ケネス・バーク『宗教の修辞学』 8

第六のアナロジー

 

 このアナロジーは、三位一体の意匠と「言語的状況」に潜む形式との顕著な相似に関係している。そして、この考察は、三位一体に関しては、父が力に、息子が知恵に、聖霊が愛に等しいことに基づく。

 

 第一に、ものとその名との関係を考えよう(木と「木」という語の)。力は木という語よりもむしろ木に、まずもののなかにある。しかし、語はこの力、このものに、ものについての「知識」として関係する。それゆえ、派生的に、語もまたある種の力をもつ(知識にある、正確な名づけにある力)。しかし、主に、力というのは物質、ものにあるものであり、それによって我々はなにかをつくったり、それを熱したり、それで撃ったりなどすることができる。

 

 アナロジーをもう一歩進めよう。三位一体の第一格が第二格を「生みだした」と言われるように、事物はそれを名づける語を「生みだし」、語を存在させたと言うことができる(事物本来の現実性が名前を求める)。

 

 つぎに、ものとものの名前の間にはある種の照応が認められる。象徴されるものと象徴との間には、ある種の一致あるいは交わりがある。我々が単に名前と名づけられるものとの関係を考えている限り、「照応」や「一致」といった概念的な言葉でも我々の目的には役立とう。しかし、三位一体が「人格」によって成り立っていると言われる限り、完全な照応にはそれに応じた人格的な用語に翻訳しなければならない。人格間の完全な交わりをあらわす語は「愛」である。

 

 また、第一の契機(事物)が第二の契機(適切な名前)の根拠を与えているというのではなく、二つの契機が一緒になって「照応」を形成しているのだとしてみよう。その場合でも三位一体のアナロジーは保たれ、第一格が第二格を「生みだし」ており、第三格は第一格と第二格との共存にあると言える。すなわち、事物と名前との事実上の照応は第一格と第二格との間の「愛」にその神学的なアナロジーを求めることができよう。

 

 ヘーゲル形而上学は神学に近しいので、同じような構造はヘーゲル弁証法にも認めることができる。否定的な特質を与えられた「テーゼ」はそれ自体「アンチテーゼ」を含んでおり————その共存が両者の交流である「総合」を含んでいる。この点について、次のように反論する者があるかもしれない。「しかし、ヘーゲルの『アンチテーゼ』は『テーゼ』と敵対的だが、神の子や語はむしろ『父のようなものと子のようなものの関係』としてある」と。

 

 実際、こうしたことは、アンチテーゼのしるしのもとにあった多くの十九世紀思考に当てはまろう。(例えば、公然とヘーゲルに抵抗していたにもかかわらずキルケゴールもそうした特徴を持っている。)しかし、対立という観念は対応物という観念を生みだすことができることを指摘するべきである。例えば、ギリシャ語では、

 

antistrophos(アリストテレスによって使われた弁証法の対応物としての修辞学を定義する言葉)

antimorphos(なにかの後に、あるいはそれに応じて形成されるものを意味する)

antitimao(返報としての栄誉を意味する)

 

 あるいは、それではあまりに遠くに行きすぎていると感じるなら、コールリッジの弁証法的な五元素では、「聖書」がテーゼに、「教会」がアンチテーゼに置かれていることを見てもいい。(コールリッジはヘーゲルの三幅対に「プロテーゼ」、「メソテーゼ」をつけ加えることで複雑なものにしている。)*

 

 

*1

 

 ヘーゲルへの言及は、以前に言及した時間的先行と論理的先行との関係についての注意事項として役立つ。(時間的、あるいは「叙述的な」先行とは、昨日、今日、明日、といった順序を意味する。論理的先行とは、三段論法の各部分の「同時性」のようなものを含んでおり、その場合、議論は第一の前提から、第二の前提を通って、結論に至るが、時間的な意味合いにおいてではない。)これ以上のことは後の章で述べることになろう。しかし、この間、三位一体の三つの項の相互関係を考えることで、その予告ともなるものを得ることができる。

 

 三位一体の第二格が第一格から「生じ」、第三は第一と第二からくると考えることを止めれば、出来事の位置づけに関する二つのスタイル(叙述的と論理的)の両義的な関係を見て取ることができる。我々は父親が時間において息子に先行し、「産出」を時間的に考えるけれども、正統的な神学者は父親が息子を「生みだした」というのは時間的に考えるべきではなく、父と子が一にして永遠なのだと説いている。むしろ、論理的な意味において、第一格が第二格に「先行する」のだと言うことができる(三段論法において、第一前提が第二前提に先行すると言われるように)。

 

 二つの「世代」にまたがる関係はこの両義性を含んでいる。父が子に先行するとも言えるが、両者は「同時」なのだと言うこともできる————親は子がある限りにおいて親であり、この意味では子が親を「つくる」とも言えるからである。つまり、論理的に言えば、父と子は相互的な項であり、それぞれが他を含んでいる。

 

 古来から、数多くの神学論争が、時間的順列と論理的順列という二種類の順列を転換する可能性を巡ってなされてきた。フローリスのヨアヒム(1145-1202)はこうした転換がいかにして起こりうるかをよく示す歴史理論を提示した。彼は歴史を三段階に分ける。

第一:父、法、文字の時代

第二:子、福音書(文字と精神を媒介する)の時代。

第三:聖霊の時代。

父の時代には服従が要求される。研究と知恵の時期である子の時代には、神秘的な洞察の後を懸命に追い、読み解くことに重点が置かれる。聖霊の時代には、修道院制が行き渡っており、祈りと賛歌への従事がある。

 

 明らかに、ここでは、三位一体の永遠なる格のあいだの関係が、歴史の進展という時系列に翻訳されている。もちろん、ヘーゲルもまた、その歴史理論を同じような両義性に基づいて打ち立てた。厳密に論理的な観点からすると、ヘーゲルの歴史は始まる前に終わっていた。そもそもの始めに「観念」のあらゆる可能性が含まれていた。しかし、自然と歴史によってこの「観念」が明らかにされるのは、一つ一つその論理的意味合いがあらわにされていくことだった。

 

 こうした手がかりに従っていけば、最終的には、「哲学的な」動機の用語法と「叙述的な」動機の用語法のあいだ、時間的順序と論理的順序とのあいだを行き来できる概念装置を作り出すことができ、「原理」による議論と「起源」による議論とをそれぞれの考え方に容易に翻訳できるようになり、詩的な発言のスタイルと哲学的な発言のスタイルとの距離が大いに縮まることにもなる。

 

*1:

*シェッド版によるコールリッジ「天路歴程についてのノート」(ハーパー&ブラザー、ニュー・ヨーク、1853年)V、256ページを参照。

現世的なものはすべてこの五元素、つまり、プロテーゼ、テーゼ、アンチテーゼ、メソテーゼ、ジンテーゼに還元することができる。次のような具合である。

 

 

プロテーゼ

言葉--キリスト

 

テーゼ メソテーゼ アンチテーゼ

聖書 聖霊 教会

 

ジンテーゼ

伝道者

 

 『反省のために』(シェッド、I、218-219)で彼は書いている。

普遍的な認識をあらわすには、より包括的で、それほど特殊でない言葉が必要になるが、そのとき、認識の五元素は恐らく次のようになるだろう。

 

プロテーゼ

Sum

 

テーゼ メソテーゼ アンチテーゼ

Res Agere Ago,Patior

 

ジンテーゼ

Agens

 

 そこで、彼はこの劇的文法を相当な長さに渡って論じている。