ブラッドリー『仮象と実在』 238

[有限な知識はすべて条件づけられている。]

 

 すでに述べてように、ある真理が観察に基づいているところではどこでも、明らかにどれだけのものが見逃されているか、観察されていないものが事物の大部分になるのかどうか見極めることはできない。しかし、もしそうなら、その真理は――それを「特殊な」といおうが「一般的な」といおうが違いはないが――無限定に誤っているかもしれない。偶然的なものは、あたかも本質的であるかのように見なされるかもしれない。この誤りは限定され得ない広がりをもって存在しているかもしれない。主語と述語が未知の要素の目に見えない干渉によって結びつけられていないと証明することはできない。この可能性を排除できるような方法は存在しない。

 

 しかし、偶然の誤りは、真の抽象が可能なところでは消え去るといわれるかもしれない。たとえば、数学的な真理の世界では少なくとも存在しない。我々の一般的な見解に対するそうした反論は、成り立たない。確かに、特殊な意味における抽象が可能な領域は存在し、そこで我々はいわばアプリオリから進むことができる。そしてその他の目的についても、この相違が非常に重要なことであり得ることは私も認める。しかし、ここではその重要性や性質および限界一般について考慮することはない。というのも、問題になっている点に関しては、相違は全体的に無関係なものだからである。抽象は(それがどんな起源をもつとしても)最終的には擁護しがたい。というのもそのどれもが真であるが、可能な間違いのそれぞれの量は未知のままに残るからである。主張される真理は実在そのものではなく、実在として取り得ない。それはなんら相違をもたらすものと想定できないので、抽象され残された諸条件の数々は取るに足りないものと扱われるので、背景は無視される。別の言葉でいえば、述語は本質的に主語に属すと捉えられ、撤回や変更されたかもしれない何者かのためにそうなるのではない。しかし、この種の想定は明らかに、我々の知識を超えでている。実在は消尽し尽くされることはないが、我々がそれ以上見ることができないことによって限定され、判断が依拠する未知の条件が至るところにある可能性がある。それゆえ、結局のところ、我々は偶然でしかないものをどこかで認めねばならないかもしれない。

 

 別の言い方では、こうした有限な真理は条件的なものでなければならないと述べねばならないのかもしれない。そうした事実や真理は実際には自律したものでもなければ、独立したものでもない。それらはすべて条件づけられており、最終的にはすべて未知のものによって条件づけられる。それらが条件づけられる範囲というものも不確かである。しかし、このことは、無限定な広がりにある有限な真理や事実が偶然的な現象だということかもしれない。別の言葉で言えば、もしその条件が満たされれば、その正確な形となって、消え去るということかもしれない。ある程度その本性を維持しているということのできる点を超えて変化や変容がなされるのかもしれない。ある事例においてどれだけ不確かさがあったとしても、どのような場合でもそれを絶対的に不可能なものだとは呼べない。あらゆる有限なものはそのほかに何かがある。その「なにか」の広がりと性質が確かなものとはなり得ないので、「なぜなら」ということは「もし」ということと違いがなくなる。未知の条件に恩恵を被っていないような有限なものは存在しない。

 

 有限な真理と事実は、すべて「仮定的」といえるかもしれない。しかし、この言葉を使うにしろ、「条件的」というにしろ、我々は誤った意味合いに向かうことからは身を守らねばならない。それらは(現在の我々の観点からすると)実在と現実的なものがあり、あるいはある確かな目的のためにあると考えられるひとつの有限な領域ではあり得ない。単に非実在と想定されたものの外部に存在や事実の領域があり得ることはない。一方において、実在は有限な存在ではない。他方において、あらゆる述語は――それがどんなものであれ――どちらも実在のなかにあらねばならず、実在を性質づけねばならない。(1)それはどんな主語がどれだけ変化しようと適用可能であり、そうした程度は、最終的には、どのような事例でも間違えることがあり得る。それゆえ、いずれにしろ、変更は無制限な変容にまで達する。それゆえ、有限なものは条件づけられたというよりも、条件づけるものというべきである。というのも、条件づけられた事物はその条件のために、揺るぎなく守られているように思えるからである。しかし、すでに見たように、有限なものの条件はまた別である。それらはいずれにしろその特殊な性質のなかに無限に消散してしまうだろうからである。

 

 

*1

 

 あらゆる有限な真理や事実は、ある程度において、非実在で虚偽のものでなければならず、最終的にそれがどれだけ虚偽であるかは知ることは不可能である。未知なものは無際限に広がり、あらゆる抽象は不確かで、観察されていないものの恩恵を被っているので、我々はそれを知ることができないのである。もし我々の知識が体系的であるなら、この事例は疑いなく変わってくるだろう。我々が全体によって付与される場所をすべて知っているならば、我々はなんであれそれがもつ真理と虚偽の正確な度合いを測ることができるだろう。そうした体系があれば、無知の広がる領域などはないことになろう。それゆえ、その内容すべてについて、我々は完全で隅々までの知識を持っていなければならない。しかし、こうした種類の体系は、確かに、その本質において不可能であるように思える。それらは知的な修正を受けやすく、その可能性がどれほどのものかは知られていない。我々の抽象の力は知識の異なった領域によって大きく異なっているが、有限な真理は(いかに到達されようとも)安泰なものと考えることはできない。それらについての誤りのすべては可能性の問題であり、程度の問題である。それらは完璧に近づくに従って相対的に真にまた力強くなっていく。

 

*2

 

 我々のはかりとなるのはこの完璧性である。我々の判断基準は個的であること、あるいは複雑な体系の観念である。上述の第二十四章で、我々はすでにその本性を説明した。そして、主要な原理では、大きな困難は存在しないとあえて考えた。困難はむしろ詳細に適用するときにより感じられるものである。内的な調和ともっとも広範囲にわたる原理は最終的には同一であり、具体的な統一という一つの観念が多様な側面をもっているだけなのである。しかし、そうした点についての議論については、読者は以前の章に戻らねばならない。

 

 事物がその正反対にあるときにより実在であることはより考えにくい。それは真理の部分である。しかし、他方において、対立物がより考えにくく、より不可能なのは、事物そのものがより実在で、より確からしく、より真であるからである。本質についての検証は(ここでもう一度繰り返すこともできようが)確かである。より強い、より体系的な、より十全に組織化された知識は、それといかなる点でも自己対立するようなことが不可能になってくる。あるいは、別の側面から見るなら、我々はその教義を次のように概略することができよう。ある観念や事実の知識の総量が大きくなればなるほど、直接的間接的に、それが誤っており、不可能であり、考えることができないという蓋然性を覆すことになるかもしれない。その誤り――誤りとはここで知的な修正を必要とするもののことを意味しているが――ほとんどあり得ないような有限な真理もあるかもしれない。

*1:

(1)第二十四章参照。

 

*2:(1)さらなる言及はあとでする。