ブラッドリー『仮象と実在』 237

[知識は条件づけられているか絶対かで、そうしたものは不可能である。]

 

 しかし、我々はこれによって、絶対的な知識と仮定的な知識との境界線を渡ることになった。実在はそれ自体にあらゆる経験を含むひとつの体系であり、この体系そのものが経験である――その限りで、我々は絶対的に無条件に知っているといわれるかもしれない。(1)この点については、我々の判断は間違いようがなく、それに反論することはまったく不可能である。別の言葉で言えば、偶然の誤りはまったくない。しかし、この境界の外側では、あらゆる判断は有限で、条件づけられている。そしてここで、不完全なために、あらゆる真理は多かれ少なかれ誤っている。そして、大量の不完全なものが未知のままに残っているので、いずれの場合も、判断を破壊するようなところまで行くことも考えられる。正反対のものはもはや絶対的に不可能だというのではない。しかし、この点からしても、相対的に不可能なものと条件に従属するものが残されるだけである。

 

 

*1

 

 その本性がそれ自体のなかに含まれているときには、それは絶対である。その存在のあらゆる条件がそのなかに含まれているとき、それは無条件である。いかなる対立もまったく考えられないとき、それは誤りという偶然から自由である。そうした性格は、実在は経験でありひとつであるという言述に属している。というのも、それらの真理は従属的なものではなく、全体としての実在に関する一般的真理である。それらは無尽蔵であり、輪郭においてその本質を与える。別の言葉で言えば、実在はそれら以上のものであるが、常に同一以上のものである。観念においてそれに付け加えられるものはなにも存在せず、理解をしたときにも、それをそうした一般的真理に収めることは失敗する。それゆえ、あらゆる疑いやあらゆる偶然の誤りは無意味なものとなる。誤りや疑いは従属的で有限な領域にのみ場所を与えられ、全体の性格によって規定された限界の内部にある。他者は、いかなる他者も何ものでもないところでは何の意味ももたない。他者はいまはまだ考慮されていないかもしれないが、結局のところ考慮されうるものとなるだろうと主張しても無益なことである。不可能がいまだ見いだされていないもの以上のものでないと反論しても無駄である。というのも、我々は欠如や失敗は常に実在の外側にあるものを含んでいることを見てきたからである。そうした外側の領域はここでは意味がない。「見いだすかもしれない」というのは慎ましやかに聞こえるが、それが見いだされるかもしれない領域を肯定的に仮定している。ここで仮定は自己矛盾し、その矛盾とともに疑いの本体も消え去ってしまう。

 

 真理の判断基準は対立によっては考えられないものかもしれないが、そうした無能力が意味することを知るのは本質的なことである。この絶対や相対的ということは、どれだけ欠如や単なる失敗によるものなのだろうか。事実、我々はここでもう一度、不可能性という意味についての我々の観念を明確にしなければならない(第二十四章、二十六章)。不可能は絶対的であるか相対的であるかなのかもしれないが、決して我々の無能力に直接的に基づいていることはあり得ない。というのも、事物は、確実な知識に常に矛盾しているために、常に不可能であるからである。知識が相対的であるところでは、その知識が多かれ少なかれ我々の無能力に条件づけられていることは確かである。それゆえ、この無能力を通じて、不可能性は多かれ少なかれ弱まり、条件的なものとなる。しかし、それは決して単純な失敗によってつくりだされるものでもなければ、それに依存するものでもない。最終的には、私はできないという事柄ではなく、妨げられているので、「できないはずだ」といわねばならない。

 

 絶対的に不可能なものは実在の既知の本性とは矛盾する。この意味において、不可能なものは自己矛盾である。実際、その行為において知らず知らずのうちに肯定していることを否定しようとしている。ここで我々の実際の知識はすべてを包括するものなので、外部にはなにも残り得ない。この知識の外部には、我々の無能力だけが落ち込むことができる空虚な空間があるだけである。そしてすべての無能力や失敗は既知の世界で想定されそこに属している。

 

 相対的に不可能なものは、知識のどのような従属的断片にも矛盾する。我々が真とするなにかがなければ、それだけでは屈することさえできない。不可能性は、それが戦う知識の力に応じて、程度において異なるだろう。そして、ここでも繰り返すことになるが、それは我々の失敗や無能力からなっているのではない。別の言葉で言えば、不可能なものは見いだすことができないために、排除することはできない。我々がそれを見いだし、確かな知識と衝突することを見いだすから排除されるのである。しかし、他方において真なのは、ここでの我々の知識が有限で、誤りやすいということである。我々の無能力と無力を考えるとそれは条件的なものでなければならない。

 

 この最後の点に戻る前に、私は同じ真理を別の側面から繰り返してみよう。事物は正反対が不可能なときに、そしてその限りいおいて、実在である。しかし、最終的にはその正反対は不可能であり、というのも、その限りにおいて事物が実在だからである。なにものかがある量の実在を有しているとき、その限りにおいてその正反対を考えることはできない。別の言葉で言えば、可能性の領域が少なくなればなるほど、本質的にそれを換えるような可能なものは少なくなる。さて、我々が絶対と呼ぶような真理の場合、可能性の領域は使いはたさられている。実在が存在し、実在の反対物は欠如しているのではなく、絶対的な無である。そこには外部はあり得ず、というのも常に内側にあるものがすべてだからである。しかし、従属的な真理についてだと事例は変化する。それらは自律的なものではなく、部分的には未知で、ある程度我々の無能力に依存していることが確かなものによって条件づけられている。しかし、他方において、その真理と力の評価基準は肯定的なものである。それらが整合的で広範囲にわたるほど――体系の観念を十分に実現していればいるほど――それらは実在であり真である(1)。そして、それらを破壊することがより不可能になる。対立は、肯定的な実在との戦いに従って、その比率に応じて考えられなくなる。

 

*2

 

 我々はある真理は疑いようもなく確かで、残りのもの――従属的な真理のすべて――は多様な程度の間違いに従っていることを見た。真だとされる有限な真理は多かれ少なかれ変更されなければならない。まったく変わってしまったといわねばならぬほどの広がりをもつ変容が要求されるかもしれない。第二十四章において、我々はすでにこうした考え方は確実なことを示したが、もう一度、有限なことについての我々の間違いやすさを主張しておこう。私が主張しようとしている一般的な考察とは次のようなものである。あらゆる有限な真理には、未知の広がりをもつ外的な世界がある。無限定な外部が存在するところでは、可能な諸条件を含んだ不確かな世界があるはずである。しかしこのことは、有限な真理は実際にはまったく別の仕方で条件づけられているかもしれないことを意味している。このことを簡潔に試してみよう。

*1:

(1)この発言は以下で修正されるだろう。

 

*2:(1)この議論を通じて、読者は第二十四章の教義を知悉していることが想定されている。