ケネス・バーク『歴史への姿勢』 52

... 自分の世界を「稼ぎだす」

 

 安逸をむさぼる暇などない。継承されたものはすべて新たに稼ぎださねばならない(さもなければ、疎外と堕落が始まる)。想像力なしに科学の教えを復唱する低能は稼ぎだしていないものを得ようとしているのであり、結果は落胆に止まる。人は自分の生を「官僚化」しようとする--たとえ部分的に成功するとしても、その過程は<彼にとっては>自己疎外ではない。それは彼自身の「先行するもの」に見合った「後続するもの」である。生の論理的に適切な完成である(想像的なものが種で、官僚化が果実である。「エンテレキー」における発達の二つの段階である)。しかし、我々は他者に自らの官僚化のある尺度を手渡す。手渡された者がそれを自ら「新たなものにする」確かな方法を見いださない限り、我々は継承においてそれを「失う」のである。官僚化は、「先行する者」が新たな「後続する者」のものにならない限り、不毛と死に等しい。

 

 <金銭>において官僚化される注目すべき洞察(抽象による簡略化で、<シンボル>の交換によって交易ができ、あらゆる商品を統一的な言葉、量的エスペラントでも言うべきもので「相関的な価値として定める」)は「自分の世界を稼ぎだす」という考えに最大限に「有効な」ものである。道徳性というのは基本的に、生産と配分の枠組みに根ざしているので(その「引力」は社会性の確固とした物質的側面から来ている)、資本主義の道徳性は金銭構造の安定性に依存していると同時に、資本家の必然として、常に金銭構造の安定性を破壊しようと脅かしている。それゆえ、「稼ぐ」というのは純粋に量的な考えになりがちである。

 

 かくして、「稼ぐ」ということと「疎外」との関係は、「雇用」と「非雇用」の平板な区別に単純化される傾向にある。しかし、「雇用」と「非雇用」は絶対的な対立ではない。それは単一の段階的な系列の諸相であり、そこでは人は常に多かれ少なかれ雇用され、多かれ少なかれ非雇用である。非雇用をより都合のいい「余暇」という名のもとに過ごす者は、自分の能力に充分見合った仕事を得ていない者のように、通常、神経症的な厳格さのもと自分の世界を「稼ぎだす」。正直な浪費家よりも、ギャングの方が「より十分な形で雇用されている」こともしばしばである。

 

 より広い意味における雇用の機会は、社会の座標がメンバーにとって最も根拠があるように見えるときに最上となる。そうしたときには、全体としての社会的目的との関係において位置づけることができるので、卑しい仕事であっても満足をもってすることができる。重要でない自分の役割を集団の目的に「同一化」する。そして、シンボリズムの架橋によって、自分の能力と機会とのあいだの「たるみをなくし」、自分を共同のアイデンティティに適合させる。かくして、主張と断念、行動と受動とが一つになる。社会そのものがばらばらである限り、それに比例して、こうした象徴的両義性の可能性は少なくなっていくのは明らかである。