自己を意味している。この意味を前の意味と比較してみると、それらが一致しないのは明らかである。それは広すぎるし、また狭すぎる。広すぎるというのは、本質的にはすべてがそこに含まれてしまうからである。狭すぎるというのは、それをある種の体系に結びつけようとすると、すぐさま単なる自己として除外されてしまうからである。それは単に感じられるものではない。というのも、本質的に否定によって限定されるからである。それは、単なる感覚を越えたなにかに対立するものとして、残余として外側に残る。望むなら、それを対照的にただ単に感じられたものと呼ぶこともできる。しかし、そのように直接的に存在するものとして考えられるなら、感覚のもとにすべての心的な事実を含めなければならないだろう。しかし、ここではこれ以上この点について考える必要はない。



 簡単にこの章の結論をまとめてみよう。事物の本性について我々がもっている観念--実体と属性、関係と性質、空間と時間、運動と活動性--はその本質において擁護できないことを見いだした。しかし、我々は自己が混沌に秩序をもたらすものだという噂を聞きつけた。そして、まず第一に、この言葉がなにを意味しているのか知りたいと思った。この章は多すぎるくらいの答えを与えてくれた。自己は多くのことを意味し、それらはひどく曖昧であり、適用に際して常に変動していて、我々は勇気づけられているとは感じられなかった。まず、人間の自己は想像による断面図をつくることで発見できる現在の総体的な内容であるとされた。あるいは、それは我々が気質と呼ぶようなものとともに見いだされる標準的な内容であるかもしれなかった。このことから、我々は自己を自己の内部にある本質的な点あるいは領域として探ることになった。そして我々が発見したのは、我々が実際にはそれがなんであるかを知らないということだった。個人の同一性のもとで、争い合う観念の混乱した集まりを考えているのだと理解されることになった。自己は興味深いということだけで、満足に証明されはしなかった。このことから、我々は非自己に対立するものとして自己を区別し分離した。ここで、理論的、実際的関係において自己は固定した内容をもたないことがわかった。あるいは、もしあるとしても自己を形成するに十分なものではない。この関連で、我々は活動性の知覚の起源を認めた。最後に、我々は他の用例とは一致しない自己のもう一つの意味に光をあてた。そして、我々はそれが、心的な事実がある目的に用いられるとき、その外側にとどまり続ける心的な事実を指すものだということを見た。この意味において、自己は使用の欠如として否定的に定義される未使用の残余であり、肯定的にいうと、単なる心的存在の感覚における感情だということになる。結局、この論題に本質的に収まるものも、収まらないものもなかったのである。

*1:(1)第十九章を見よ。

ブラッドリー『仮象と実在』 50

      (活動の知覚、その一般的な性格。)

 

 「自己」に与えられたもう一つの意味に注目しよう。しかし、まず七章の主題にさらなる光をあてるよう試みなければならない。自己による自らの活動性の知覚は心理学の片隅にあって、暗闇に取り残されたままだと危険である。この危険は次の章で明らかにしょう。ここではいくつかの盲目的な先入観から切り崩していこうと思う。私の失敗は、もし失敗するとすれば、論理的にその存在を正当化できないことにあろう。疑いなくそれは口実ととして使用されるかもしれないが、結論をだすためにはそうした危険を冒すことを余儀なくされている。

 

 活動性の知覚は非自己に対抗する自己の拡張からきており、この拡張は自己から生じる。(1)そして、自己によって意味されているのは個人の全内容ではなく、上述した実際的関係の一つの項である。そこでは、いかに、ある観念が非自己に直面し、自己の集合と一体化されるかが見て取れる。そして、この観念によって自己は拡張される。拡張はそれ自体では(2)常に快楽の源泉である。もちろん、単なる拡張は活動性とは感じられず、その自己内部からの発生が本質的な事柄である。

 

 

*1

 

 

 しかし、この見方を理解するためにはいくつかの点を押さえておく必要がある。1.第一に、拡張は、個人全体の意味での自己の拡大を必然的に伴うわけではないことを読者は理解しなければならない。そのどんな意味においても、非自己に対立する自己が拡大するのでさえない。変化の観念と一致する限りにおける自己の拡張である。例えば、私が自己矛盾したものを生み出そうとするなら、それはまた拡大でもあり、というのも、ある領域の事実に制限されていた観念がその限界を超えることになるからである。かくして、自己破壊でさえも、活動性が続く限りは、拡張と連動している。一般的に言って、ここにある自己とは、その内部で、主要な関心事を感じているものである。というのも、それはもっとも内部にある存在と切り離すことができないものでありながら、そこで突出しているからである。この点を逃すなら、活動性が意味することを理解することはできない。

 

 2.このことはある難点に我々を導く。明らかに、私が活動的でありながら、そこに観念がなく、つけ加えるなら、制限を加えるような非自己がない場合がある。非自己を最初に取り上げよう。(a)議論のために、外に一切他のものがなく、空虚な状況だという意識もなく、自己が拡張を感じていると想像してみよう。どうして我々はそこで非自己を発見することができるだろうか。答えは単純である。自己はそれ自体の限界として存在しており、活動性によってそれを越える。活動のまえの自己をAとし、活動の間の自己をABとしよう。しかし、第三の特質、Aの内的な性質であり、ABから生じるものがある。すでに見たように、これが変化の観念であり、それをbと書くことにする。それ故、我々が始めに有しているのは単なるAではなく、bによって修正されたAである。そしてそれらは互いに対立している。修正されていないAはbと同一化したAの非自己である。AbとAとの緊張関係は、変化の内的な源泉であり、当然、bをBに拡張し、結果的に、その地点にまでAを拡張する。望むなら活動性を、事物をその現実的な限界から越えさせる事物の同一性と呼ぶこともできる。しかし、真に重要なのは、ある意味我々が変化の観念を仮定し、その観念に対して自己が関心をもち、自己の実際的な条件が非自己でない限り、活動性は意味がないことを認めることにある。(b)もちろん、このことは問題を引き起こす。自己が自身を活動的と捉えるとき、一見そこには観念がないように思われる。しかし、その問題はあからさまな観念とそうでない観念を区別することで解決される。後者は、その内容が存在を越えて用いられるという意味においてのみ観念である。(1)実際、活動性のことを記述するとき、その終端は常に観念のなかで始まりにまで運ばれる。それが真実なのは疑いがない。しかし、活動性が単に感じられるとき、そこには決してあからさまな観念は存在しないだろう。観念がないとき、なにが起こるのか説明してみることにしよう。最初に存在する自己をAcと呼ぶことにする。この自己はAcdになり、拡張する。しかし、もちろん、拡張それだけでは活動性ではなく、そう感じられることもない。AcからAcdの移行は単なる変化、同じAに付加されたものと感じられる。cとdの際が同一のAによって結びつけられると--変化を知覚するにはそれらは結びついていなければならない--その限りにおいて、生じているのは能動的な行動でも受動でもなく、単なる変化である。それでは活動性には十分ではなく、Acのなかにdの観念であるδが必要とされる。この観念はあからさまな形でもっているわけではない。しかし、こうすれば十分であると私は考える。Acは事実としてAcdとなり、連続した関係の知覚によってそう感じられるのだが、それはまたあらかじめAcδとして感じられていたものでもある。つまり、dへ実際の変化とは別に、その以前に、Aにおいて我々はAcをぐらつかせ、取っ組み合うAcδという素因を有していたのである。AcはAcδを示唆し、AcδはAcとともにあり、それ以外のものからもたらされることはない。しかし、この示唆では、Acδが生じるやいなや否定によって抑制され、Acだけがその場所にとどまることになる。それ故、AはAcδがAcに対して戦う場である。それぞれAにあると感じられ、そこに属し一つのものである。そしてこの不一致を解決するような関係は存在しない。それ故、AはAcdであり、かつそうではないという感情が生じる。しかし、系列の関係がこの矛盾を解決するように思われるにしても、そこから導き出される結果は単にAcに付加されるものとは感じられない。Acdという結果として感じられ、以前にはそれはより強いAcに引きとどめられていた。かくして、まったくあからさまな観念がなくとも、ある観念が実際に用いられることはある。というのも、そこには存在を越えてそして存在に対抗して用いられる内容があるからである。私が思うに、これが最も早い時期に活動性と感じられるものについての説明である。

 

*2

 

 この簡潔な考察には、当然異論もあるだろうが、単なる誤解によるもの以外については十分対応できたと信じている。この問題は心理学に属するものだが、ここではそこまで追求するのは止めておくべきだろう。読者は、変化の知覚において、私が終りと始まりとの必然的なつながりを仮定したのを見られたことだろう。これは同一であるAからの復元であり、まず、結果においてもとどまり続けている出発点についての後感覚に助けられているのだろう。ここで私が仮定せざるを得ないのもそのことである。さらに、Acdの実現は、たとえばEのようなAの外側になにかをつけるものであってはならない。それは、活動性を感じ取る仮象にとっては致命的なものとなろう。我々の感覚ではAはAcdでなければならない。そして、より支配的なAcによって抑制されねばならない。それ自体で確立することは不可能であり、争いを経なければならない、つまり、衝突と動揺がなければならない。それ故、動揺するAcδはその部分的な達成において喜びの源泉となるのだが、好むなら、否定とも欠如とも--これが後に奇妙でけしからぬ雑種、潜在的な存在となるのだが--言うことのできるAcから抵抗を受けている。そして、存在によって退けられる内容としてのδはその本筋においてあからさまな観念となる。この僅かな説明だけで、我々は心理学への寄り道から戻らなければならない。

 

*1:

(1)この点は『マインド』pp.319-320;47,pp.371-372;49,p.33を参照。私 はワ ード氏の批判(『マインド』48,pp.572-575)には詳細に答えること はなかったが、私の見解によればそれは単なる誤解であり、それを取り 除くことは私の関心 事ではない。

(2)この点についてのさらなる識別は『マインド』49号、6ページじ以 降を見よ。

*2:(1)『マインド』49号、23ページ。また、後の第十五章163 ページ。

ブラッドリー『仮象と実在』 49

      (全体における自己と非自己は固定したものではない。)

 

 実情は次のようなことだと思われる。ある瞬間に魂を満たす心的全体とは、その集合がただ感覚される限りにおいてのみ自己である。つまり、集合が一つの全体にまとまっており、快感や苦痛と特別に結びついた集合と分離不可能である限りにおいて、この全体は自己と感じられる。しかし、他方、内容の要素は、集合、つまり知覚の背景となるものと区別される。しかし、この非自己と自己との関係は古くからの全体的な自己を破壊しない。それはまだ、区別や関係を内部に含む全体的集合である。そして、この二つの意味の自己は、明らかに一致しないにもかかわらず、共存している。さらに、実際的な関係においては、新たな特徴が見て取れる。第一に、全体を感じ取れる条件としての自己がある。次に、自己に対立すると感じられる非自己がある。さらに、制限されながらも拡張しようともがく集合があり、それが緊張を生み出す。もちろん、これも特別に自己と感じられるものであり、その内部において新たな特徴が注目に値するものとなるのである。欲望や意志において、我々は存在する非自己に対してある観念を抱き、その観念はこの非自己の内部で変化するものである。この観念は非自己と対立する自己の一部と感じられるばかりでなく、その主要な特徴であり、目立った要素であるとも感じられるのである。かくして、我々はその自己の全体がある特殊な目的に集中しているような人間について語ることがある。このことは、心理学的に言えば、観念は非自己によって抑圧される内的な集合をもった全体であり、その緊張は観念の領域において集中的に感じられる、ということを意味している。観念は、かくして、自己の内容の目立った特徴となるのである。そして、その拡張や縮小に応じて、非自己の現実的な集合は私自身の拡大とも制限とも感じられるのである。ここで、読者が、存在する非自己とはある内的な状態であり、その変更が欲せられることを思い起こすなら--そして、再び、観念は理論的に見れば、非自己であることを思い返すなら--ある特殊な内容に付随し、それと切り離せないような資質など全くないことを悟るだろう。

ブラッドリー『仮象と実在』 48

      (疑わしい事例。)

 

 読者は私が守っているある点に気づかれたかもしれない。その点とは、非自己と自己の内容を相互交換する上での限界点である。私は一瞬たりともその限界の存在を否定することはない。私の見解では、あらゆる人間には対象とは決してなしえないし、実際的にそれが不可能な、内的に感じられる核とその要素が存在することは可能であるばかりか、信じる根拠のあるものでもある。当然体感にはそうした特徴があり、深く根づいているのでそれを切り離すことに成功することはない。そして、それらを非自己と言うこともできない。過去においてさえ、我々はその特質を区別することができない。しかし、ここにおいても、障害は実際的で、感覚の曖昧さにあり、その本質にあるのではないと私は見なす。(1)そして、快感と苦痛は本質的に対象となり得ないという主張にはほとんど気をつけることはないだろう。この主張は理論の苦境から産み出されたものであって、事実の基礎づけを欠いており、無視することができる。しかし、決して非自己とはならない要素があることを信じる我々の理由は、我々の分割されない核にある剰余の感覚にある。私が言っているのはこういうことである。我々は内的な感情の固まりを分解することができ、そこに多くの要素を認めることができる。そして、他方、我々の感情は空っぽになることのない周辺識域を超えたものが含まれている。(2)感情は周辺識域を含むが、一般的な周辺識域の観念としてそれは対象となることができるが、その特殊性においては対象とはなり得ない。しかし、時折、この周辺識域は浸食される。そして、我々は、その本性上、非自己の侵入を堅くしっかりと制限するような点を想定するようなほんの僅かな根拠すらももっていないのである。

 

 

*1

 

 

 もう一度非自己の側に移ると、私は非自己の内容のすべてが単なる感情となり、背景にとけ込んでしまうと主張しているのではない。実際には決してそのようにはならない内容があるだろう。さらに、自己に対立する以外の方法では存在することのできない思考の産物が存在するかもしれない。私はそれを否定はしない。しかし、それ自体我々を困惑させる自己感覚のなかに一般的に思考の産物が存在するかどうかは疑問が残るということだけは言っておこう。私は結論に到達するが、一般的な帰結を強調するだけで満足することにしよう。自己と非自己の領域には、お望みなら、相互移動が不可能な特徴が認められる。しかし、その量はあまりにも僅かであるので、自己や非自己を特徴づけ構成することはできないのである。それぞれの要素の大部分は相互交換することができる。

 

 この地点において、いまいっている自己の意味と以前の意味と一致しているのかを調べてみるなら、答えは確かである。というのも、心的な個人に含まれているほとんどすべてのものはあるときには自己の部分であり、あるときには非自己の部分であることは明らかだからである。また、思考対象として、意志の対象として自己に対立して存在することのできない人間の本質を見いだすことも可能ではない。もし見いだされたとしても、その本質はある残余であって、個人をつくりあげるにはあまりに不十分なものであろう。そしてそれは、致命的な不整合性を受け入れることによって始めて具体性を得ることができる。内的な意志というのはそれ自体で反省を強いるには十分である。自己を好きなだけ深く内部にあるものと取り、中心に狭めることもできる。だが、その内容は自己に対立する場所をとり、あなたはそれを変えようと望むことができるのである。ここでは確かに、自己を究極的に閉じこめることや自己だけが存在する排他的な場をつくることができなくなっている。というのも、自己はある瞬間には個の全体であり、その内部に対立者やそれとの緊張関係が含まれている。そして、再びそれは一つの対立者であり、対立するものによって制限され、それに戦いを挑む。

*1:

(1)それを分析することはほとんど不可能だが、我々の感情的な心持 ちは対象 を美的に見ることもできることに注意せよ。

(2)この周辺識域の存在がどのように観察されるかは、ここでは議論 すること のできない問題である。主要な点は、我々が感じる自己とその 前にある対象との 不一致を感じとる我々の能力にある。この、自らの 反省と対象をつくりだすこと が--もちろん、曖昧な形のものなら、 過去の感情において常に可能なのだが--我々に還元されることのない 残余という観念を与えるのである。不一致を感じ取るこの同じ能力が 過去と現在の感情の相違や同一性を信じる根拠となる。しかし、この議 論の詳細は形而上学に属することではない。

ブラッドリー『仮象と実在』 47

      (しかし、自己にだけ属するような内容、非自己にだけ属するような内容があるだろうか。)

 

 発見可能な自己と非自己は具体的な集合(1)で、問題はその中身にある。本質的に非自己や自己であるその内容とはなんであろうか。多分、この探求を始める最上の方法は、対象になることがなく、その意味で非自己ではないものがなにかあるかどうか尋ねることだろう。確かに、我々はすべてのものを自分自身の前に据えることができるように思われる。我々は外側から始めるが、特徴ある過程によってより内向きな方向に向い、慎重で意識的な内省に終わる。ここで、我々はもっとも内的なものを自己の前に、自己とは反対のものとして置こうとするのである。一度にすべてをすることはできないが、熟練と労力があれば、一つ一つの細部を背景と感じられるものから切り離し、我々の前に置くことができる。いつか、遅かれ早かれ自己のすべての特徴が非自己に移されるかどうかは確実というにはほど遠い。しかし、大部分が非自己として捉えられることはまったく確かなことである。それ故、我々は自己に本質的に属するものは非常に少ないことを認めざるを得ないのである。では、理論的なことから実際的な関係に眼を転じてみよう。ここでは、私の意志や欲望の対象になることができないようなものが何かあるかどうか尋ねることとしよう。対象となるものは明らかに非自己であり、自己に対立する。もっとも内的で収奪できそうもない領域にまで入っていくことにしよう。内省は我々にあるあれこれの特徴をあらわにするが、それが異なったものになるのは可能ではないだろうか。我々が自分の内部に見いだすものはすべて、我々がしたり、考えられる限りでの反応に対立する区域であり非自己として感じられないだろうか。例えば、なんらかの僅かな痛みを取ってみよう。我々は曖昧で、もっとも内部の奥所で、不自然でかき乱された感覚をもつだろう。そして、その不安にさせるものに気づくことができるやいなや、我々はすぐさまそれに対して反応する。平静をかき乱す感覚は明らかに非自己となり、我々はそれを取り除くことを望む。そして、もしすべてのものが一度期に現実的に非自己とならないのだとしても、少なくともその例外を見いだすのは困難であるという結果は受け入れねばならないと思う。

 

*1

 

 では、関係のもう一つの側に移り、非自己がそれに矛盾するようななにかを含んでいるかどうか尋ねてみることによう。多くのそうした要素を見いだすのは容易なことではない。理論的な関係においては、すべてがいっぺんに一度期に対象とはなり得ないのは明らかなことである。ある瞬間において、いかなる意味においても、私の前にあるものは制限されているに違いない。それでは、私の精神から一時といえども完全に消え去ったわけではない非自己の残りはどうなると言えばいいのだろうか。私が言っているのは、私が特別な注意を払うことのできない環境の特徴のことではなく、私が自分の前にあるなにものかとして知覚し続けているもののことである。私が言及している特徴は、環境の水準以下にまで沈み込んでいるものである。それらは私の心にある対象の舞台装置や縁周りでさえない。それらは感情の一般的な背景以下にまで沈み、そこから、不明瞭な舞台装置にある異なった対象が分離されるのである。しかし、このことはときにはそれらが自己となることを意味している。恒常的に続く音が最適な例を与えてくれるだろう。(1)それは私の心の主要な対象になるかもしれないし、多かれ少なかれ明確な対象の伴奏であるかもしれない。しかし、さらに進んだ段階があって、そこでは感覚がなくなったと言うこともできないし、非自己としてあらわれる特徴がないというのでもない。それは多くの感情の要素のなかの一つとなり、自己が存在していたところに非自己が移されることになる。非自己がどれだけの割合となると不可能になるのかあえて尋ねはしないが、広範囲に渡っての交換が可能だというだけで十分だろう。同じことを実際的な面から見てみることにしよう。本質的に私に向かい合い、私を制限するような要素を固定するのが非常に難しいのは確かである。事実、実際的には私には決して関係しないように思えるものがある。また、ある機会に応じて私の意志や欲望の対象になるものがある。そして、もし我々が非自己に本質的なものをなにも見いだせないなら、すべては私の心に入ってくる限り感じられるものの部分をなすように思われるのである。しかし、もしそうなら、それはあるときには意志の対象となる集合に結びつくことになろう。かくして、再び、非自己は自己となる。

 

*2

*1:(1)魂が二つの集合に分かれると言っているのではない。事実それは可能では ない。以下に述べるところを見よ。

*2:(1)もう一つの例としては服からくる感覚があげられるだろう。

ブラッドリー『仮象と実在』 46

      (それぞれが具体的な集合である。)

 

 主体と対象が内容をもち、実在する心的な集合であることは私には明らかなように思われる。自我というのがこの、あるいはあの心的要素によって本質的に説明されるようなものでないということがしばしば語られるのは私も知っている。そして、ある用法ではこの種の言葉が擁護されることを私は否定しない。しかし、ここで考えているように、我々の考えているのが、ある所与の時間において魂に存在するのが見て取れる、対象と主体の関係ということで我々に理解されていることならば、問題はまったく変わってくる。自我が具体的な心的中身以前の、あるいはそれを超えたなにかだというのは、全くの作り事、怪物であり、どんな目的があるにしろ認められるものではない。このことは観察によって確かなものとなるだろう。知覚でも何でもお好みの事例をとってみれば、対象と主体との関係は事実として見いだされる。そこでは、対象が、いずれにしても、具体的な現象であることを否定する者はいないと思われる。それは心的な事実として、あるいはそのなかに存在するという性格をもっている。このことから主体のほうに目を向けたとき、それ以上の疑いの種があるだろうか。どの場合においても、他の心的存在はなくとも感情の集合が含まれていることは確かである。私が見る、知覚する、あるいは理解するとき、私(関係の私の側)は明白であり、多分痛々しいまでに具体的である。そして、私が意志し、欲望するとき、自己が特別な心的事実でないとするのは確かにばかげたことだろう。明らかに、我々が見いだすことのできる自己はどれも心的な存在としてなんらかの具体的な単一の形式をもっている。そして、それを離れた場所、あるいは背後にあるなにか(いま、あるいは任意の時間において)としたい者は、観察からその例証を得ることがないのは明らかである。彼は事実のなかに形而上学的キメラを導き入れているのであり、どんな意味でもそれは存在せず、なんの働きもすることができない。たとえ存在するにしても、それは無益よりもさらに悪いものだろう。