トマス・ド・クインシー『スタイル』14

 それ故、散文を社会の初期状態において文が自然に取る形、あるいは可能な形と想像する者は間違っている。天空から降りてくる真理ではなく、地から湧き上がる真理だけが非韻律的な形式を可能にした。だが、社会の初期状態においては、人間の関心を引き、重要な心理はすべて天に結びついていた。もしそれが本来神聖な性格のものでなかったら、もし神聖さから重要性を借りれないなら、そういうときは逆の手順によって、その重要性から神聖さを借りたのである。農業の真理や田園生活の最も家庭的な真理でさえ宗教的インスピレーションと結びつけられて称揚され(ユダヤ預言者の偉大な幻視にあらわれる普通の台所用品のように)、栄光ある神聖化の容器となる。この社会の初期段階の人間にとってはすべてのものが神秘的で、寓意的な価値をもっている。いつでも人は神聖なもののなかを動いている。かくして、どんな教義、原則、真理の体系であろうと、それが伝達されることがあるなら、間違いなくその伝達は啓示の調子を帯びる。そして啓示の神聖さは最も熱情的な形式で表現され、多分音楽を伴っていたことだろうが、韻律が使われていたことは確かである。

 

 それ故、こう言うと奇妙に思われるかもしれないが、散文は一種の発明なのである。韻律という浮き袋なしに最初に泳いだ者は偉大な発明の才とはいわないまでも、少なくとも偉大な勇気は必要とされただろう。あなたやあなたの五十代前の先祖が散文を話すように話すのはいともたやすいことである。だが真理を熱情的に述べる道具としてあえて純粋な散文を最初に選んだ者はproecordiaに三重のoesがあったに違いない、。有り余るほどの毛の鬘と金の頭のついた杖を最初に棄てた医者でさえ<非常な>勇気を必要とした。伝統的な衣装のもつ堂々たる威圧感を脱ぎ捨てて、彼は本来の技術と良識に立ち戻った。散文というこのもろい船であえて最初に航海に出た豪胆な者は誰だったのだろうか。フェレシデスだと評判されているようである。だが、なにが価値がないといって、果肉も核もない空虚な皮に過ぎないこの名を想い起こすことほど価値のないことはなく、我々はヘロドトスを散文における最初の尊敬すべき芸術家と考えるのである。では、この価値ある人の散文についての見方はどういうものだったろうか。詩神の名のもとに数巻の「物語」を結びつけるやり方、彼の叙述のロマンティックなスタイル、ギリシャ文学で詩的言語となってきた言葉づかいをしているところから見ると、ヘロドトスは詩の領域と現代の文学では『アーサー王の死』のような作品が占めている全面的に非熱情的な散文との間の地峡に立ち、また立とうとしていたことはかなり確かである。トゥキュディデスにおいて、我々は厳格な哲学的散文の最初のあらわれを見る。そして、二人の作家には時期の隔たりがほんの僅かしかないことを考えると──時間の点から言うと彼らはドライデンとポープのような関係にある──彼らの特徴の相違を単に社会的発達の段階の違いに求めることは不可能である。当時若者であったペリクレスは、ヘロドトスが仕事からか好奇心からかアテネに来ることがあったら、彼を夕食に招いたに違いない。老人としてのペリクレスは集まりでしばしばトゥキュディデスに会ったに違いない。もっとも、このころまでには、「権力のために社交の楽しみ」を犠牲にすることで文学者を「養う」機会は少なくなっていただろうが。だが、一人の人間の公的生活に収まるくらいの短い時期における社会的洗練の進化がかくも驚くべき変化をもたらし、若い頃の友人がジョン・マンデヴィル氏のように書き、老年の頃の友人がマキャベリやギボンのように書くといったことを信じることができる者がいようか。いや、できない。二人の作家の間の相違は、ほんの僅かしか離れていない二つの時期のギリシャ文学の相違が反映されているというには違いが大きすぎ、生き生きしたヘロドトスは立派な半野蛮状態の世代に属し、瞑想的なトゥキュディデスは思索的、政治的、実験的な世代に属しているかのようなのである。だが、我々は彼らの個人的な趣味と気質の相違を見なければならない。彼らは、その本性上、本来もっている感受性の強い働きかけによって、異なった知性の体制に属している。ヘロドトスは古代のフロワサールだった。彼は聖戦を記録するために生きていた人間である。他方、トゥキュディデスは明らかにギリシャにおけるタキトゥスであり、(もし転生によって現代の歴史の彼に適した場面に生まれ変わるとしたら)フランス同盟の戦争、あるいは英国の議会の戦争、あるいはフランス革命から生じた巨大な闘争ということになろう。前者は自然の息子であり、偶然や悲劇的運命の強い力に魅せられていたが、古代においてはそれらが帝国を形成し、革命の流れを養うものだと見られていた。後者は政治的思索の息子であり、人間の心に流れる黒々としたものを明るみに出した。数十万の運命を委ねられた「邪悪な大臣」の頭にある陰険な動機、組み合わせ、筋書きや弁論家の命ずるところに動いてしまう国民を支配する嵐のような状態などである。

 

 だが、こうした主観的な相違がすべてではない。それぞれの作家の精神を別な対象に向けるような客観的な相違もあった。この二人の作家がそれぞれ同じ聴衆を相手にしていたと思う者がいようか。あるいは、同じ場所からそれぞれの聴衆に向かっていただろうか。前者は芸術家として効果を生むのに適した性質を沢山もっており、明らかに演劇的性格をもち、演劇的場所から聴衆に向かっていた。彼が得ようとしていたのは読者だろうか。いや、聞き手である。彼が向いていたのは、少ないがどこにでもいる知識人だったろうか。いや、どんな制限もない公衆だった。だがどんな公衆だろう。陰鬱で高慢な自己欺瞞によったラケダイモンの公衆でも、愛すべき虚栄心があり、礼儀正しく、愛想のいい、洗練されたアテネの公衆でもない。普遍的なヘラスの、地上のすべての文明を代表する八月会議の公衆だった。オリンピアで知られていない人間は、そこに自身であるいは代理人が出席しない者は、姫を自称しようが皇帝と自称しようが、正当に<無視してしかるべき人間>と主張でき、その存在には誰も注意を払わない、大審院によって<無視された>者なのである。この<五月祭>の代表者がヘロドトスが向いていた公衆だった。彼はどんな性格をもつものに向いていたのだろうか。彼が聴衆に帰している性格とはなんだろうか。自分自身をどんな性格をもつものと思っているのだろうか。彼が向いていたのは時に人間存在の一般的性格をもつものであるが、いまだ文明の網の目の中心に共通の関心をもっており、それはシシリーとカルタゴに始まり、リビア、エジプト、シリア、ペルシャイオニア一帯を通り、<人間>の威厳ある地域に終わる囲いのなかにあって、自由の故郷、真理と知的力の灯台、当時のすべてが集まっていた地域である。この集合体は古代人には現代のキリスト教国に相当するようなものとして漠然とではあるが認識されており、この囲いを越えた更に広い地域にあるスキタイ、インド、エチオピアという未知の領域に比較すると関心がまとまることが可能だった。この地域は、人に知られておらず、その外との関係が全くの暗闇に包まれているので、常に野蛮人の爆発的な氾濫の潜伏地として不安の眼で見られていたに違いなく、ほぼ百五十年の後、実際、アレキサンダーによってつくられたバクトリア(あるいはブハラ)のギリシャ植民地は呑み込まれたのである。あまりに突然、手際よく呑み込まれてしまったので、悲劇的カタストロフの単なる事実関係でさえ後の代になって届いたほどである。ヴェスヴィオス火山が噴火したときのポンペイ、ノアの大洪水が起きたときの世界のように、一夜にして訪れた驚きだった。あるいはむしろ、それは、長くまた多くの世代を経て見られ、確認され、記録されてきた星が、我々が天体を見続け、監視していた天体望遠鏡から突然に<消え失せている>ことが観察されたようなものである。消滅する一世界の苦悶はあっても、日月星辰は輝き沈黙している。無限の空間は無限の苦悶を呑み込んでしまう。多分、バクトリアの唯一の記録はスサからの急使の沈痛な報告だけで、彼は届けられなかった手紙とともに戻り、名もない川の渡し場につくと、あるいは荒れ地の前哨地までくると、後のアフガニスタン人やタタール人の先祖である強く名も知らぬ種族によってそこが占領されていたのだと報告したのだろう。