トマス・ド・クインシー『スタイル』15

 こうした惨事は、可能性としては全文明を脅かすものであり、このあり得べき危険はギリシャをして、その唯一の敵であるペルシャの安定さえ関心事とさせたのであるが──ギリシャと最北、西東にある未知の敵との間にある最大の抵抗勢力であるから──それはギリシャの未来についての予感と混じり合わないわけにはいかなかったが、アジアの地理的限界を知っている我々にはそれほど評価できないものである。古代人にとっては、それは厳密な意味において無限の可能性をもっていた。未知のスキタイからの恐怖というのは確かに曖昧ではっきりしない。だが、もし恐怖が取り除かれ痛みがなくなっても、それをもたらした原因は生き続け、危険は不確かな遠国から目を覆うばかりにふくれあがってくるだろう。そして、この確信はギリシャの想像力に働きかけ、ペルシャをアジアの果てしない砂漠から来る恐ろしい敵に対する共通の友人であるよりも敵と思わせることがしばしばであった。ヘロドトスが向き、その法廷に立っていたのはこのギリシャ集合体だった。この強い愛国的な考えは幾度か中断された。何巻にもわたって眠り続けていたこともある。だが、肺が空気でいっぱいになり、トランペットの弁は開かれ、オルガンの「電撃的な」響きがマラトンからの雹のようなコーラスを始めたときには、朗々と騒々しく猛烈に歌い上げるのが芸術家の仕事である。ここでヘロドトスが登場した。エルサレムに最初の寺院が建てられたとき、キリスト生誕の千年前、ダビデとソロモンの時代にギリシャで『イーリアス』ができた。この時代の帽子の鷲の羽根飾りはアジアからきた。当時のギリシャの最大の敵はトローアドでありアジアだった。ギリシャ全土はアジアに対して同盟し、『イーリアス』に描かれた災難の後に勝利を収めた。だが、トロイ戦争から五百年がたった。再びギリシャと外国の最有力者の間に戦争が起こり、ギリシャの敵は再びアジアと呼ばれた。だが、どのアジアか。『イーリアス』のアジアは海に接したアジアだった。だが、今度のアジアはペルシャを意味する。そして、その属国であるシリアとエジプトを合わせると、ペルシャは世界ηοικουμευηを意味したのである。ペルシャ帝国の国境はギリシャに「隣接」あるいは隣り合っていた。だが、キュロスによる革命の影響が大きく、海辺の基地を開拓することでペルシャがそのつまらぬ偏狭さを押さえることもなかったので、ギリシャは我が身にかかる巨大な力に沈みそうになっていたに違いない。一挙に、アジアのいまのトルコの全領域、つまり、アナトリアアルメニアのすべてはギリシャにとって中立的な勢力であることを止めるだろう。ティンブラの戦いで一挙に、ペルシャの軍隊はギリシャの入口の千マイルほど近くまできたのである。

 

 結果的には勝利に終わったが、この危険を考える必要があった。ヘロドトスは──彼の家族や近い先祖は、大王が準備している大規模な復讐が予想されるなかでサルディスから無思慮な攻撃を受けて震え上がったに違いない──若き想像力を東洋の巨大な力でいっぱいにふくらませ、ペルシャギリシャの勢力との恐るべき衝突の重要性を理解しようとしていた。旅行中彼は外国でこの栄誉ある結果が高く評価されているのを聞いた。彼は二つの宝を携えてギリシャに戻ってきた。二つの知らせをもっていた。一つは外国での素晴らしいものについての報告である。その新しさで、またその古さで興味深いもの、あるいは外国人に巨大な力を持つ機械だと驚かれているようなものなどである。そして、思い起こさねばならないが、ギリシャ人にとってはこれら外国だけが全世界だったのである。ローマはまだ幼少期で、イタリア以外では知られてなかった。エジプトとペルシャの属国だけが地図でギリシャの南を埋めるものだった。ギリシャ、地中海の島々、アドリア海の東部、マケドニアトラキアがヨーロッパだった。アジアは、まだローマによって狭く限定されていないので、ペルシャと同じ広がりをもっていた。そしてティグリス側のアジアとティグリスの向こうのアジアに分けることができた。黒海カスピ海が北の境界で、更に進むとするとオクサス川が北の、インダス川が東の境界である。サトレジ川パンジャブ、つまり現在英国の兵営があるルーディアナのあたりまでが大王の支配下にあると考えられていた。多分彼は、いまではシーク教徒の地である後期ランジート・シンまでの領域を有していた。そしてこの領域を越えた向こうは輝かしい空想の世界であるか、単調な野蛮さしかない退屈な繰り返しの世界なのである。

 

 ヘロドトスの個人的な旅行の報告のおかげで、そのとき存在すると思われていた地域の全図でしかないにしても(そのほかは彼らにとっては大島と小島の集まりでしかなかった)、地理を広げたが、それがこの偉大な旅行者がギリシャにもたらした二つの新事実のうちの一つだった。もう一つはペルシャ王との戦いについての話だった。地球はペルシャギリシャの二つの部分に分けられる。ペルシャでないものはギリシャであり、ギリシャでないものはペルシャである。ギリシャの旅行者は他方のことを一方に向けて書こうとしており、それを最近の酷い戦いに結びつけようとしたのである。ここに三度の世界一周から帰りたてのクック船長がいる。ニジェールとティンブクトゥからのマンゴ・パークがいる。ナイルのきれいな泉からブルースが、北極圏からフィリップ、フランクリン、パリーが、ムーア人の宮殿からはレオ・アフリカヌスが、プレスター・ジョン、タタール地方のシャム、そして

ムガル帝国のアグラとラホールから」

はマンデヴィルがいるようなものである。これはメダルの片側でしかない。裏側にあるのは、この愛国的な歴史家は断片的に聞いたことを記録しており、つながりがないということである。だが、古代においては全体的つながりを感じることがいかにまれであったか、パスポートによって得られる安全も、便利な舗装道路や旅館や馬車もない旅行がどれほど困難であったかを考えるべきである。この時代から五世紀がたった後でも、ローマの領域から離れた場所についてはほとんど知識が得られていなかった。また集まった聴衆の信じやすさといったら山を呑み込む割れ目のようであり、他方にピラミッドやナイル川から、ティルスから、バビロンから、ベルスの神殿から、帰りたての男、いまだ触れられていない畑のなかに鎌をもって入っていく旅行者がいたことを考えるべきである。一歴史家と考えられているこの同一の男が地球をいまだに揺り動かしている戦いについて語っている。この戦いで記念すべき勝利を収めた人々はそれを聞いている人々とたまたま同じであった。この栄誉ある戦争の指導者の名はすでに霊的な力をもっており、聴衆の父として遇されていた。これらすべての状況が一つに結び合わされ、軽薄な期待と過剰な権力に騒々しい要求がなされるという組み合わせは地球上、それ以前も以後も生じなかったことだと認めねばならない。ギリシャでももっとも内奥に、もっとも教育のない地に集められた人々がいて、彼らはクロコダイルやマングース並の扱いしかしない人間のもとでの生活に甘んじていた。そうした人々にとって公的演説が行われる年は生涯最高の年だったろう。聴衆は好奇心を満足させるだけの存在で、受動的中立的でいることができた。だが、戦争の歴史では、劇的な場面でもそうであるように、彼らは演者となった。この劇的な立場からは旅行者−歴史家も逃れることはできなかった。彼の作品は舞台芸術にあるような誇張で誦された。それは恐らく、耳を突き刺すような暴力的な、アリストファネスが「忌々しい」声と呼んだ轟くような声で、身振りを交えて読まれたことだろう。