ブラッドリー『仮象と実在』 198

[絶対的なものは善でもそうでないともどちらでもない。]

 

 それゆえ、明らかに善は全体ではなく、全体そのものは善ではない。かくして、絶対との関連から見ると、善も悪も存在せず、よりよいものもより悪いものも存在しない。というのも、絶対はその現象ではないからである。しかし(我々がくまなく見たように)、絶対が現象にあらわれ、その外部では実在ではないので、そうした真理そのものは部分的で、虚偽である。実際、それらすべては統一のうちにあるので、我々は絶対がそのどれかであることを否定できるのみである。他の側面から見ると、絶対は善であり、善と悪の多様な程度で全体にあらわれる。善の運命は、それ自体終結せねばならず、全体によって終結する。そして、この達成によって観念と存在は失われるのではなく、調和に至るので、全体はいまだ善である。また、完璧なものへの関係づけは、有限な満足をより高くもより低くもするので、絶対はそのすべてにおいて異なった程度として実現される。簡単にこの後の部分を扱ってみよう。

 

 前章において、我々は実在と真理の程度の真の意味合いについてみてきた。完璧から隔たりが少ないほどより完璧である。そして、隔たりは、現象が実在へと転じるために必要とされる再配列や負荷の量によって測られる。また、我々の原理は二重の側面をもち、二つの正反対の欠陥が現象において落ち合うことを見た。というのも、ある要素は、より狭く、より調和に欠けていると、存在として低次だからである。さらには、これら二つの欠陥がいかにそしてなぜ本質的に結びついているかも見た。善の方へ向かうと、我々は同じ原則が働いていることを一般的に観察することで満足せねばならない。より真であり、より実在であることの満足はよりよいものである。ここでもまた我々は、広がりと調和の二重の側面によって測る。(1)最終的には、完璧で完全な世界だけが我々の欲望を満足させる。より一貫した満足、より広く十全なものが、我々が休らうことのできる達成により近づくことになる。これら二つの側面から逸脱することは、外見上のことに過ぎず、単に我々の観点を一面的に限ることでしかない。というのも、外側から決定された満足は内的には調和のとれたものとなり得ず、他方、それが包括的になると、調和のとれたものになるだろうからである。この単一の原理を適用することは、自然に二つの異なった基準に分離する傾向にある。にもかかわらず、この原理は本質的に、また根底において同一にとどまり、至る所で絶対による評価となる。

 

 

*1

 

 それゆえ、ある意味において、絶対は現実上の善であり、実際、善の世界全体にわたって異なった満足の程度で実現している。究極的実在においては、あらゆる存在、あらゆる思考や感情がひとつになるので、宇宙のあらゆる特徴は絶対的に善だということさえできる。

 

*1:

(1)苦痛と快を評価する際には、我々は単にその程度と広がりだけではなく、その影響、一般的にそれらと切り離すことのできない諸性質を評価する。