断片蒐集 53 自己意識と原罪

thomas aitizer,The Genesis of God

統合された「私」というのは、ユートピアでしかない。分裂した私も病的になると厄介だろうが、もともと私には充填されることのない穴が空いている。

ナルシシズムユートピア的「私」 神と罪との関係

アウグスティヌスは神の「我」が一つの純粋な或いは単一の「我」であり、そこでは意志と存在の、あるいは行動と意志との合一があることを知っていただろう。それは我々の二分化された「私」とはまったく異なるものであり、というのも、神の意志が彼の存在と一つであるのに、我々の意志は我々の存在、我々の真の本質的な存在に向けられているのであり、それは我々が自らの個的存在の唯一の源泉であり、著者であろうとするからである。それは原罪の源にある自負であるが、そのような自己−中心的な意志は「存在」はせず、むしろそれは現実の実体化された無なのである。この実体化された無は我々にとって内的な現実であり、自己意識の最も十全な瞬間、自ら意志する瞬間、つまり、我々が内的な深みの力に気づく瞬間に我々にとって最も現実的なものになる。しかしそれらの深みは究極的には空虚な深みであり、それがある現実的無の、罪の現実性である現実的な無の実体化であるがゆえに空虚なのである。ネオプラトニストとして、アウグスティヌスは悪が幻影であることを知っていただろう。しかし、パウロ的なキリスト教徒として、彼は罪が全く堕落した意志であること、たとえその意志が形而上学的に存在の喪失、或いは不在であるにしても、内的には、それは完全な現前、罪の完全な現前であることを知っていた。